刑と狄と、衛を討つ。
 
(春秋左氏伝) 

 僖公十八年、刑と狄が衛へ攻めてきて、莵圃を包囲した。
 衛の文公は、退位を表明して言った
「この危機を救えるものがあれば、たとえ誰であれ、私はその方の臣下となってお仕えしよう。」
 民は承知せず、奮戦して狄の軍を追い払った。(翌年、衛は刑へ報復する。「衛、旱して刑を討つ」参照) 

 定公八年。晋が衛と卜沢で盟約しようとした。だが、晋の臣下の渉佗や成何は、衛を小国と馬鹿にしていた。そして、衛の霊公が血を啜ろうとした時、渉佗は衛公の手を血に押しつけ、二の腕まで血にまみれさせた。
 霊公は怒り、晋に背こうとしたが、大夫達がどう思うか判らなかったので、郊外に泊った。霊公がまっすぐ帰国しなかったので、大夫が理由を聞くと、霊公は事情を説明し、かつ、言った。
「寡人は社稷を辱めた。改めて後継者を選んでくれ。寡はそれに従おう。」
 そして、衛の朝廷で皆を集めて問い掛けた。
「もし、わが国が晋へ背き、晋が五たびわが国を討伐したならば、諸卿等はどうするか?」
 すると、皆、答えた。
「五たび、撃退して見せましょう。」
 そこで、衛は晋へ背いた。 

 哀公の五年。叔孫舒が、兵を率いて衛公を本国へ帰国させようとした。だが、衛本国では公孫文子が民を煽動し、これを拒んだ。 

  

(東莱博議) 

 これを置いても見えないが、ひとたび動いたら止めることができないものが、天下にはある。そんなものは、人の力で作れるものではない。そう、天から与えられたものがそれである。
 家の中で兄弟が喧嘩したとしよう。口汚く罵りあい殴り合い、両者の間に歓び合う心の一欠片もなかった。ところが、他日、外を歩いている時に、兄が他人から殴られたなら、弟たる者、昔日の怨みを忘れ、勃然として駆け出してこれを救うに違いない。その心は、一体どこから生まれたのだろうか。
 兄弟の愛情は、天性のものである。争っている時は見えなかったが、ただ見えなかっただけで、その心の内の機は未だかって滅びたりはしなかったのだ。だから、他人の横暴が我が心の機を動かしてしまったら、勃然としてその心が発現した。ひとたびその機が動けば、もはや止めることができず、奮励剽烈、海でも倒し、山でも動かし、金石をも貫いてしまうだろう。その念いが、なんで薄忿細怨で止められようか。
 君臣、親子、夫婦、兄弟、朋友とゆう五つのものは、天下の大機である。
 私欲がこれを塗り固め、小智がこれを覆い隠し、どこからも見えなくなって、あたかも、その機を修復できなくなってしまったように思えたとしよう。しかし、或いは叩き、或いは触れれば、その機はたちどころに感応する。瞬間を入れずして、桎梏は引き裂かれ、垣根は壊され、千の封印万の鎖も、剥落解散してしまう。百年の人偽が、一息のうちに破れてしまうのだ。 

 実例を挙げよう。
 唐の代宗皇帝(※)とは、どんな皇帝だろうか。又、徳宗皇帝(※)とはどんな皇帝だろうか。彼等は昏庸猜虐にして、民は主君の横暴に苦しみ、主君へ対して怨みしかなく、君臣の儀など跡形も無くなってしまった。ところが、敵が攻めてきて首都が陥落し、皇帝が亡命生活を余儀なくされてしまった中で、代宗は柳抗の、徳宗は陸貝の献策を採用し、自らの過ちを公表して自己批判した。これによって、天下の人々の心の君臣の機が感応発現した。そして、一旦動いた真機は、止めようが無くなったのである。
 昔日の抑塞、昔日の残酷、昔日の横暴、昔日の苛斂、昔日の軍役。これら多大なる怨みが、後に一機が動いただけでスッカリ消え去り、君を愛する以外一つの余念も残らなかった。
 こうして兵卒達は、首を疾まし心を痛め、先を争って敵と戦い、月を越え時を越えずして、ニ君を故都へ帰し、唐をまつり天に配し、旧来通りに復旧してしまった。
 すっかり跡形もなくなってしまったかに見えた機でさえも、ひとたび動けば、その効能はこのように凄いのだ。ましてや、その機がもともと明白に感じられていたものならば、なおさらである。 

 衛国の主君は、この機をニ度用いた。
 衛の文公は、刑と狄が連合して攻めて来た時、位を退く事で民を感激させ、この機を動かして、最終的に刑を滅ぼした。
 衛の霊公は、晋から侮辱された時、位を退く事で民を感激させ、この機を動かして、結局、晋と対抗する事が出来た。
 この二君等は、身をかがめる事が楽しくてそうしたのではない。ここで身をかがめなければ、民の機を発現させる事が出来ないからそうしたのである。
 そりゃ、確かに文公は、もともと賢君だった。民から慕われても居ただろう。しかし、霊君は淫乱放縦奢侈傲慢な人間だ。その霊公が、どうして民から慕われていただろうか。それでも民が力を尽くして晋へ抵抗したのは、霊公の為に尽くしたのではない。霊公の言葉が、民の胸の中にあった主君を愛する機を動かして、やむにやまざる想いとなって発現したのである。 

 だが、天の機を動かす者は、私欲を交えてはいけない。刑狄の浸入や晋の侮蔑は、国の危機や奉天の一大事ではない。だが、文公も霊公も、この事件を過大に宣伝し、即座に退位して自ら恥を拡大し、民の義憤を掻き立てた。その民を動かす大本に、既に私心が交わっていて純粋ではなかった。だから、衛国では天機が動いたとはいえ、人機もそれに従って馴致した。そのやり方を聞き知っていた公孫弥牟が、結果を知っているだけに安易な想いで同じ事をやって民の機を盗み、亡命した主君の帰国を拒んだのである。文公や霊公が不純な想いで民の機を乱用していなければ、どうしてこんな事態になっただろうか。
 人の力で天を蔽うのは、まだ宜しい。だが、人の分際で天を乱してはならない。蔽ったところで、天はまだそのまま存在している。しかし、つまらない私心の為に天の力を乱用して、邪悪や害毒をばらまいて本原の地をメチャメチャにしてしまったなら、どうやってその害毒を取り除くことができるか、その方策が判らない。
 心は病を受けてはならない。心が病を受ければ、その狂を制する術が無くなる。真は、偽を受けてはならない。真が偽を受ければ、その悪を取り除く方法が無くなる。そう、心の狂を制し真の悪を除くことは絶対に出来なくて、そこまで来たら、施す術が無いのだ。嗚呼! 

  

(訳者、曰) 

「君臣、親子、夫婦、兄弟、朋友とゆう五つのものは、天下の大機である。」
 この台詞の中で、「君臣の機」だけは、今日の日本では、かなり縁遠いものだろう。だが、考えてみた。
「民が力を尽くして晋へ抵抗したのは、霊公の為に尽くしたのではない。霊公の言葉が、民の胸の中にあった主君を愛する機を動かして、やむにやまざる想いとなって発現した」
 とあるが、してみると、ここでいう「主君を愛する機」とゆうのは、実は「主君を愛する心」ではなくて、「愛国心」にかなり近いのではないだろうか。少なくとも、仮に「主君を愛する心」がなくても、「愛国心」があれば、同じ行動をとった筈だ。
「愛国心」とゆう言葉も、今の私達からは程遠い。それに、ずいぶんと悪いイメージで汚されてしまった言葉なので、「郷土愛」と言い換えよう。分かり易い例を挙げて表現するならば、
「高校野球では、必ず出身地の高校を応援してしまう。」とゆうことだ。
この想いならば、現代の日本でも、持たない人間の方が異常だろう。
 今まで意識していなかったが、高校野球をイメージしたら、確かに「親子、夫婦、兄弟、朋友」に並ぶ、五つ目の機として「郷土愛」があると実感できる。
 この想いへ対して、幸徳秋水は、「愛国心とゆうのは、国を愛する想いではなく、他国を憎む想いである。(「帝国主義」より)」と断言している。これも又、無碍に否定できない言葉だ。
 先に、「『愛国心』が悪いイメージで汚された。」と書いたが、そもそも「愛国心」や「郷土愛」とは「身近な者が手を組んで、縁遠い人間を排斥したがる想いである。」と幸徳秋水は述べたわけで、それもあながち過ちとは思えない。だから、歴史を紐解けば、この「愛国心」ここで言う「君臣の機」とゆう訳の分からないものは、戦争の為のスローガンとして多用されてきた。そして、それらはいつも、当初は大きな成果を挙げてきた。だが、結果として巧く行くことは殆どない。それは、味を占めた為政者達が、大抵この機を多用し、その挙げ句、国民は戦役にこき使われ続けることとなるからだ。(ここら辺り、幸徳先生の「帝国主義」の一読を勧めます。岩波文庫から出版されてしましたので、たとえ絶版になっていても、大きな図書館へ行けば必ずあります。)
「天の機は、人の欲望で穢してはいけない。」
 私は、「郷土愛」とゆう機へ対して、化け物へ対するような、言いようのない畏れを感じている。たとえば、同郷の人間がノーベル賞を取った時、喜んだり誇りに思ったりすることはよい。しかし、くれぐれも人欲で穢さないようにしたいものである。 

  

(※) 

 唐の代宗、徳宗。
 代宗は、安史の乱直後の皇帝。何とか乱は納まったが、代宗は佞臣を寵用したり、功臣を猜疑したりで、ゴタゴタはかなり続いた。それにつけこんで、吐蕃が屡々入寇した。
 安史の乱が終焉した後、その族党は、河北地方に確固たる基盤を築いた。これが河北三鎮で、唐へ対して半独立の姿勢をとっていた。これへ対して、断固たる姿勢をとったのが、徳宗皇帝である。だが、彼も佞臣を寵用し、論功行賞は不公平で、討伐軍が次々と造反していった。こうして戦役は長期化し、戦役に苦しんだ兵卒達は、長安でクーデターを起こし、徳宗は奉天へ逃げ出した。
 唐は滅亡寸前まで追い込まれたが、そこで徳宗は自分の不明を自己批判する詔を発布した(己を罰する詔)。すると、各地で日和見を決め込んでいた軍閥達が挙って勤皇に動き、数年を経たずして、乱は平定された。