胡太后時代
 
北辺の守り 

 天監年間、北辺の鎮将は軽々に推挙されるようになっていた。
 天監十五年(516年)。任城王澄は賊虜の侵入を恐れ、重鎮の将軍を派遣して警備を厳重に修めるよう上奏した。そこで、公卿にこれを協議するよう詔が下りた。
 すると、延尉少卿の袁翻が言った。
「近年、辺域の州郡長官は、才能よりも官位や情実で選任されるようになりました。ですから、あるいは貪汚な人間が広い地域を守り多くの兵卒を指揮下に置いたり、側近の姻戚が抜擢されたり、賄賂で属官が選ばれたりしております。彼等には外敵を防ごうとゆう志などなく、ただ財貨をかき集めることしか考えておりません。
 彼等は、麾下の武勇自慢の兵卒には略奪を命じます。それで獲物があったら自分の懐へ入れますが、もしも強敵に出会ったら、兵卒達はたちまち奴隷となってしまうのです。老弱の兵からは武器を取り上げて横流しし、無防備となった彼等を労役にこき使います。
 辺域司令の俸禄は知れた物。財貨も限られています。ですから彼等は兵卒の兵糧をピンハネし、配給品を懐へ入れ、挙げ句の果てに酷使するのです。ですから兵卒達は薄い着物しか着られず、満足に食事もできず、その上でこき使われる。これに冬の寒さや疾病が加わると、もう耐えられません。こうして、兵卒の七・八割が野垂れ死んで行くのです。
 この実情を知っておりますので、隣敵は隙を窺って来寇してくる。辺境で戦闘が絶えないのは、実に長官が不適任だからに他なりません。
 愚見を申すならば、今後は南北辺の諸藩やその麾下の郡県の府佐、統軍から戍主へ至るまで、皆、朝臣や王公へ推挙させるべきでございます。その基準は、あくまで才覚。官位など問題にしてはなりません。それで、もしも彼等が敗北した時には、推挙した人間にも懲罰を加えるべきでございます。」
 しかし、太后はこの意見を採用しなかった。やがて正光の末年になると、北辺で盗賊が群起するようになった。この盗賊達は、遂には旧都へ迫り、山陵まで犯した。全て、任城王の予見した通りだった。 

  

信心 

 当初、献文帝は瑶光寺を建造した。
 十五年、十一月。その瑶光寺がまだ完成もしていないのに、胡太后は永寧寺を建造した。また、伊闕口に石窟寺を建造する。どれも土木の美を極めていた。
 なかんずく、永寧は最も盛大で、高さ一丈八尺の金の仏像や、玉の像等があった。九層の塔は地面を掘って基礎を築き、地下は黄泉に届いている。その塔は高さ九十丈。その上に十丈の相輪が立っている。静かな夜は、鈴鐸の音は十里も響いた。仏殿は太極殿のようで、南門は端門のようだ。僧房は千間。珠玉や錦繍は人の心を驚かせた。仏教が中国へ伝来して以来、これ程盛大な塔廟は、かつて聞いたこともなかった。
 揚州刺史の李祟が上表した。
「高祖が遷都してから三十年になんなんとしていますが、未だに明堂も修められておらず、太学も荒廃し、城闕府寺も多くが壊れたままであります。これでは国威が高揚されません。今、国士には学官の名があって、教授の実がありません。どうやって学問を興しましょうか!
 二兔を追う者は一兔を得ず。ですから、物には進退がございます。どうか雕靡の造作をおやめください。永寧寺の土木を中止し、瑶光寺の材瓦を減らし、石窟寺の労役を分けて、その至誠を火急ではない諸々の事役まで押し広げられますよう。その上で、農閑期の労役で国容を顕著にすれば、礼は大いに興ります。なんと素晴らしいではありませんか!」
 太后はこれを褒めたけれども、その意見は採用しなかった。
 太后が仏事を好んだので、それが風潮となって、大勢の民が出家した。一人息子が沙門になり、跡継ぎが絶えた家も多かった。そこで、高陽王の友の李陽が上言した。
「三千の罪の中で、不孝ほど大きい物はなく、最も大きな不孝は跡継ぎを絶やすことです。
 仏法にばかり夢中になって背礼の情に軽々しく従い、我が身は家をすて老いた親は放ったらかし。当世の礼を棄てて将来の利益を求めるなどとゆうことが、どうして許されましょうか!
 孔子は言いました。『我は未だ生を知らない。どうして死を知れようか』と。堂々の政を棄てて鬼教に従うなどとゆう法がありましょうか!
 又、今は南朝の動きも活発ですし、労役も多い。出家する百姓の本音は、単なる労役逃れです。もしもこれを許していれば、やがて孝慈はなくなり、国民全員が沙門となってしまいますぞ。」
 この中で、仏教を指して「鬼教」と称していたので、都統の僧進等が、仏を誹謗したと太后へ泣きついた。太后がこれを責めると、李陽は言った。
「天を神と言い、地を祗と言い、人を鬼と言います。伝にも申します。『人が己を律する時に、明白な基準としては礼楽があり、隠微な規矩として鬼神がある。』と。つまり、明白な物を堂々と言い、隠微な物を鬼教と言うのです。仏は、元々人間でしたので、これを鬼と称しました。別に誹謗したわけではありません。」
 太后はその筋道に納得したが、僧進等の意向ももだし難く、一両の罰金を課した。 

  

 

 かつて、高祖は銭を流通させようと、太和五銖銭を鋳造させた。各地の鋳造所へ銭工を派遣し、銭の鋳造をしたがっている者は、民間人でも官に就けた。その銅は必ず精錬させ、混ぜ物は一切認めなかった。
 世宗の永平三年、五銖銭を再び鋳造し、規格外の銭は使用を禁止した。
 やがて、洛陽や諸州鎮で各々独自の銭を使用するようになると、交易に支障を来すようになった。十六年、尚書令の任城王澄が上言した。
「銭の禁令は律に明記してありますが、それが規定しているのは鶏眼(まるで鶏の眼のように、薄っぺらで小さい銭)と鐶鑿(銅を削り取るだけ削り取って、ほんの僅かしか銭肉の残っていない銭)のみで、それ以外の物は禁止しておりません。それなのに、河南の諸郡では昔ながらの禁令を墨守しております。ひそかに愚見しますに、これは誤りでございます。又、河北では既に新銭が枯渇しているのに旧銭の使用が禁止されていますので、銭の代わりに布帛を使った物々交換が行われています。その為、布は匹を裂いて尺となって流布しますので、民は飢寒の苦しみを免れません。銭が流通しますと、秤も尺も要りませんし、携行も便利。その恩恵は実に深い物があります。どうか諸鎮が新鋳銭と共に旧銭や別の地方で鋳造された銭も全て流通を許可して下さい。銭の内外や大小の違いはありますが、各々の銭の間の貴賤は各々の土地々々で交換の比率を決めればよいのです。諸貨が海内に行き渡れば、民にとって大きな利益。ただ、鶏眼、鐶鑿や偽造、銭の銅を削り取って新造するなどの不正行為についてのみ、律に據って罰しますよう。」
 詔が下りて、裁可された。ただ、河北地方は相変わらず銭が不足していた。民間では物々交換が主流で、銭は市へ流入しなかった。
 十二月、王屋等が銅の採掘と鋳銭を請願した。尚書の崔亮が、取り次ぎ、認可される。これ以後、民間での私鋳がふえ、銭はいよいよ小さく軽くなり、銭の価値は益々下落した。
(この時、南朝も北朝も、銭の価値が下落している。ご時世か!) 

  

まず、名を正せ 

 四月、胡国珍が司徒になった。
 十七年、四月。胡国珍が卒した。仮黄鉞、国相、都督中外諸軍事、太師が追賜され、太上秦公と号される。その葬儀は、制度を超えて非常に盛大だった。又、太后の母も胡国珍と合葬され、太上秦孝穆君と称された。
 今までは、后の父親へ「太上」の称号が与えられたことはなかった。諫議大夫の張普恵は、人臣へ「太上」の称号を与えてはならないと上疏したが、左右はそれを握り潰した。そこで張普恵は、胡太后が葬儀へ出た時、密表した。
「天に二つの太陽はなく、天下に二人の王はおりません。『太上』の称号は、『上』から生まれたものですし、皇太后の命令は『令』と言って、『敕』よりも一段下がるものとされております。今、司徒へ『太上』の称号を与えることは、天下へ二人の王を生むことに他なりません。孔子は言いました。『まず、名を正せ!』と。どうか、今回の『太上』の賜下は思い留まって下さいませ。」
 胡太后は、自ら胡国珍の屋敷へ出向くと、五品以上の公卿を集めて協議させた。すると、彼等は皆、太后の意向へ阿って、張普恵を論駁しようとしたが、張普恵は知略を尽くして言い返し、屈服しなかった。そこで、胡太后の命令を受けて、元乂が皇帝の言葉を張普恵へ伝えた。
「朕が行うのは孝子の志である。卿が陳述したのは忠臣の道であるが、群公の協議によって既に結果は決まっており、卿がどのように力を尽くしても、朕の思いを変えることはできない。後に報いることがあるだろうから、もうこれ以上何も言わないでくれ。」
 太后は太上君の為に寺を造った。それは永寧寺のように壮麗だった。 

 ここで、張普恵のエピソードをいくつか述べておこう。
 尚書が、かつて民へ課税していた綿麻の税を復活させようと上奏した時、張普恵は上疏した。
「高祖は大斗を廃止し、長尺を去り、重称を改めました(建武二年)。民を愛するが故に、賦を薄くしたのでございます(※)。ですが、軍や国には綿や麻が不可欠でしたので、絹ごとに綿八両の増税をし、布へ対しては麻十五斤の増税を行いました。この時は、既に基準となっている尺や斗を小さくするとゆう減税が行われた後でしたので、民はこの増税を、喜んで受け入れたのでございます。
 ところが、やがて尺の長さや斗の容量は、次第に大きくなって行きました。その上、増税となった綿や麻はそのままでしたので、民の怨嗟が高まってきました。この怨嗟の原因は、実は一斗の容量や一尺の長さだったのですが、宰輔はそれに気がつかずに綿布の課税を撤廃したのです。それなのに、今、尚書は歳入不足を言い訳に、この税金を復活させようとしています。これは天下の大信を去り、既に発布した詔を棄て、前非後失をなぞるものです。
 それに、官庫には多くの綿布があるのですぞ。それを群臣がよってたかって盗んでいるのです。その事実から目を背けるのですか?
 これがどうゆう意味か解釈いたしましょう。
 賜下された麻が、一斤あたり百銖ほど多くても、官物を取りすぎたと言って州刺史や郡太守を罰したりしません。しかし徴収した絹布については、少しでも足りなければ、納税した戸主を罰し、その罪は三長にまで及ぶのです。こうして、官庫に集められた絹布は、群臣が余分に取っていってしまいます。今まで、官庫から持ち出した絹布が多すぎた時に、その余りを返還した者が居たなど、聞いた試しもありません。
 今、綿や布を増やそうとしたら、まず、測量単位を厳密に規定して、徴収する時と持ち出す時に、同じ長さで測らせることです。そうすれば、民を愛した高祖の想いが下々まで行き渡り、太和の頃のような満ち足りた世の中に戻るでしょう。」 

 又、孝明帝は狩猟に耽って朝政を顧みず、仏教に凝り過ぎていたし、宗廟の祭祀なども大尽へ任せっきりにしていたので、張普恵は切に諫めた。
「僧侶へ奉仕し立派な寺を建立して、あるかないかも判らない報いを求められて居られますが、その為に、民へは巨大な負担を掛け臣下の碌は削減しております。そして、壮麗な雲殿ができると、朝臣はその外で首を項垂れ、その中では玄妙な理を口ずさむ人間が遊んでいるのです。これは礼に悖り時に逆らった、人にあるまじき行いでございます。愚見を申しますならば、朝廷での政治をしっかりと修め、宗廟を敬いましたならば、民の心は君に親しみ、天下は和平し、災害など生じません。どうか、威儀を正し、万国の作法を為し、自ら郊廟を敬い、親しく朔望の礼を執り行い、五帝の学を勧め為政に心を尽くして下さい。僧寺などの不急の華麗を撤廃し、百官の居場所にお戻り下さいますよう。僧寺などで、既に手を付けている物は簡潔に造成し、まだ手を付けていない物は中止なさって下さい。孝悌は神に通じ、徳教は四海を照らします。陛下が労役を節約し人を愛せば、僧侶も俗人も全て陛下を頼みとするでしょう。」
 これ以来、孝明帝は月に一度は群臣の前に出るようになった。
 張普恵は、時政の得失についても上表した。太后と孝明帝は、張普恵を宣光殿へ引き入れ、多くのことを諮問した。 

  

仏教の盛況 

 胡太后は、宋雲と比丘の恵生を使者として西域へ派遣し、仏教の経典を求めさせた。すると、司空の任城王澄が言った。
「高祖が洛陽へ遷都なさった時には、城内へ僧寺と尼寺を一つづつしか設置させませんでした。それ以外は、全て城外へ設置させたのです。これは、僧侶と俗人は生活が違うので、彼等を人界の外へ置き清浄な暮らしをさせようと考えてのことでございます。
 正始三年、沙門統の恵深が、禁令を破って城内に寺を建てましたが、黙認されました。以来、私的に寺を建立する者が続出し、今では洛陽城内に五百以上の寺が建ち、民の住居の三分の一を占めております。そして、彼等の生活も俗塵にまみれ、俗人と雑居するようになったのです。
 近年、代北で法秀が陰謀を巡らし、冀州では大乗が造反しました。(ともに、仏教がらみの騒乱)昔の如来闡教は山林の中に住んでいたのに、今の僧徒は城邑に住むようになったので、利欲に眩まされてこのような事までしでかしたのです。彼等は、釈氏の落ち零れや仏寺に住む鼠とも言うべき輩。自らの心を戒めず、国も経典も棄てております。このような連中が増えたのは、僧侶が俗人と雑居するようになった為です。どうか、城内でまだ建立されていない寺がありましたら、これらは全て城郭の外に移設なさってください。又、五十人以下の僧侶しかいない寺は、大きな寺へ併合させますよう。そして、これを他の州でも準用して下さい。」
 しかし、実践されなかった。 

  

塩税 

 十七年、魏の太師ヨウ等が上奏した。
「塩池は天が造り、人々を育んで行くものです。先朝で、塩の自由な生産を禁止しましたが、それは民と利益を争おうと思っての事ではありません。ただ、塩池から勝手に塩を造らせると、富豪や権力者がこれを独占したり、近辺の住民が他を排斥したりして、貧民や遠来の民が益々苦しんだので、これを禁止したのです。しかし、役所を置いて暴力などの不正を禁止し、強者でも弱者でも公平に造らせるようにすれば、この弊害は避けられますし、国がわざわざ塩を作る必要もありません。十分の一税とゆうものは、昔から有りました。民に自由に塩を造らせて、その価格も自由競争に任せ、司は税だけを徴収する形を取れば、公私共に利益を得ます。どうか、先朝の禁令を緩和してください。」
 詔が降りて、これを裁可した。 

  

奢侈の風 

 十八年、任城王澄が司徒になり、京兆王継が司空となった。
 この頃、魏は長い間の強盛を極めていた。東夷や西域からの貢ぎ物が絶えず、交易が盛んとなり、府庫には宝物が満ちあふれた。
 ある時、胡太后は絹藏へ王公嬪や彼等の従者達百余名を連れて行き、持てるだけの絹を与えてやった。皆は飛びつき、少ないものでも百余匹の絹を抱えて持ち出した。
 ただ、崔光だけは二匹しか持ち出さなかった。胡太后がいぶかしむと、崔光は言った。
「臣の両手は、二匹で塞がってしまいました。」
 これを聞いて、皆は、恥じ入った。
 ちなみに、尚書令・儀同三司の李祟と章武王融は、抱えた絹が重すぎて、押し潰されてしまった。李祟は腰を痛め、章武王は足を痛めた。その浅ましさに、さすがに胡太后は鼻白み、この二人だけは空手で追いだした。二人とも、一世の物笑いとなってしまった。
(李祟は、「六鎮の乱」で大活躍します。そこそこ立派な人間に思えたのですが、これは意外な一面ですね。)
 魏の宗室や権倖の臣下達は、豪奢を競い合った。中でも高陽王ヨウの富貴は一国に冠たるものだった。宮室園圃は禁苑のようであり、仕える僮僕は六千人、伎女は五百人。彼が出歩けば、道路は忽ち取り巻きで埋め尽くされた。宴会を始めれば楽器は数日鳴り止まない。彼の一回の食費で、数万銭は消し飛んだ。
 李祟は高陽王に負けないくらい金持ちだったが、吝嗇な性格で、いつも人に言っていた。
「高陽王の一食で、我は千日食いつなげるぞ。」
 やがて、河間王が贅沢さで高陽王へ挑戦するようになった。十余頭の駿馬は銀の鞍を付け、珠玉で飾り付けられる。宴会では、水精鋒の酒器、瑪瑙の椀。全て精緻を凝らして造られており、しかもそれらの素材は全て中国では産出されないものばかりだった。
 伎女や名馬、諸々の奇寶を諸王の前で見せびらかして、言った。
「石祟と語り合えなかったことが恨めしい。彼も又、同じ思いだろう。」
 これを聞いて、章武王は嘆息した。すると、京兆王は言った。
「卿も、彼に負けないだけの財宝を持っているだろうに。」
 すると、章武王は言った。
「今まで、我のライバルは高陽王だけだと思っていたのに、又一人増えてしまった。」 

 胡太后は仏教に傾倒していた。州ごとに五級の寺院を建築させたので、民は労役に疲れ果ててしまった。諸王、貴人、宦官、羽林の人々も、各々洛陽へ寺を建立した。その寺院は、各々壮麗さを競い合う有様。太后は、僧侶へ惜しみなく寄進した。それらの費用は莫大なものだったが、庶民への恩恵は全くなかった。
 こうして、さしもの府庫も、次第に底を突いてしまい、やがては百官の禄を削減するようになってしまった。とうとう、任城王が上表した。
「蕭衍(梁の武帝)は、常に我が国の隙を窺っております。今は、富国強兵を志し、中国統一を考えなければならない時です。それなのに、近年は公私共に貧窮してしまいました。膨大な浪費を節約することこそ、当今の急務でございます。」
 だが、胡太后はこれを用いることができなかった。
 十二月、任城王澄が卒した。 

  

  

(※)
 建武二年に孝文帝が行ったのは、長さの単位の「尺」や、容量の単位である「斗」を明確に規定することでした。
 これは、秦の始皇帝が全国の測量単位を統一したようなものだと解釈していました。しかし、張普恵の解釈はそうではなかったようです。
 現在では、メートル法が施行されており、1Kgはどの秤で測っても1Kgですし、1cmは、どの物差しで測っても1cmです。これは、どれで測ってもそうです。これについて疑っている人間は居ませんし、それで不正をしようとする人間も居ません。例えば、「牛肉600gを買った。秤は600gを表示していたが、本当に正しいのだろうか?秤のバネを緩い物と取り替えて、500gしかないのに600gに見せかけたのではないか」と疑う人間は、今の日本には居ません。そんな不正をする人間が居ないからです。
 ところが、それはあくまで今の日本が異常なのです。「穀物を貸す時に大小二つの升を使う」とゆう話は、古今物語などでは頻繁に出てきます。人に貸す時には小さい升を使って測り、返して貰う時には大きな升を使って測るわけですね。
 そのような事を考えると、測量機器について、公的にきっちり基準を設けるとゆうのは、権豪の不正を未然に防ぐことになります。つまり、このような政策は、弱者へ対する救済だったわけです。
 日本に於いても、大小二つの升を使用することを禁止した法令が出たことがありました。孝文帝の規定も、真意はそれだったのかも知れません。少なくとも、張普恵はそう解釈しています。ですから、張普恵は上疏文で、「大斗を廃止し、長尺を去り・・・」とゆう表現をしている訳です。
 成績を上げようとした官吏(あるいは、税金の上前をはねようとした官吏)が、本当は一斗二合くらいの大きさがある升を使用し、「一斗」と称して、二割増の税金を取り上げたり、していたのでしょうね。
「大斗を廃止し、長尺を去り・・・」の一文は、「通常の一斗よりも大容量の升や、通常の一尺よりも長い物差しの使用を禁止した」と解釈すれば、スッキリと判ります。つまり、孝文帝が測量単位を厳密に規定したとゆうのは、現場の役人の不正を規制したとゆうわけですね。それならば、確かに「民を愛するが故に、賦を薄くした」とも言えるでしょう。現実には下っ端役人の不正を禁じただけにしても、その恩恵を蒙るのは民衆ですから。
 そして、張普恵の上疏によれば、この禁止令が、だんだん緩んできたようです。
 大きさの違う測量機器を使って不正をするとゆうのは、今の日本ではお目にかかれませんが、世界の歴史を俯瞰したら、普通に起こっている事です。それが日常的なことならば、事細かな説明など記載されません。この時代に生きていた張普恵が、このような表現をしたのですから、私が文外の事情を知らなかったと解釈するべきでしょう。