孝文帝崩御
 
皇后御乱行 

 建武元年に南伐に出かけてから四年間、孝文帝は都を留守にしていたので、馮后は宦官の高菩薩と密通した。(宦官と密通?誤魔化して男根を切らなかったのだろうか?)
 永泰元年(498年)、孝文帝が懸瓠で病気になると、馮后はますます放埒になり、中常侍の雙蒙等を腹心とした。
 彭城公主は劉永(「永/日」)の息子に嫁いだが、後に母の弟の馮?から求婚され、孝文帝はそれを許した。公主は気が進まなかったが、馮后は強制する。そこで彭城公主は、雨風を冒して懸瓠へ出かけ、孝文帝へ直訴すると共に、馮后の所業を全て暴露した。だが、孝文帝は半信半疑で、これを自分の胸の中に秘めておいた。
 これを聞いた馮后は、始めて懼れた。そこで、母親の常氏と共に、密かに巫蠱を行った。この時、巫術師へ、彼女は言った。
「もしも陛下の病気が回復しなければ、私はかつての文明太后(馮太后)のように幼帝を輔けて政治を専断できます。そしたら褒賞は思いのままですよ。」
 永元元年(499年)。帰京した孝文帝は、高菩薩と雙蒙を捕らえて尋問し、事実を知った。しかし、馮后は文明太后の姪なので、罰するに忍びず、幽閉するに留めた。 

  

孝文帝崩御 

 この頃、斉の陳顕達が魏の元英と戦い、屡々魏を打ち破っていた。孝文帝は、親征しなければ治まらないと考え、病身をおして出征した。これを撃破して、洛陽へ戻る。
 帰京の途上、孝文帝の病状は更に重くなった。穀唐城にて、孝文帝は司徒の彭城王(「/思」)へ言った。
「後宮は、悪行が酷い。我が死んだら自殺させ、皇后の礼で葬ってくれ。」
 又、言った。
「我の病状は、益々重い。もう、今度こそダメだろう。今回、陳顕達を撃破したが、天下を平定したわけではない。まだ、皇太子は幼少だ。社稷はただ汝にかかっている。霍光や諸葛孔明は、皇室の一員でもないのに孤児を託された。ましてや汝は親族で賢人だ。どうか努めてくれ!」
 彭城王は泣いて言った。
「庶民でさえ、己を知る者の為に命を懸けました。ましてや臣は陛下同様先帝の霊を蒙り(単に「陛下の兄弟で」と表現するよりも、かなり強いインパクトを感じたので、判りにくい表現ですが逐語訳してみました。原文は「臣託霊先帝」)、陛下との御縁で栄達したのですぞ!
 ただ、臣は陛下の同母弟として長い間政治の中枢に座し、海内随一の恩寵を受けて参りました。本来ならば身の程を知って退かなければならないのに、それでも辞退せずにこれを受けておりましたのは、陛下の日月にも等しい聡明さを恃んでおればこそでございます。陛下なればこそ、謙譲を忘れました臣の過をお許し下さったのでございます。それが、今、更に元宰の地位に登って政治を全て掌握したならば、その威勢は主君を脅かし、結局は罪に落とされてしまうことは明白でございます。
 昔、周公は大聖人でしたし、成王は賢人でした。にもかかわらず、周公は簒奪を企んでいるとゆう嫌疑をかけられてしまったのです。ましてや臣など、尚更でございます!
 そのようですので、陛下が臣を愛して下さっても、有終の美を飾ることができません。」
 それを聞いて孝文帝は黙然としてしまったが、ややあって、言った。
「汝の言葉を熟慮したが、実にその通りだ。」
 そこで、自ら皇太子への詔を書いた。
「汝の叔父のは、澄んだ水の如く清廉で白雲の如く潔白だ。栄華を厭い邪念を棄て、松竹のような心を持っている。我は幼い頃から彼を身近にしていたし、未だに離れる気持ちにならない。我が死んだら、彼の言葉に従って、これを隠居させよ。それでこそ彼の思いは遂げられるだろう。」
 そして、侍中の北海王詳を司空に、鎮南将軍王粛を尚書令に、鎮南大将軍廣陽王嘉を左僕射に、尚書宋弁を吏部尚書に任命した。彼等と侍中・太尉の咸陽王禧及び尚書右僕射の任城王澄の六人を輔政とした。
 四月、孝文帝は穀唐城にて崩じた。享年三十三。廟号は高祖。 

  

高祖の美徳 

 高祖は諸弟を慈しみ、猜疑の入る隙間がなかった。かつて、高祖は従容として咸陽王禧へ言った。
「もしも我が子孫に不肖の者が顕れたなら、どうか汝等で輔導してやってくれ。だが、どう輔導してもなおりようがなかったならば、その地位を奪ってくれ。決して我が社稷を他人へ奪われてはならないぞ。」
 水が低きに流れるように善に従い、庶務に精勤して朝夕倦まなかった。
 孝文帝は、常に言っていた。
「人主は、公平な心を持ち誠意を押し広げることを心がけねばならない。この二つさえこなせたならば、 胡人や越人でさえ、兄弟のように使うことができるのだ。」
 法律を適用する時は峻厳で、大臣相手でも容赦しなかったが、小さな過失に対しては、常に寛大だった。ある時、食事の中から虫が出てきたことがあったし、又ある時には左右が羮を進める時に粗相をして高祖の手を火傷させたこともあった。だが、どちらの時にも笑って赦した。
 天地五郊や宗廟二分の祭の時は必ず自ら執り行った。
 巡回や遊興や出兵で外を出歩く時、役人が道路を補修しようと上表すると、高祖は必ず言った。
「車馬が通れるように、橋や梁を補修しておけばよい。必要以上に綺麗にしようと、雑草を刈り払ったり地ならしをさせたりして民を苦労させてはならないぞ。」
 淮南へ出陣した時も、国内にいるようだった。兵卒達の略奪を禁じ、民へ労役を命じざるを得ない時には、必ず絹を与えて贖った。
 宮室は、やむを得ない時しか補修しなかった。衣服が傷んでも繕って着た。鞍勒は鉄と木だけで造った。孝文帝の質素倹約なことは、皆、この類だった。
 武芸については、幼い頃から弓が巧く、指弾にて羊骨を砕くことができた。禽獣を射てて百発百中だったが、十五になってからは狩猟をプッツリと止めた。
 史官へ対しては、常に言っていた。
「事績は正しく書き残せ。人君は絶対の権力を持っていて、誰も逆らえないのだ。もしも史官までが筆を曲げて、その悪行をもみ消したならば、一体何を畏忌するというのか!」 

  

皇太子即位 

 さて、陳顕達は去ったけれども、まだ遠くまでは行っていなかった。彼が再び来襲することを慮り、彭城王と任城王澄は孝文帝の喪を隠した。孝文帝の遺体は輿の中に安置し、まだ病床に伏せっているように振る舞う。孝文帝の崩御は、二王の他、左右の数人しか知らなかった。彭城王は、皇帝の輿への出入りの際も全く平然としており、食膳や薬を勧めるのも、平常通りに見えた。
 数日して御輿は宛城へ入ったが、皇帝の崩御は誰も気がつかなかった。ここで、中書舎人の張儒を派遣して、皇太子を呼び寄せ、洛陽の留守役の于烈へも凶問を密かに告げた。于烈は留守の大役を務めていたが、その挙動は全く普段の通りだった。
 皇太子が魯陽へ到着すると、ようやく喪を発して、皇太子は即日即位した。これが宣武帝である。
 彭城王は、宣武帝の前に跪くと、孝文帝の遺勅数枚を献上した。もともと、東宮の幕僚達は、彭城王が帝位を狙っているのではないかと疑っていたので、暗殺を危惧して密かにこれを邪魔しようとした。しかし、彭城王が誠を推し礼を尽くしたので、完遂できたのである。
 咸陽王禧は、魯陽へ到着すると、暫く城外に留まって変事が起こるかどうか見極めてから入城した。この時、咸陽王禧は、彭城王へ言った。
「お前がやったことは、努力が必要だっただけではなく、実に危険なことでもあったのだ。」
 すると、彭城王は答えた。
「兄上は、年長で学識もありますので、その危険が判ったのです。私は愚昧ですから、蛇の舵を取り虎に跨っていても、艱難と判らなかったのです。」 

  

馮后崩御 

 彭城王等は、高祖の遺詔に従って、馮后へ死を賜った。
 この時、北海王詳の命令を受けて、長秋卿白整が馮后へ毒酒を賜った。すると、馮后は飲もうとしないで喚き散らした。
「陛下がそんなことをなさるものか。諸王が妾を殺すのだろうが!」
 そこで白整は、馮后を抑えつけて、無理に飲ませたのだ。
 馮后崩御の有様が洛陽へ伝えられると、咸陽王禧が言った。
「詔がなくても、我等兄弟で決行していた。あんな淫婦に天下を専制させたら、我等を殺すに決まっている!」 

  

重臣の処世 

 宣武帝は、彭城王を宰相にしようとした。だが、は孝文帝の遺詔を陳情して隠居の素懐を遂げようとした。宣武帝は、を目の前にして悲慟したが、は懇願してやまない。そこで、とうとう宣武帝が折れた。その代わり、彭城王を使持節・都督冀・定等七州諸軍事、驃騎大将軍、開府儀同三司・定州刺史とした。
 はなおも固辞したが、宣武帝は許さなかった。 

 前述したように、任城王澄は右僕射、王粛は尚書令となった。斉から降伏してきた王粛の方が、任城王よりも官職が上なのだから、任城王はひどく不満だった。
 そんな矢先、斉から亡命してきた厳叔懋が密告した。
「王粛は、江南へ逃げ帰ろうと画策しています。」
 そこで任城王は王粛を弾劾したが、調べてみると事実無根だった。咸陽王禧等は、任城王が宰輔を妄りに告発したとして、ヨウ州刺史へ左遷してしまった。 

(胡三省、曰く) 

 史書を閲するに、任城王の才略は、魏宗室の中でも飛び抜けている。太和年間に朝廷で大論争が起こった時も、彼が一人で纏めたようなものだ。だから、孝文帝でさえも、上辺でこそ彼を厚遇していたが、その実これを憚っていた。ましてや咸陽王禧程度の人間が、何で平気でいられるだろうか!これは、王粛の件を口実にして彼を追い出したに過ぎない。
 しかしながら、皇帝が幼く、国から疑われているのだから、澄は殺されなかっただけ幸いだったと言えるだろう。 

  

禍は芽生えた 

 宣武帝の生母の高氏は、建武四年に卒していた。(※)
 六月、高氏は文昭皇后と追尊され、高祖へ配饗された。彼女の塚も増修され、終寧陵と号された。
 皇后の父へも渤海公の爵位が追賜され、嫡孫の高猛が襲爵した。皇后の兄の高肇を平原公へ封じ、その弟の高顕を澄城公に封じる。一日にして三人が同時に封じられるとゆうのは希有の事だった。
 宣武帝は、それまで舅達へ会ったこともなかった。彼等が始めて謁見した時、三人とも惶懼して震え上がったものだったが、数日のうちに豪奢な生活が板に付いてしまった。 

  


 建武四年、正月。魏では皇子恪を皇太子とした。
 七月、昭儀の馮氏を皇后に立てた。
 馮皇后は、恪を養子にしたがった。恪の母親の高氏は、代から洛陽へ赴く途中、急死した。 

 以上が、高氏が卒した顛末です。以前、”皇太子が立った時、風俗に従って、その生母へ死を賜った”とゆう記述がありました。恂の立太子の時にも母親に死が賜られました。ですが、この恪の母親の時に限って、まるで馮后が個人的に殺したように記述されています。
 今までの北魏ならば、高氏が殺されるのも、恪が馮后の養子になるのも、当然の風習だったのですが、わずか数年のうちに孝文帝の中華政策が功を奏して胡風が消えたのでしょうか?それとも、馮后の悪行が酷すぎて、従来の風習が彼女の悪行と思われたのでしょうか?資治通鑑の本文だけでは判別がつきかねます。