河北の戦況  1
 
 天寶十四載十一月、安禄山決起。乙亥、禄山は藁城へ進軍した。常山太守顔杲卿は、力不足で拒戦できず、長史袁履謙と共に出迎えた。禄山は杲卿へ即座に金紫を賜下し、その子弟を人質にとって、常山を守らせた。また、麾下の将李欽湊へ数千の兵を与えて井ケイ口を守らせ、西から来る諸軍へ備えさせた。
 杲卿は、帰る途中に金紫の衣を指さして、履謙へ言った。
「誰の為にそれを着るのだ?」
 履謙はその心中を悟り、密かに杲卿と共に起兵して禄山を討つ謀略を練った。
 杲卿は、思魯の玄孫である。 

 話は前後するが、平原太守顔眞卿は、禄山の造反を知ると長雨を利用して城の周りへ濠を完備させ、成人男子の数を数えて倉庫を兵糧で満たした。禄山は、眞卿を書生と侮り、軽く見ていた。
 禄山が造反するに及んで、平原、博平の兵七千人で河津を守るよう眞卿へ命令書を回した。眞卿は平原司兵李平を派遣し、彼は間道から京師へ入って上奏した。
 禄山が造反した当初、上は、河北の郡県は風に靡くように降伏したと聞き嘆いて言った。
「二十四郡に、一人の義士も居ないのか!」
 平原郡の使者が来るに及んで、大いに喜んで言った。
「朕は顔眞卿の顔も知らないのに、こんなにも尽くしてくれるのか!」
 眞卿は、信頼おける人間を、密かに諸郡へ派遣して抗賊の文書を配った。これによって、諸郡は多く内応した。
 眞卿は、杲卿の従弟である。
 顔眞卿が勇士を募ると、旬日で一万人を越えた。眞卿は、まず彼等へ対して挙兵して禄山を討つことを諭し、継いで涕泣した。士は皆、感憤する。
 碌山は、党類の段子光へ李登、盧奕、蒋清の首を預け、河北諸郡を巡回させた。壬寅、平原にて眞卿が子光を捕らえ、腰斬に処した。三人の首を取って、蒲で体をつくり、棺桶へ収めて埋葬する。祭哭して弔った。
 禄山は、海運使劉道玄を摂景城太守とする。清池尉賈載と鹽山尉の河内の穆寧が道玄を斬り、甲杖五十余船を得る。道玄の首は、長史の李韋(「日/韋」)へ見せた。韋は厳宗の宗族を捕らえ、全員誅殺した。
 この日、道玄の首を平原へ送った。眞卿は、載、寧及び清河尉張澹を平原へ呼び出して事を謀った。
 饒陽太守盧全誠は城へ據って、賊の官吏との交代を受け付けなかった。河間司法李奐は碌山の任命した長史王懐忠を殺した。李随は、遊奕将此(「此/言」)を派遣して、河を渡って碌山の任命した博平太守馬冀を殺した。各々その兵力は数千から一万人。共に眞卿を推して盟主とし、軍事は皆受け継いだ。
 碌山は、張献誠へ上谷、博陵、常山、趙郡、文安五軍の兵一万人を与え、饒陽を包囲させた。
 顔杲卿は起兵を率いた。参軍馮虔、先の眞定令賈深、藁城尉崔安石、郡人テキ萬徳、内丘丞張通幽等は皆、謀略に参与した。また、使者を派遣して太原尹王承業と密かに呼応する。顔眞卿は、杲卿の甥の盧逖を平原から派遣して密かに杲卿へ告げた。”連合して碌山の帰路を断とう。そうすれば、連中の西進の謀略が緩くなる。”と。
 この時、碌山はその金吾将軍高貌を、徴兵のため幽州へ派遣した。彼がまだ幽州から帰ってくる前に、杲卿は、碌山から兵卒達を饗応するよう命じられたと言い繕って、李欽湊を士卒ごと呼び寄せた。丙午薄暮、欽湊がやってくると、杲卿の命令を受けた袁屡謙と馮虔等が酒や妓女、楽団を連れて出向いて、彼等をねぎらった。士卒達まで大いに酔ったのを見計らい、欽湊の首を斬った。その武装兵は収容し、全員縛り上げて翌日、これを斬った。井ケイの民は全員解散させる。
 しばらくして、高貌が幽州から帰って来て藁城へ到着した。杲卿は馮虔を派遣してこれを捕らえる。
 南境からは、何千年が東京から来たと報告があった。崔安石とテキ萬徳が泉駅まで駆けつけて千年を出迎え、これも又捕らえた。その日の内に郡下まで連行する。
 千年は杲卿へ言った。
「今、太守は王室の為に力を尽くそうとしている。既にその初めは善かったのだから、終わりを慎むべきである。この郡は、募集に応じて烏合したばかり。この兵力で敵に臨むのは難しい。だから溝を深く、塁を高くして争ってはならない。朔方軍が到着するのを待って、力を併せて共に進軍し、檄文を趙、魏へ伝え、燕、薊の要膂を断て。今、更に『李光弼が歩騎一万を率いて井ケイへ出た。』と宣伝し、その上で張献誠へ使者を派遣して説得する。『足下が率いる連隊兵の多くは、堅い鎧や鋭利な武器がない。これでは剽悍な山西の兵とは戦えないぞ』と。献誠は必ずや包囲を解いて逃げ出す。これも又、一奇策だ。」
 杲卿は悦び、その策を用いた。献誠は、果たして逃げ去り、その連隊兵は潰れた。杲卿は使者を出して彼等を饒陽城へ入れ、将士を慰労した。
 崔安石等へ諸軍を回って宣伝させた。
「大軍が既に井ケイを下した。朝夕にでも到着し、まず河北諸軍を平定するぞ。早く降伏する者は賞するが、遅れる者は誅するぞ!」
 ここにおいて、河北の諸軍は響きに応じ、およそ十七軍が朝廷へ帰順した。その兵力は合計二十余万。対して碌山へ附いていた者は、ただ范陽、盧龍、密雲、漁陽、汲、ギョウの六郡だけだった。
 杲卿はまた、范陽へ使者を派遣して賈循を招いた。陜城の人馬燧も循を説得した。
「碌山は恩に叛いた悖逆の人間。洛陽を得るのは難しく、遂には夷滅されてしまうのが落ちだ。公がもし命令に従わない諸将を誅殺して范陽を以て国へ帰順し、賊軍の根本を傾けたら、これは不世の功績だぞ。」
 循はこれに同意したが、なお躊躇して実行しなかった。
 別将牛潤容がこれを知り、碌山へ報告する。碌山は、その党韓朝陽へ循を呼びに行かせた。朝陽が范陽へ到着すると、循と内密の話をすると人払いさせて、壮士に絞め殺させた。その一族は皆殺しにする。別将牛廷介(「王/介」)を知范陽軍事とする。
 史思明と李立節は蕃、漢の歩騎万人を率いて博陵、常山を攻撃した。燧は西山へ逃げ込む。隠者の徐遇が匿ってくれたので、危難を免れることができた。
 初め、碌山は自ら将となって潼関を攻撃しようとしていたが、新安まで来た時、河北で変事が起こったと聞いて、引き返した。
 蔡希徳が兵一万人を率いて河内から北上して常山を攻撃する。 

 至徳元載(756)正月。顔杲卿が、その子の泉明、賈深、テキ萬徳を使者として、京師へ李欽湊の首及び何千年、高貌を届けようとすると、張通幽が泣いて請うた。
「通幽の兄は賊徒になりました(兄は通儒)。泉明と共に行き、宗族を救いたいのです。」
 杲卿はこれを哀れんで、許した。
 一行が太原へ到着すると、通幽は王承業へ頼ろうと考え、彼へ泉明等を抑留させることを教え、更に功績を自分が独占して杲卿を譏った上表文を書き、別の使者を京師へ派遣して献上した。
 杲卿は、起兵してまだ八日で、守備はまだ完成していなかった。 そこへ、史思明と蔡希徳が兵を率いて城下へ進軍してきた。
 杲卿は承業へ急を告げた。承業は既に彼の功績を盗んでいたので、城が陥落することを望み、兵を擁して救援しなかった。杲卿は昼夜拒戦したが、兵糧も矢も尽きた。
 壬戌、城は陥落する。賊兵は暴行に走り、一万余人を殺す。杲卿及び袁履謙を捕らえて洛陽へ送る。
 王承業の使者が京師へ到着すると、玄宗は大いに喜んだ。承業を羽林大将軍に任命し、その麾下で官爵を受けた者は百を以て数えた。顔杲卿は衞尉卿となる。この朝命が到達する前に、常山は陥落した。
 杲卿が洛陽へ到着すると、碌山は彼の罪を数え上げて言った。
「汝は范陽の戸曹だったのに、我が奏上して判官としてやり、数年の内に太守になったのではないか。汝を大切にして遣ったのに、何で造反したのか?」
 杲卿は目を剥いて罵った。
「汝こそ、もと営州で羊を狩っていたケツの奴隷ではないか。天子が汝を三道節度使に抜擢した。恩幸は並び無く、汝を何も傷つけていないのに、どうして造反したのか?我は代々唐の臣下で、禄も位も皆、唐から貰った物。汝が奏してくれたけれども、どうして汝に従って造反できようか!我は国の為に賊を討ったのだ。汝を斬れなかったのが恨めしい。それを何で造反という?誇大妄想のケツ狗、サッサと我を殺せ!」
 碌山は大いに怒り、袁履謙等と共に縛り上げて中橋の柱へ吊した。杲卿と履謙は死ぬまで賊を罵り続けた。顔氏一門は、三十余人が刀鋸で殺された。
 史思明、李立節、蔡希徳は常山に勝った後、兵を率いて従わない諸郡を討った。その通過する場所では残虐の限りを尽くす。ここにおいて、ギョウ、廣平、鉅鹿、趙、上谷、博陵、文安、魏、信都等は再び賊の手に落ちた。
 饒陽太守盧全誠ひとり従わなかったので、思明等はこれを包囲した。河間司法李奐が七千を率い、景城長史李韋はその子祀へ八千を与えて救援に向かったが、どちらも思明に敗北した。 

 上は郭子儀へ命じた。「雲中の包囲を解いて朔方へ戻り、兵を増発して東進し東京を取れ。また、良将一人を選んで兵を与え、先に井ケイへ出して河北を定めよ。」
 子儀は、李光弼を推薦した。
 癸亥、光弼を河東節度使とし、朔方の兵一万人を分けて、これへ与えた。
 二月丙戌、李光弼へ魏郡太守、河北道采訪使を加えた。 

 史思明等が饒陽を包囲して二十九日しても落ちなかった。李光弼は蕃、漢の歩騎万余人、太原の弩手三千人を率いて井ケイへ出た。
 己亥、常山へ到着する。常山の連隊兵三千人が胡兵を殺して安思儀を捕らえ、降伏した。光弼は、思議へ言った。
「汝は殺されて当然だと思うか?」
 思議は答えなかった。光弼は言った。
「汝は戦争をして長いが、我が軍を見て、思明に勝てると思うか?今、我等の為に計略を立てられるかな?お前の策が採用できるなら、殺さずにいてやる。」
 思議は言った。
「大夫の士馬は遠来で疲弊しています。早々に大敵と戦えば、勝つのは容易ではありません。まずは軍を入城させて防備を固め、先に勝算を立ててから出兵することです。胡騎は勢い鋭いと雖も、持続力がありません。利を得られなければ、意気阻喪してしまいます。この時にこそ図るべきです。思明は今、饒陽にいます。ここから二百里も離れていません。昨暮に羽書を出したので、その先鋒を計るに、来晨には必ずやって来ます。そして、大軍が後に続いてくるのです。ここに留まろうと思ってはいけません。」
 光弼は悦び、そのいましめを解いて軍を移し、入城した。
 史思明は、常山が陥落したと聞いて、たちどころに饒陽の包囲を解いた。翌日の未旦、先鋒は既に到着し、思明が後に続いた。合計二万。直接城下へ進軍する。
 光弼は歩兵五千を東門から出して戦った。賊軍は門を守って退却しない。光弼は五百の弩へ城上から一斉に発射させた。賊軍は少し退却する。そこで光弼は弩手千人を四隊に分けて矢を発次々と発射させた。賊は対抗できず、軍を収めて逃げた。
 光弼は五千を出兵して道南に槍城を為した。呼タ水を挟んで布陣する。賊は屡々騎兵で戦いを挑んだが、光弼の兵はこれを射る。人馬の大半が矢に当たる。そこで賊軍は退却してしばらく休み、歩兵を待った。(訳者、曰く。完全武装の重歩兵なら、矢をはじき返せるのかな?そうすると、騎兵は鎧を着ていないのだろうか?まあ、人が武装していても馬が倒れたら放り出されてしまいますね。馬まで完全防備させるのは大変ですし、そんな事をしたら騎兵の命である機動力が無くなってしまいます。そう考えると、弓、特に飛距離のある弩へ対しては、歩兵の方が騎兵より抵抗力があるのかも知れません。歩兵や騎兵が、実際にはどれくらいの装備をしていたのか?それを調達するだけの経済力は?遠征時の運搬方法は?戦争が続いて経済力が無くなれば、当然武装はお座なりになるだろうし、そうしたら、それへ対する戦術も変わって来るだろう……。文章では映像ほどの説得力がないので、十分に想像しながら読まなければなりませんね。)
 村民が報告してくれた。
「賊の歩兵五千が饒陽から来ました。昼夜兼行して百七十里を進軍し、九門の南の逢壁にて小休止しています。
 光弼は、歩騎各々二千を派遣した。彼等は旗や軍鼓を隠してひっそりと進む。逢壁へ着くと、賊軍は食事の最中だった。一気に襲撃して皆殺しとする。
 思明はこれを聞いて勢いを失い、退いて九門へ入る。
 この時、常山九県のうち、七県は官軍へ附いていた。ただ、九門、藁城だけが賊に支配されている。光弼は裨将張奉璋へ五百の兵を与えて石邑を守らせ、他は全部三百人で守らせた。
 三月壬午、李光弼を范陽長史、河北節度使とする。
 郭子儀が朔方へ到着すると、ますます精兵を選ぶ。三月戊午、代へ進軍した。 

 己巳、顔眞卿へ戸部侍郎兼本郡防禦使を加える。眞卿は、李韋を副とした。
 壬午、顔眞卿へ河北采訪使を加える。眞卿は、張澹を支度とした。
 これより先、清河から李萼がやって来た。年は二十余歳。彼は、郡人の為に眞卿へ師団を請うて、言った。
「公は大義を首唱し、河北諸郡は公のことを長城とも恃んでいます。今、公の西隣りの清河には、国家が平日江、淮、河南の銭帛をかき集めています。これは北軍へ支給されるもので、『天下の北庫』と呼ばれています。今、ここには布三百余万匹、帛八十余万匹、銭三十余万緡、糧三十万斗があります。昔、黙啜を討った時、その武器は清河庫へ貯めました。それが今、五十余万事あります。清河の戸は七万、人口は十万余。計算しますと、財産は平原の三倍、兵力は平原の倍です。公が士卒を差し向け、これを慰撫して領有し、二郡を腹心とすれば、他の郡は四肢のようなもの。意のままに使えます。」
 眞卿は言った。
「平原の兵は結集したばかり。まだ訓練もしていない。これではここを守るだけでもおぼつかないのに、なんで隣を構う余力が有ろうか!しかしながら、もしも君の請願を許諾するなら、誰を将にすれば良いかな?」
「清河が公への請願に僕を派遣したのは、清河の力が足りないので敵を撃退する為に公の軍を借りようというのではありません。ただ大賢の明義を見るためです。今、御意向を窺うに、決意の思いがありません。僕がこれ以上何を言いましょうか!」
 眞卿は、これを奇として、兵を与えようと思った。しかし衆は、萼が年少で虜を軽視しているので、いたずらに兵を分け与えても、絶対失敗すると言う。眞卿はやむを得ず、これを断った。
 萼は館へ着くと、再び書を書いて眞卿を説得した。
「清河が逆を去って順に就き、粟帛器械を軍資として献上しようと言うのに、公は納めもしないでこれを疑う。僕が帰った後、清河が孤立できなければ、必ずどこかの麾下へ入ります。そして公の強敵になってしまっても、公は後悔なさいませんか?」
 眞卿は大いに驚き、即座にその館へ出向いて六千の兵を貸した。
 郡境まで送っていって、手を執って別れる。その時、眞卿は問うた。
「兵を連れていったら、君はどうするのかな?」
「朝廷が程千里へ精兵十万を与え、ジュン口へ出して賊を討つと聞きます。しかし、賊が険に依ってこれを拒めば、前進できません。今、兵を率いてまず魏郡を討ち、禄山の任命した太守袁知泰を捕らえ、旧太守司馬垂を納めて治めさせます。それから兵を分けてジュン口を開き、千里の軍を出して、彼等へ汲、ギョウ以北幽陵へ至るまでの降らない郡県を討たせます。平原、清河が書同盟を率いれば、兵力は十万。孟津へ南臨し、兵を分けて河沿いの諸要害に依って守り、賊軍の逃げ道を抑えます。東討する官軍は二十万を下らず、西へ向かう河南の義兵もまた十万を下りません。公は防御を固めて戦わないよう朝廷へ上表してください。一月と経たぬうちに賊軍は必ず内部から崩壊して同士討ちを始めます。」
「善きかな!」
 眞卿は録事参軍李擇交及び平原令范冬馥へその兵を与え、清河の兵四千及び博平の兵千人と合流して堂邑の西南へ布陣させた。
 袁知泰は、その将白嗣恭等へ二万を与えて攻め寄せた。三軍の兵は一日中力戦して魏軍は大敗する。万余級を斬り、千余人を捕らえ、馬千匹と甚だ多くの軍資を得る。
 知泰は汲郡へ逃げ、遂に魏軍に勝ち、軍声は大いに振るった。
 この時、北海太守賀蘭進明もまた起兵した。眞卿は、書面を遣って合力の為呼び寄せる。進明は歩騎五千で河を渡った。眞卿は兵を並べてこれを迎え、共に拱手して馬上で哭く。兵卒達は感動した。
 進明は平原城南へ布陣し、士馬を休養させる。眞卿は事毎に彼と相談したので、軍権は次第に進明へ移っていったが、眞卿は厭わなかった。
 眞卿は、堂邑の功績も進明へ譲った。進明は意のままに上奏文を書いた。敕が降りて、進明へ河北招討使が加えられたが、擇交や冬馥は僅かしか進級せず、清河、博平で功績を建てた者は皆、記録されなかった。
 進明は信都郡を攻撃したが、長い間勝てなかった。録事参軍の長安の第五gが金帛を惜しまずに兵を募るよう進明へ勧め、遂にこれに勝つ。 

 李光弼と史思明は四十余日対峙した。思明は常山の糧道を断つ。城中は草が乏しく、馬はむしろを食べる有様。そこで光弼は車五百乗で石邑へ赴き、草を取った。将も車も皆武装し、弩手千人が護衛して方陣を為して進んだので、賊軍は草を奪えなかった。
 蔡希徳が兵を率いて石邑を攻めたが、張奉璋が撃退した。光弼は郭子儀へ使者を派遣して、急を告げた。子儀は兵を率いて井ケイから出た。夏、四月壬辰、常山へ至り、光弼と合流する。蕃、漢の歩騎は合計十余万。
 甲午、九門城南にて、子儀、光弼と史思明が戦い、思明は大敗した。中郎将渾咸(「王/咸」)が李立節を射て、これを殺す。咸は、釈之の子息である。
 思明は敗残兵をかき集めて趙郡へ逃げる。蔡希徳は鉅鹿へ逃げた。
 思明は趙郡から博陵へ行った。この時、博陵はすでに官軍へ降伏していた。思明は、郡官を皆殺しにする。
 河朔の民は賊の残暴に苦しみ、至る所で屯を結んだ。多いところでは二万人。少ないところでも一万人はいた。各々陣営を為して賊を拒んだ。郭、李の軍が来ると、彼等は争って出頭した。
 庚子、趙郡を攻める。一日で城は降伏した。士卒の多くは、虜から掠められた民だった。光弼は城門に坐り、捕虜を収めると彼等を全員釈放したので、民は大いに悦んだ。子儀は四千人を生け捕ったが、これを皆捨てた。禄山の太守郭献ビョウを斬る。
 光弼は進軍して博陵を包囲する。十日経っても抜けない。そこで兵を退いて恒陽へ帰り、兵糧を補給した。 

 安禄山は、平盧節度使呂知晦へ安東副大都護馬霊サツを誘い出させて、これを殺す。平盧遊奕使の武陟の劉客奴、先鋒使董秦及び安東将王玄志が共謀して知晦を討誅した。彼等は顔眞卿のもとへ使者を派遣してこれを伝え、范陽を取ることで罪を償うことを請うた。眞卿は、判官賈載へ兵糧と戦士衣を届けさせて、これを助けた。この時、眞卿にはただ一子しかいなかった。名は頗。僅かに十余歳だったが、これを客奴へ人質とした。
 朝廷はこれを聞くと、客奴を平盧節度使として正臣の名を賜り、玄志を安東副大都護、董秦を平盧兵馬使とした。 

 郭子儀、李光弼が常山へ帰ると、史思明は敗残兵をかき集め、数万の兵力となって後を追った。子儀は驍騎を選んで、更に戦いを挑む。三日にして行唐へ至ると、賊は疲弊して退いた。子儀はこれに乗じて、沙河にて再び敗る。
 蔡希徳は洛陽へ至った。安禄山は再び歩騎二万を与えて思明のもとへ北上させる。また、牛延介(「王/介」)へ范陽等の郡兵万余を徴発させて思明を助ける。合計五万余人で同羅へ至り、河を引き落として五分の一を居らせる。
 子儀が恒陽へ到着すると、思明は遅れて到着する。子儀は壕を深く掘り塁を高く積んで待ち受ける。賊が来たら守り、去れば追う。昼は真っ向から戦い、夜は夜襲する。賊は休息もできなかった。
 数日して、子儀と光弼は協議した。
「賊は戦いに倦んだ。出て戦うべきだ。」
 壬午、嘉山にて戦い、大いにこれを破る。四万の首級を斬り、千余を捕虜とする。
 思明は落馬し、まげを霜に濡らし、足を濡らしながら歩いて逃げる。折れた槍を杖にして陣営へ帰り着き、博陵へ逃げた。光弼はこれを包囲して、軍声は大いに振るった。
 ここにおいて河北十余郡は皆賊の守将を殺して降伏した。
 往来する賊は、軽騎で隙を窺いながら逃げ、多くは官軍に捕らえられた。漁陽に家族の居る将士は、動揺せずにはいられなかった。 

 六月、哥舒翰率いる官軍が、安禄山の本隊に大敗北を喫した。玄宗は京師を逃げ出す。

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