河北の戦況 2
 
  六月、哥舒翰率いる官軍が、安禄山の本隊に大敗北を喫した。玄宗は京師を逃げ出す。
 李光弼は、潼関の陥落を聞くと、博陵の包囲を解いて南下した。史思明は、後を追う。光弼は撃って退ける。郭子儀と共に全兵力を井ケイへ入れる。常山太守王甫(「人/甫」)を景城へ留め、河間の師団へ常山を守らせる。
 平盧節度使劉正臣が范陽を襲撃しようとした。だが、到達する前に子思明が兵を率いて逆襲し、正臣は大敗した。妻子を棄てて逃げる。戦死した士卒は七千余人。
 顔眞卿は、河北節度使李光弼が井ケイから出撃したと聞いた時、軍を収めて平原へ戻り、光弼の命令を待った。だが、やがて郭、李が井ケイに戻ったと聞いたので、ここで始めて眞卿が河北の軍事を指揮し始めた。 

 安禄山が敕書を下し、その将高嵩を派遣して上\で河、隴の将士を誘った。大震関使郭英乂が、これを捕らえて斬る。 

 河北諸郡は、なおも唐の為に守っていた。
 常山太守王甫は賊へ降伏しようとしたので、諸将は怒り、毬を蹴りつけて馬を暴走させ、甫を踏み殺させた。この時、信都太守烏承恩は、三千人の朔方兵を麾下にしていた。諸将は承恩を常山の鎮守に迎え入れようと、宗仙運を使者として父老を率いて信都へ向かわせた。承恩は詔命がないので断ったけれど、仙運は説得して言った。
「常山の地は燕、薊を控え、道は河、洛へ通じ、井ケイの険があり、敵の喉を押さえられます。最近、車駕は南へ移り、李大夫(李光弼)は退いて晋陽を守っています。そんな中で王太守は後軍を指揮して賊へ降伏しようとしましたが、衆心は従わず、民と首脳部がちぐはぐな状況です。大将の軍兵は精鋭で粛然としており、遠近に敵がありません。もしも御国を念頭に置くならば、常山へ移動してください。大夫と首尾相応じれば、勢力は拡大し、誰も敵対できません。しかし、もしも躊躇して行かなければ、守備を設けることもできません。常山が陥落したら、信都もどうして独り守れましょうか!」
 承恩は従わなかった。
 仙運はまた言った。
「将軍が鄙夫の言葉を収めないのは、兵力が少ないせいでしょう。今、人々は生きることを楽しまず、報国を思って競い合うように砦を作って結集し、郷村に據っています。もしも賞を懸けて彼等を招いたら、旬日を過ぎないうちに十万の兵がやって来ます。朔方の武装兵三千余人と共に用いれば、王事は成就しますぞ。もしも要害を捨てて人へ与え、四通の土地で安穏としていたら、それは剣戟を逆さまに持って敗北の道を辿るようなものです。」
 承恩は、ついに躊躇して決断できなかった。
 承恩は承此(「王/此」)の族兄である。
 この月、史思明、蔡希徳が八万の兵を率いて九門を攻撃した。旬日すると、九門は偽って降伏し、城の上へ伏兵を置いた。思明が登城すると、伏兵がこれを攻撃する。思明は城壁から落ち、鹿角でその左脅を傷つける。夜、博陵へ逃げた。 

 蕭宗が即位して霊武を行在とすると、願眞卿は蝋を丸めた文書で、霊武と通信した。眞卿を工部尚書兼御史大夫とする。河北招討、采訪、處置使は従来通り。併せて赦書も蝋丸で与えた。眞卿は、これを河北諸郡へ頒下し、また、使者を派遣して河南、江、淮へも頒布した。
 これによって諸道は、上が霊武にて即位したことを始めて知り、御国へ尽くす心がますます堅くなった。 

 郭子儀等が兵五万を率いて河北から霊武へ到着した。霊武の軍威は、始めて盛んになり、人々は復興の望みを持った。
 八月壬午朔、子儀を武部尚書、霊武長史、李光弼を戸部尚書、北都留守とした。共に同平章事は従来通り。
 話は遡るが、河東節度使王承業は軍も政事も巧く行ってなかった。朝廷は侍禦史崔衆を派遣して、その兵の指揮権を交代させ、次いで中使を派遣して、これを誅した。衆は承業が容易に誅殺されたので、節度使の権威を侮った。光弼は彼等へムカついた。
 ここに至って、光弼へ軍を指揮するよう敕が降りた。衆は光弼を見ても無礼な態度をとり、指揮権も渡さずにグズグズしていた。光弼は怒り、これを収容して斬ったので、軍中は戦慄した。 

 史思明が再度九門を攻撃した。辛卯、これに勝ち、数千人を殺す。兵を引いて東進し、藁城を包囲した。辛丑、史思明が藁城を落とした。
 九月壬子、史思明が趙郡を包囲した。丙辰、これを抜く。
 又、常山を包囲し、旬日にして城を落とした。数千人を殺す。
 十月、尹子奇が河間を包囲した。四十余日しても落とせない。史思明が、兵を率いてこれに合流した。顔眞卿はその将和琳へ一万二千を与えて河間救援に派遣したが、思明は迎撃してこれを捕らえる。
 遂に河間は陥落した。賊徒は李奐を捕らえて洛陽へ送り、殺す。
 また、景城を陥した。太守の李韋(「日/韋」)は川へ飛び込んで死んだ。
 思明は、二騎を使者として尺書を贈って安楽を招いた。安楽は即座に郡を挙げて降った。
 また、麾下の将康没野波を先鋒として平原を攻撃させた。その軍が到着する前に、顔眞卿は防ぎきれないと判断し、壬寅、郡を棄てて河を渡り南へ逃げた。
 思明は、平原の兵で清河、博平を攻撃した。どちらも陥落する。
 思明は兵を率いて信都にて烏承恩を包囲する。承恩は降伏し、自ら思明を導いて入城させて 兵馬と倉庫を引き渡す。馬は三千匹、兵は一万人。思明は、承恩を洛陽へ送った。禄山はその官職を復す。
 饒陽の裨将の束鹿の張興は、力は千鈞を挙げ、性格は明弁。賊は饒陽を攻撃したが、丸一年かけても落とせなかった。諸郡が皆陥落するに及んで、思明は全力を挙げてこれを包囲した。外からの救援は絶えた。太守の李系は追い詰められ、火へ飛び込んで死んだ。城は遂に陥落する。
 思明は興を捕らえると、馬の前に立たせて言った。
「将軍は真の壮士だ。吾と共に富貴にならぬか?」
 興は言った。
「興は、唐の忠臣。もとより降伏する道理はない。あと数刻で命を無くすが、願わくは一言言ってから死にたい。」
「試しに言ってみろ。」
「主上は、我が子のように禄山を慈しみ、その処遇は群臣に及ぶ者がなかった。それなのに禄山は徳に報いることを知らず、兵を興して闕へ向かい、人々を塗炭の苦しみへ突き落とした。大丈夫が凶逆を取り除くこともできずに、北面して臣と称することができようか!僕に稚策があるが、足下は採れるかな?足下が賊に従っているのは、ただ富貴になりたいだけだろう。だが、それは燕が幕の上に巣を造るようなもの。どうしていつまでも安泰でいられようか!間に乗じて賊を取り、禍を転じて福にするのだ。そうすれば長く富貴を享受できるぞ。すばらしいではないか!」
 思明は怒り、木の上に吊らせて鋸引きで殺した。興は、死ぬまで罵り続けた。
 賊は、一城を落とすごとに、城中の衣服、財産、婦人を全て掠めた。男子は、壮年ならば使役し、病弱者や老人子供は刀や槊で虐殺して楽しんだ。
 禄山は、最初三千の兵卒を思明へ授け、河北を平定させた。ここに至って、河北は皆平定した。郡毎に胡兵を交えた守備兵三千を置いて、これを鎮守させる。そして思明は博陵へ帰った。
 尹子奇は五千騎を率いて河を渡り、北海を攻略し、南下して江、淮を取ろうとした。だが、回乞可汗がその臣葛邏支へ兵を与えて入援し、まず二千騎が范陽城下へ進軍した。子奇はこれを聞いて、兵を引いた。 

 十二月戊午、回乞が帯汗谷へ到着し、郭子儀と合流した。
 辛酉、楡林河北にて同羅及び叛胡と戦い、これを大いに破る。斬首三万、捕虜一万。河曲は皆平定した。子儀は、洛交まで軍を帰した。 

 史思明は博陵から、蔡希徳は太行から、高秀巖は大同から、牛廷介は范陽から、兵を率いて太原へ来寇する。兵力は総勢十万。李光弼麾下の精鋭兵は皆朔方へ赴いており、残る郡兵や烏合の衆は一万人に満足りなかった。思明は、太原など 指さすだけで取れると思い、これを取ったら長躯して朔方、河、隴を取ろうと考えていた。
 太原の諸将は皆懼れ、城を修繕して籠城しようと議論していたが、光弼は言った。
「太原城は、周囲四十里。賊が来るというので工事をするのでは、これは敵を見る前に自分で困窮することに他ならない。」
 そして、士卒及び民を率いて城外に壕を掘らせ、守備を固めた。ジ(焼く前の煉瓦)を数十万作らせたが、人々は何に使うのか判らなかった。賊が城の外から攻めると、光弼はジを使って内側に塁を作った。壊されても、すぐに次を作る。
 思明は、山東まで攻具を取りに遣らせた。胡兵三千で護衛したが、廣陽にて別将慕容溢と張奉璋がこれを攻撃して、皆殺しとした。
 思明は太原を包囲したが、一ヶ月以上も落とせない。そこで驍鋭を選んで遊兵として、これを戒めて言った。
「我等は城の北側を攻めたら、お前達は密かに南へ回り、東を攻めたら西へ回る。敵に隙があったら、それに乗じろ。」
 しかし、光弼の軍令は厳重で、敵が攻めてこないところでも警備にいささかの怠りもなかったので、賊は入れなかった。
 光弼は軍中から技能のあるものを募った。どんな些細な技でも採用し、適宜に使用する。こうして人材を最高に活用していた。安辺軍から地面を掘る技術を持つ者を得ることができた。城下にて賊が城を仰いで侮罵していると、光弼の兵卒が地面の下からその足を引きずり込み、城内へ連れ込むと城へ臨んで斬った。以来、賊は皆、地面を見ながら進むようになった。賊が雲梯や衝車、土山で城を攻めると、光弼は地道で対抗し、城へ近づくと陥没させた。
 賊は、最初は城の間近まで群がってきたが、光弼は大きな石飛ばしを作った。これが飛ばす巨石は、一発で二十余人を倒す。賊は二、三割が戦死し、数十歩ほど外へ退いて布陣し、包囲陣はますます固くした。
 光弼は人を派遣して、偽って降伏の約束をし、出降の日刻を決める。賊は喜んで、守備をしなくなった。光弼は賊の陣営の周囲の地面を掘り下げさせ、木の枝などで蓋をした。
 期日になって、光弼は兵を指揮して城上へ登り、裨将へ数千人を与えて、まるで降伏するかのように出城させた。賊は皆、注視する。と、突然陣営忠の地面が陥没して、千余人が死んだ。賊軍は大混乱に陥ったので、官軍はこれに乗じて軍鼓を鳴らして出撃し、一万人を捕殺した。
 二年正月、安禄山が死んだ。慶緒は思明を范陽へ帰して守らせ、蔡希徳等を留めて太源の包囲を続けさせた。
 二月、李光弼は決死隊を率いて、蔡希徳を撃った。これを大いに破る。斬首七万余級。希徳は逃げ去る。 

 話は遡るが、平盧節度使劉正臣が范陽から敗北して帰った時、安東都護王玄志はこれを毒殺した。禄山は、その一味の徐帰道を平盧節度使とする。二年正月、玄志は、今度も平盧の将侯希逸とこれを襲撃して殺した。
 又、兵馬使董秦へ兵を与え、葦筏で海を渡って大将田神功と共に平原、楽安を攻撃し、これを下す。
 防河招討使李銑は制を承って、秦を平原太守とした。 

 郭子儀は河東が両京の間にあるので、河東を奪取すれば両京を図れると考えた。この頃、賊将崔乾裕が河東を守っていた。
 正月丁丑、子儀は密かに河東へ人を入れた。賊に陥った唐の官人と連絡を取らせて、官軍の進軍を待って内応するよう手筈を進めた。
 二月、郭子儀が洛交から兵を率いて河東へ進軍した。兵を分けて馮翊を取る。
 己丑夜、河東司戸韓旻等が河東城を翻って官軍を迎える。賊を千人近く殺す。
 崔乾裕は城壁を乗り越えて逃げ出した。そして城北の兵を発して城を攻め官軍を拒んだが、子儀がこれを撃破した。乾裕は逃げ、子儀は追撃する。斬首四千級、捕虜五千人。
 乾裕は安邑へ至った。安邑の人は、門を開けてこれを納めたが、半ばが入城したときに門を閉じ、攻撃して皆殺しにした。乾裕はまだ入城していなかったので、白ケイ嶺から逃げ去った。
 庚子、郭子儀はその子干(「日/干」)及び兵馬使李韶光、大将王祚へ河を渡って潼関を攻撃させた。これを破る。斬首五百級。安慶緒は救援兵を潼関へ派遣した。郭干等は大敗し、一万余人が死んだ。李韶光、王祚は戦死する。僕固懐恩は馬の首にしがみついて渭水を渡り、退いて河東を保つ。
 三月辛未、安守忠が騎兵二万を率いて河北へ来寇した。郭子儀は撃退する。斬首八千級、捕虜五千人。
 四月、上は、郭子儀を司空、天下兵馬副元帥として、兵を率いて鳳翔へ赴かせた。
 庚寅、李帰仁が鉄騎五千で三原の北にてこれを遮った。子儀は、その将僕固懐恩、王仲昇、渾釈之、李若幽を白渠留運橋へ伏せ、襲撃させる。大半を殺傷した。帰仁は水へ飛び込み泳いで逃げた。若幽は神通の子息である。
 子儀と王思禮は西渭橋にて合流し、進軍して橘(本当はさんずいへん)西に屯営した。安守忠、李帰仁は京城西の清渠に陣を布く。対峙すること七日、官軍は進めない。
 五月癸丑、守忠は偽って退却した。子儀は、全軍でこれを追う。賊軍は、驍騎休戦で長蛇の陣を作った。官軍がこれを攻撃すると、首尾が両翼となり、官軍を挟み込む。官軍は大いに潰れた。判官韓液、監軍孫知古が賊に捕らえられ、軍資器械は殆ど捨てて行く。
 子儀は退いて武功を保った。中外は戒厳する。
 子儀は闕を詣でて、自ら降格を願い出た。甲子、子儀を左僕射とする。
 六月、田乾眞が安邑を包囲した。
 その頃、陜郡の賊将楊務欽が、密かに帰国を謀った。河東太守馬承光は兵を以て呼応する。務欽は、自分に同意しない城中の諸将を殺し、城を翻して降伏した。
 乾眞は安邑の包囲を解いて、逃げ去った。
 七月丁巳、賊将安武臣が陜郡を攻めた。楊務欽は戦死し、賊は遂に陜を落とした。 

 賊は屡々上党を攻撃したが、いつも節度使程千里に敗れた。蔡希徳が、また兵を率いて上党を包囲する。
 希徳は軽騎で城下まで来て、戦いを挑んだ。千里はこれを捕らえようと、百騎を率いて門を開け、突出する。敵方の救援軍が来たので、騎を収めて退却したが、途中で橋が壊れ、墜落し、却って希徳に捕らえられてしまった。従騎達を仰いで言った。
「吾が不幸にしてここに至ったのも、天命だ!帰ったら、諸将へ言ってくれ。善く守備を固めよ。軍を失うとも城は失うな。」
 希徳は城を攻めたが、遂に勝たなかった。千里を洛陽へ送る。安慶緒はこれを特進として、客館へ幽閉した。
(訳者、曰く)巻の216で高仙芝が夫蒙霊サツに代わって四鎮節度使となった時(天宝六年)霊サツにおもねって彼を讒言していた副都護の程千里を面罵した記述がある。(詳細は、「タラスの合戦」に記載)新唐書、程千里伝によると、「彼は磧西で募兵して、天宝の末に安西副都護になった。」と記載されている。天宝六年は天宝の末と少しずれるが、多分この二人は同一人物なのだろう。
「公は、見てくれは男子だが、心は女のようだ。」と罵られた程千里と、この前後で大いに武勇を振るった程千里。人は、一面だけでは判らない物だ。 

 九月、官軍は長安を恢復した。やがて史思明は降伏し、賊軍の命運は風前の灯のようになった。 

 乾元元年(758)五月、もとの常山太守顔杲卿へ太子太保を追贈し、忠節と諡する。
 杲卿が死んだ時、楊国忠は張通幽の讒言を信じ、遂に褒賜がなかった。上が鳳翔に居る時、顔眞卿が御史大夫となったが、彼が泣いて上へ訴えた。上は通幽を普安太守として、その有様を上皇へ具に述べた。上皇は、通幽を杖殺する。
 杲卿の子息の泉明は王承業に留められて寿陽に仮住まいしていた。やがて史思明に捕らえられて、牛革で拘束されて范陽へ送られた。安慶緒が即位した時、恩赦にあって釈放される。思明が朝廷へ降伏したので、帰ることができた。東京にて父の屍を求めて入手したので、袁履謙の屍と共に棺へ収めて帰った。
 杲卿の姉妹や娘及び泉明の子息は皆、河北へ流れ奴婢にまで落ちぶれていた。眞卿が蒲州刺史となると、泉明を派遣して彼等を求めた。泉明は号泣しながら探し求める。その有様は、道行く人も貰い泣きするほどだった。やがて、見つけ出す。泉明は知り合いを訪ね回ってお金ができるたびに彼等を買い求めたが、姑の姉妹を先にして、自分の子供は後回しにした。
 姑の娘も俗に掠奪されていた。泉明は二百緡の銭を持っていたので、自分の娘を買い取ろうとしたが、姑があまりに憔悴していたのが不憫でならず、姑の娘を先に勝った。やがて銭を得たので自分の娘を買おうとしたが、すでに行方が判らなくなっていた。
 やがて、従姉妹や父の時の将吏袁履謙等の妻子が奴婢となっているのに遇い、全員にこれを与えて帰った。およそ五十余家、三百余人。金はそれぞれに分かち合い、まるで大家族のようだった。
 蒲州へ到着すると、眞卿は彼等へ金を与えて、しばらくして行きたいところへ届けて遣った。
 袁履謙の妻は、納棺された履謙が粗末な扱いを受けていないか気になって棺桶を暴いてみてみたが、杲卿のものと変わりなかったので、とても慚愧した。 

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