慕容、秦に背いて燕を復す。 (肥水の戦い。)

 

 孝武帝の寧康元年(373年)。彗星が出た。その尻尾は、長さ数十丈。太微を経て東井を掃く。この彗星は、四月に始めて観測され、秋から冬になっても消えなかった。
 秦の太史令の張孟が苻堅へ言った。
「尾と箕は天空の燕の領域にあり、東井が秦の領分です。十年後、燕は秦を滅ぼすでしょう。そして二十年後に、代が燕を滅ぼします。
 今、我々の仇敵である慕容偉の親子兄弟が、我が朝廷に列席しております。臣は不安でなりません。どうか、その魁傑を誅殺し、天変を消されて下さい。」
 苻堅は聞かなかった。
 陽平公の苻融が上疎した。
「かつて、東胡(鮮卑)が六州を占有し、南面して皇帝と称しておりました。陛下は累年の辛苦の末、これを奪いましたが、彼等はもとより、陛下の徳義を慕ってこの国へ来たわけではありません。
 今、陛下は彼等を寵用し、その父兄子弟が我が朝廷に満ち満ちております。その権勢は、勲旧の臣下達を凌駕する勢い。しかし、彼等は虎狼の心を持ち、結局養うことは出来ないと、臣は考えます。今、天文もかくの如き有様。どうか、今少し心にお留め下さい。」
 すると、苻堅は答えた。
「朕は、六族を統合して一家としたいのだ。だから、夷狄でも我が子のように見ておる。お前達も要らぬ心配をするではない。そもそも、徳を修めてこそ、禍を祓える。天の教えに対しては、内なる心を顧みるだけだ。何で外患を懼れようか!」

 二年、十二月。何者かが明光殿へ入って大声で叫んだ。
「甲申、乙酉、魚羊が人を食う。悲しいかな、遺族が一人も残らない!」
 苻堅はこれを捕らえるように命じたが、見つからなかった。

 秘書監の朱膨、秘書侍郎の趙整が、鮮卑を誅殺するよう固く請うたが、苻堅は聞かなかった。
 ちなみに、趙整は宦官だが、博学で記憶力に優れ、文章が巧かった。又、彼は直言を好み、上書や面諫したことは前後で五十余回にも及んだ。
 ある時、慕容垂夫人(段夫人)が、苻堅への謁見を許可された。この時苻堅は、夫人と同じ車に乗って、後庭で遊んだ。これを見て、趙整は歌った。
「雀が燕室へ入るのが見えなかった。白日が浮雲に隠されているからだ。」
 苻堅は顔つきを改めて趙整へ感謝すると、夫人を下車させた。

 三年、六月。王猛が重態に陥った。苻堅は自ら南北の郊や宗廟、社稷で平癒を祈り、侍臣を河、嶽の諸神のもとへ派遣し、祈祷させた。王猛の症状が少し良くなったら、その為に赦を下した。すると、王猛が上疏した。
「臣の命の為に、陛下は天地の徳を汚してくださいました。開闢以来、このようなことは始めてでございます。『徳に報いるには、言葉を尽くすしかない』と聞き及びますので、垂没の命を以て、謹んで遺言させていただきます。
 伏して思いますに、陛下の威光は八荒に烈振し、声教は六合に満ち、九州百郡は十のうち七まで占有いたしました。あたかも塵を払うように、燕を平らげ蜀を定められたものです。
 しかしながら、善く作る者が必ずしも善く成すとは限らず、善く始まる者が必ずしも善く終わるとは限りません。それ故、昔の明哲なる王は、功業を汚さぬよう、深谷に臨むように戦々恐々と暮らしたものであります。
 陛下が前聖のこの心を踏襲なさいましたら、それこそ天下の幸いでございます。」
 これを読んで、苻堅は悲しみの余り慟哭した。
 七月、苻堅は自ら王猛のもとへ見舞いに出向き、後事を尋ねた。すると王猛は言った。
「晋は江南の片隅に細々と存続しているとはいえ、正朔を受け継いだ国家で、上下は相和しております。臣が死んだ後、どうか討晋など起こさないで下さい。又、鮮卑・西きょうは我等の仇敵。必ず禍を成します。ですから、漸次彼等の力を削いでください。そうしてこそ社稷は安泰でございます。」
 言い終えて、卒した。
 苻堅は大いに慟哭して太子の苻宏へ言った。
「吾が六合を統一することを、天は望まないのか!なんでこんなにも早く、吾から景略を奪い去るのだ!」
 そして、漢の霍光の故事に倣って埋葬した。
 十月、苻堅は詔を下した。
「賢輔を喪ったばかりなので、百司は、あるいは朕の心を知らぬかもしれない。そこで、未央宮の南へ聴訟観を設置する。朕は五日に一度は自ら出向き、民の声に耳を傾けよう。
 又、未だに敵を抱えていること故、百官は武侯(王猛)の雅旨に適うよう、文武に励め。これ以後は、今に増して儒学を崇拝する。なお、異端たる老荘・図讖の学は、これを禁ずる。犯す者は市にて処刑する。」
 尚書郎の王佩が讖を読んだので、苻堅はこれを殺した。以来、讖を学ぶものが途絶えてしまった。

 太元元年(376年)。二月、苻堅は詔を下した。
「『王者は苦労して賢人を求め、士を得れば安逸に暮らす。』と聞く。これは何とあらたかな言葉であることか。
 かつて、丞相を得たときには、帝王の容易なことを思ったものだが、丞相が世を去って以来、事毎にこれを思って慟哭する。
 今、この世に丞相はいない。或いは、政教に遺憾なことが起こっているかも知れぬ。そこで、各州郡へ使者を派遣し、民の疾苦を検分する。」 

 この年、秦が前涼を滅ぼした。(委細は「秦、涼を滅ぼす」に記載。)

 慕容紹が、兄の慕容楷へ私的に言った。
「秦は強大な国力を恃み、戦争を続けて止まない。勝ち続けてこそいるが、北は雲中を守り、南は蜀・漢を守り、行軍する兵士は、長蛇の列をなして百里を転運している。国外では兵卒が疲弊し、国内では民が困窮する有様。このままでは滅亡も近い。我等の叔父は、知謀秀でた英雄だ。その機会に必ずや祖国を復興してくれる。我々は自愛して、その時を待つだけだ!」

 さて、涼を滅ぼした秦は、次に西方のてい、きょう討伐を協議した。
 苻堅は言った。
「奴等はただ雑居しているだけで、統一した主君が居るわけではない。放って置いても中国の禍にはなるまい。だから、まず宣撫して、租税を徴収する。もしもその命令に従わなければ、その時こそ討伐すればよい。」
 十一月、殿中将軍の張旬を先行して宣撫させ、庭中将軍魏葛飛に二万七千の兵卒を与えて後発させた。
 だが魏葛飛は、てい、きょうが険阻な地形を恃んで服従しなかったことにむかついていたので、相手の出方も待たずに敵を攻撃し、大いに略奪して帰ってきた。
 この行動に苻堅は激怒し、魏葛飛を鞭打ち二百の刑に処し、前鋒督護の儲安を処刑して、てい・きょうの人々へ謝罪した。てい・きょうは大いに悦び、八万三千余落が降伏してきた。

 二年、高句麗、新羅、西南夷の諸国が、使者を派遣して秦へ入貢した。

 石氏の宮殿は、精緻を凝らした造りだった。もと趙の将作功曹だった熊貌は、その素晴らしさを、苻堅へしきりと吹聴した。そこで、苻堅は熊貌を将作長史として、船や兵器を大いに作らせたが、それら全ては金銀で精巧に飾りつけられていた。
 慕容農が、慕容垂へ私的に言った。
「王猛が死んでから、秦の法令は日毎に頽廃しています。そして今度は豪奢に走りました。図讖が予言した殃が、もう目の前に迫っていますぞ。大王は、英傑と手を結び、天意に従って下さい。時を失ってはいけません!」
 すると、慕容垂は笑って言った。
「天下は、お前などに読み切れるものではない!」

 この頃、東晋では、桓豁の推挙で、朱序が梁州刺史となり、襄陽を鎮守した。
 七月、尚書僕射謝安が司徒に任命されたが、謝安は謙譲して辞退した。そこで、謝安に侍中・都督揚・豫・徐・兌・青五州諸軍事が加えられた。
 同月、征西大将軍、荊州刺史桓豁が卒した。
 十月、桓沖が都督江・荊・梁・益・寧・交・廣七州諸軍事、領荊州刺史となり、息子の桓嗣が江州刺史となった。又、征西司馬領南郡相の謝玄が、兌州刺史・領廣陵相・監江北諸軍事となった。これは、桓沖が、江陵から上明へ移りたいと上奏したのが原因である。
 桓沖は、秦の国力が増大したので、防衛戦を江南へ移そうと考えたのだ。そして、冠軍将軍の劉波に江陵を守らせ、諮議参軍の陽亮に江夏を守らせた。
 さて、中書郎の希超の父親の希惜は、もともと謝安よりも位が上だった。ところが、謝安はやがて出世して朝廷へ入り、希惜はあいかわらず地方をうろうろしていたので、謝安へ対して常に憤っていた。そうゆう訳で、息子の希超も、謝氏一族を嫌っていた。
 この時、朝廷では秦の来寇を憂えていたので、詔を下し、北方を防御できる文武の良将を、広く募った。すると、謝安は甥の謝玄を推薦したのである。
 これを聞いて、希超は嘆息した。
「悔しいが、やはり謝安は明哲だ。この大事だからこそ、身内に贔屓しているとの誹りを気にせず、有能な人間を推薦したのだ。謝玄ならば、きっと期待を裏切るまい。」
 それを聞いても、中には賛同しない人間もいた。しかし、希超は言った。
「俺はかつて、謝玄と共に桓温の府に仕えたことがある。だから、その才能を知っているのだ。」
 謝玄は驍勇の士を募り、劉牢子等数人を得た。そこで、劉牢子を参軍として精鋭を与え、常に前鋒へ立たせた。戦争では負けを知らず、人々は「北府兵」と呼び、敵から畏れられた。

 三年、二月。秦は七万の軍勢で襄陽を攻撃した。総大将は長楽公苻丕。副将は、武衛将軍苟萇と尚書慕容偉
 又、征虜将軍石越が、一万の兵力で魯陽関から進軍した。京兆尹慕容垂と、揚武将軍姚萇が、五万の兵力で南郷から進軍した。そして領軍将軍苟池、右将軍毛當、強弩将軍王顕が、四万の兵力で武當から進軍した。この四軍は、襄陽にて合流する手筈だった。
 四月、秦軍は「べん」の北までやって来た。しかし、秦軍には船がなかったので、梁州刺史朱序は備えもしなかった。ところが、石越が五千騎を率いて漢水を泳いで渡ったのである。朱序は恐慌して中城へ籠もった。石越はその外城を撃破。百艘の船を略奪し、これを使って、秦軍は渡河に成功した。苻丕は諸将を督して中城を攻撃した。
 話は少し前後するが、朱序の母親の韓氏は、秦軍の来寇を聞くと、自ら城内を見回った。すると、西北の隅の防備が甘かったので、彼女は婢を始め城内の女性達を率いて、ここに城を築いた。
 秦軍が来寇すると、果たして、西北が崩された。しかし、韓氏が城を築いていたので、兵卒はそこへ移って防戦した。襄陽の人々は、この城を「夫人城」と呼んだ。
 この時、上明の桓沖は七万の軍勢を率いていたが、秦軍の強さを憚り、援軍に駆けつけなかった。
 苻丕は、襄陽を一気に攻め落とそうと考えたが、苟萇が言った。
「我々の兵力は、敵の十倍。しかも兵糧もふんだんにあります。もしも、敵が全力を挙げても我等の補給路を断つことは出来ませんし、敵方には援軍の望みもない。言ってみるなら、網の中の獲物です。もう、捕まえたも同然。ここで手柄を焦って多くの将士を殺すなど、馬鹿げています。」
 苻丕はこれに従った。
 慕容垂は南陽を抜き、太守の鄭裔を捕らえてから、襄陽の苻丕と合流した。

 七月、秦の兌州刺史彭超が、彭城の戴逐を攻撃しようと考え、苻堅へ上奏した。
「別働隊が淮南を攻撃して、本隊と東西並んで進撃すれば、丹陽はすぐにでも平定できます!」
 苻堅はこれを裁可し、彭超を都督東討諸軍事に任命した。更に、後将軍倶難、右禁将軍毛盛、洛州刺史召保に七万を与え、淮陽・于台を攻撃させた。
 八月、彭超は彭城を攻撃した。

 秦の梁州刺史葦鍾は、巴蜀方面から東晋を攻撃した。
 彼は、西城にて魏興太守吉把を包囲した。東晋は、右将軍毛虎生に五万の兵を与えて姑孰へ派遣し、巴方面の秦軍を防がせた。

 十二月、秦の御史中丞李柔が苻丕を弾劾した。
「長楽公は十万の大軍を擁して小城を包囲しました。その軍費は、毎日万金を要します。しかしながら、もう半年になるのに、何の戦果も挙がっておりません。どうか彼を呼び戻して糾問してください。」
 すると、苻堅は答えた。
「苻丕が莫大な軍費を浪費したことは、確かに罰すべきだ。しかし、既に大軍を出しながら、何の軍功もなく呼び戻すのでは沽券にかかわる。よって、特にこれを赦し、功績を以て罪を贖わせることとする。」
 そして、苻丕のもとへ使者を派遣し、剣を賜下して責め立てた。
「来春までに陥とせなければ自決せよ。その顔を二度と朕へ見せるな!」
  四年、正月。詔を受けた苻丕は惶恐し、襄陽の力攻めを諸将へ命じた。

 苻堅は、自ら襄陽攻撃に乗り出したくなった。そこで苻融に、関東六州の兵を率いて寿春に赴き、梁煕には河西の兵を率いて後続となるよう詔を下した。
 すると、苻融が諫めて言った。
「陛下がもしも江南全土を攻略するおつもりならば、博く謀り熟慮を凝らすべきです。軽々しく動いてはなりません。もしも襄陽のみを攻略するおつもりならば、なんで親征の労が必要でしょうか!多寡の知れた小城を攻める為に天下の大軍を動員するなど、未だ聞いたことがありません。それこそ、『随侯の珠を弾として、雀一羽を撃ち落とす』とゆうものでございます。」
 又、梁煕も言った。
「晋主の暴虐は、孫晧(呉の最後の君主。暴君として有名。)程ではありません。そして、あそこの険阻な地形は、守り易く攻め難うございます。それでも、陛下がどうしてもこれを攻撃するおつもりでしたら、将帥へご命令になられれば宜しゅうございます。昔、後漢の光武帝が公孫述を誅した時も、晋の武帝が孫晧を捕らえた時も、部下に命じてやらせたことです。『彼等二帝が自ら六軍を率い、矢石を蒙って戦った』等とゆう話は、未だ聞いたことがございません。」
 そこで、苻堅は親征を取りやめた。

 東晋では、冠軍将軍劉波へ八千の兵を与え、襄陽救援を命じた。しかし、劉波は秦軍を畏れて進軍しなかった。
 朱序は屡々出撃し、秦を破った。これに懲りた秦軍が退却して、城をやや遠巻きにしたので、朱序は警備を緩めた。
 二月、襄陽督護の李伯護が、息子を密かに秦軍へ送り出し、内応を申し出た。そこで、苻融は諸軍へ進撃を命じ、これを攻めた。
 戊午、襄陽を陥した。朱序は、捕らえて長安へ送った。
 苻堅は、朱序が節義を守り通したことを褒め、度支尚書に任命し、李伯護を不忠者と罵って斬罪に処した。
 秦の慕容越は順陽を抜き、太守の丁穆を捕らえた。苻堅は、これも仕官させようとしたが、丁穆は辞退して受けなかった。
 苻堅は、中塁将軍の梁成を荊州刺史に任命し、一万の兵を与えて襄陽を守らせた。梁成は有能な人間や人望のある人間を抜擢して、彼等を礼遇した。
 桓沖は、襄陽陥落の責任をとって辞職を願い出たが、東晋朝廷は許さなかった。劉波は、一旦は免職となったが、すぐに冠軍将軍に返り咲いた。

 兌州刺史の謝玄は、一万の兵を率いて彭城救援に赴き、泗口に陣取った。そして、援軍が来たことを戴逐へ伝えよううとしたが、彭城は厳重に包囲されている。すると、部曲将の田泓が申し出た。
「私が彭城まで泳いで行きましょう。」
 謝玄はこれを許した。しかし、田泓は途中で秦軍に捕まってしまった。
 田泓を捕まえた秦の将軍達は、一計を案じた。彭城の将兵へ、「南軍が既に敗退した」と伝え、その戦意を喪失させようとゆうものだ。そこで、彼等は田泓に降伏を勧め、厚く贈り物をした。
 田泓は偽ってこれに応じ、彭城の近辺まで連れて行かれると、城へ向かって叫んだ。
「援軍はすぐそこまで来ているぞ!俺は、その報告の為に単身やって来たが、途中で捕まってしまった。お前達は望みを棄てずに徹底抗戦しろ!」
 秦兵は、怒って田泓を斬り殺した。
 さて、彭超は、輜重を留城へ置いていた。そこで謝玄は、留城を攻撃すると宣伝し、後軍将軍の何謙を派遣した。これを聞いた彭超は、彭城の包囲を裂いて、一部の兵を留城守衛に廻した。すると、戴逐がその隙を衝いて、城内の全軍を挙げて撃って出た。そして何謙と合流し、包囲陣脱出に成功したのである。そこで、彭超は空になった彭城へ入城した。
 彭城を占領した彭超は、ここを拠点とし、兌州治中の徐褒に守らせた。そして、自身は南下して于台を攻撃した。

 倶難は、淮陰に勝ち、召保をここへ留めて守らせた。

 東晋の毛虎生は、魏興救援の為、三万の軍勢を率いて巴中を攻撃した。まず、前鋒督護の趙福等が巴西まで進軍したが、秦将の張紹に敗れ、七千余人を失った。
 毛虎生は、巴東まで退却した。
 この時、蜀の人李烏が二万人をかき集めて成都を包囲し、毛虎生に呼応した。しかし、苻堅は、破虜将軍呂光を派遣してこれを撃退させた。
 四月、葦鍾は魏興を抜いた。魏興太守の吉把は刀を抜いて自殺しようとしたが、側近達がその刀を奪った。そうこうするうち、遂に秦軍がやってきて、吉把を捕らえた。しかし吉把は何も言わず、何も食べずに死んだ。
 苻堅は感嘆して言った。
「周孟威といい、丁彦遠といい、そして吉祖沖(吉把)といい、晋には何と忠臣が多いのだ!」
 吉把の参軍の史頴は、東晋へ帰ることが出来た。その時、彼は吉把の臨終の手紙を持参した。東晋は、史頴へ益州刺史の称号を贈った。

 同月、秦の毛當と王顕が二万の軍勢を率いて襄陽から東進し、倶難、彭超と合流して淮南を攻撃した。
 五月、倶難、彭超は于台を抜き、高密内史の毛操業を捕らえた。
 秦軍は、六万の兵力で、幽州刺史の田洛を包囲した。場所は三阿。ここは兌州刺史の謝玄が居る廣陵から、百里しか離れていない。東晋朝廷は大いに鳴動し、江に臨んで防衛戦を張り、征虜将軍の謝石へ水軍を与えて派遣した。謝石は、謝安の弟である。
 東晋の右衛将軍毛安之が、四万の兵力で堂邑へ屯営した。秦の毛當と毛盛が二万の兵力でこれを攻撃したが、毛安之は撃退した。
 謝玄が、三阿救援に向かった。倶難、彭超は敗北して于台まで退却した。
 六月、謝玄と田洛が五万の兵力で于台を攻撃した。倶難、彭超は再び敗れ、淮陰まで退却した。
 謝玄は、何謙に水軍を与えて派遣した。何謙は潮に乗って上流へ向かい、夜、淮橋を焼き払った。この戦いで召保が戦死。倶難、彭超は更に淮北まで退却した。
 謝玄は、何謙・戴逐・田洛等と共に追撃し、君川で戦った。そして、ここでも彼等は秦軍を大いに破る。倶難、彭超は体一つで逃げ帰った。
 こうして謝玄は秦軍を撃退し、廣陵へ帰った。東晋朝廷は、彼を冠軍将軍に任命。更に、徐州刺史を加えた。
 この敗戦を聞き、苻堅は激怒した。七月、檻車にて彭超を徴収し、延尉へ下したので、彭超は自殺した。倶難は爵位を剥奪して庶民とした。毛當は徐州刺史となり、彭城を鎮守した。同じく、毛盛は兌州刺史となり、湖陸を鎮守した。王顕は揚州刺史となり、下丕を鎮守した。
 謝安が宰相となってから、秦が屡々来寇し、辺境が侵略された。人々は危惧したが、謝安は常にこれを鎮めた。その政治は大綱を把握し、細かいことは大目に見た。そこで、彼は王導と比較されたが、文雅では上回ると評判だった。

 この年、秦は大凶作だった。

 さて、秦の征北将軍、幽州刺史行唐公苻洛は、勇敢で、暴れ牛を取り押さえることさえ出来るほど剛力だったし、弓を射れば鉄板でも射抜いた。そして、「代を滅ぼしたのは自分だ」と功績を誇っており、開府儀同三司を求めたが、却下された。これ以来、彼は苻堅を怨んでいた。
 五年、三月。苻堅は苻洛を使節、都督益・寧・西南夷諸軍事、征南大将軍、益州牧に任命し、襄陽へ赴き、更に漢水を遡って行くよう命じた。
 苻洛は部下へ言った。
「孤は帝室の一族なのに、将相になれず、地方へ追いやられてばかりだ。ようやく代を滅ぼしてここに基盤ができたと思えば、今回、都を通り越して西の果てへ行けと言う。これはきっと陰謀だ。梁成へ命じて、孤を漢水へ沈めるつもりだ。」
 すると、幽州治中の平規が言った。
「湯王や武王は、暴虐を打ち払い、徳義を布いて国の基盤を固めました。斉の桓公と晋の文公は、禍を福へ転じました。今、主上は昏暴の主君ではありませんが、余りにも戦争を続け過ぎております。これは、『武徳を穢す』とゆうものでございます。民衆は戦争に疲れ切り、九割方が休息を求めております。もしも明公が義旗を振りかざせば、必ずや多くの民が集まって参ります。
 今、明公は燕全土を掌握し、北は烏桓・鮮卑、東は高句麗、百済までがその傘下に馳せ参じ、動員する武装兵は五十万を越えております。手を拱いて不測の災を待つなど、何と馬鹿げているではありませんか!」
 苻洛は衣を翻して叫んだ。
「計略は決まった!阻む者は斬る!」
 ここにおいて、彼は大将軍、大都督、秦王と自称した。
 又、平規を幽州刺史とし、玄莵太守の吉貞を左長史とし、遼東太守の趙讃を左司馬とし、昌黎太守の王蘊を右司馬となし、遼西太守の王林、北平太守の皇甫傑、牧官都尉の魏敷等を従事中郎とした。
 苻洛は、鮮卑、烏桓、高句麗、百済、新羅、休忍の諸国に使者を派遣して徴兵したが、彼等は言った。
「我等は天子の御為に藩国となったのだ。行唐公の反逆に従う気はない!」
 その返事に苻洛は懼れ、造反を中止しようと思ったが、躊躇して踏ん切れなかった。
 王蘊、王林、皇甫傑、魏敷は、この造反を失敗と見切りを付けて密告しようとしたので、苻洛は彼等を殺した。
 吉貞と趙讃は言った。
「諸国が従わない今、当初の計画は崩壊しました。もしも明公が出征を憚られたのでしたら、使者を派遣してここへ留まることを請願しましょう。主上も、きっとお聞き届け下さると愚考いたします。」
 すると、平規が言った。
「造反が暴露するのは、既に時間の問題です。どうして中止できますか!ここは詔を受けたと宣言して幽州の兵卒を召集し、南進して常山へ出るべきです。そうすれば、陽平公が迎えに出てくるでしょうから、これを捕らえ、冀州を占領します。(陽平公苻融は、冀州を統治していた。)そうして、関東の兵を結集して、西方を滅ぼすのです。そうすれば、アッと言う間に天下を平定できますぞ!」
 苻洛はこれに従った。
 四月、苻洛は七万の兵力で、和龍を出発した。
 苻洛の造反を聞いた苻堅は、群臣を集めて協議した。すると、歩兵校尉の呂光が言った。
「至親でありながら造反した行唐公は、天下の人々の憎悪の的でございます。某ならば、五万の兵力で平定してご覧に入れましょう。」
 すると、苻堅は言った。
「重、洛の兄弟は、東北の一偶に據り、兵力も兵糧も充分。強敵だ。」
「彼の兵卒は、刑罰で脅され、無理矢理かき集められたに過ぎません。もしも我等が大軍で臨めば、彼等は必ず瓦解します。憂えるに足りません。」
 そこで、苻堅は和龍へ使者を派遣して、苻洛の責任を追及した。しかしながら、おとなしく領地へ帰ったら、幽州にて世襲の領主とすることを約束した。
 だが、苻洛は使者へ言った。
「帰って東海王(苻堅はもともと東海王だった)へ伝えよ。幽州では狭すぎて、皇帝を名乗るのには役不足だ。孤は秦中へ出向いて高祖の業を成し遂げる。もしも孤を潼関にて出迎えるなら、上公にしてやってもよいぞ。」
 苻堅は怒り、左将軍の竇衝と呂光へ四万の兵を与えて派遣した。右将軍都貴は業へ駆けつけ、冀州軍三万を率いて前鋒となり、苻融が征討大都督となった。
 北海公苻重は、薊城の全軍を挙げて苻洛と合流し、中山に屯営した。総勢十万。
 五月、両軍は中山にて戦い、苻洛は大敗した。竇衝は苻洛を捕らえて長安へ送った。苻重は薊城へ逃げ帰ったが、呂光が追撃して斬り殺した。
 屯騎校尉の石越が東莱から一万の軍勢で和龍を襲撃して平規を斬り、幽州は平定した。
 苻堅は苻洛の誅殺だけは赦し、涼州の西海郡へ移した。

(司馬光、曰く。)
 功績ある者を賞さず、罪を犯した者を罰さない。これでは、堯、舜と雖も国を治めることなどできはしない。ましてや常人なら尚更である!
 秦王苻堅は、造反が起こる度に、首謀者を赦免した。こうして、臣下達を狎れさせ造反へ導いたのだ。
 危険を冒して万一の僥倖を狙う。例え力及ばずに捕らえられても、殺されることは決してない。これでは相継いで造反が起こるのも当然ではないか!
 書経に曰く、
「威、その愛に勝ちて、まことに救う。愛、その威に勝ちて、まことに功なし。」
 又、詩経に曰く、
「妄りに悪に従う者を赦すことなく、悪を犯す者を謹しめる。暴虐を防ぎて、災いを起こす事なかれ。」
 今、苻堅はこれに背いた。どうして滅ばずに済むだろうか!

 同月。東晋朝廷は、秦軍が撤退したことを、謝安と桓沖の功績とした。その功により、謝安は衛将軍を拝受し、両名共に開府儀同三司となった。

 六月、苻堅は、苻融を侍中・都督中外諸軍事・車騎大将軍・司隷校尉・録尚書事とし、苻丕を都督関東諸軍事・征東大将軍・冀州牧とした。

 この頃、ていの諸族が増加した。そこで苻堅は、一族の各々を藩鎮として、十五万戸の諸ていを分割統治させた。その有様は、あたかも古代の諸侯のようだった。
 苻丕は、三千戸のていを領有した。彼は仇池ていの楊膺を征東左司馬とし、九峻ていの斉午を右司馬とし、各々千五百戸へ与えて世襲の家老とした。又、申紹を別駕とした。なお、楊膺は苻丕の妻の兄であり、斉午は楊膺の舅である。

 八月、幽州を分割して平州を設置した。石越を平州刺史として龍城を鎮守させた。そして中書令の梁党を幽州刺史として、薊城を鎮守させた。

 この年、苻堅は毛操之等二百人の捕虜を東晋へ返した。

 六年、十一月。秦の荊州刺史都貴が、部下の閻振呉仲へ二万の兵を与えて意陵を攻撃させた。桓沖は南平太守桓石虔と衛軍参軍桓石民の兄弟に水陸二万の兵を与えて防がせた。
 十二月、桓石虔は秦軍を襲撃して、大いにうち破った。閻振と呉仲は管城まで退却した。桓石虔は更に進撃し、管城を抜き、閻振と呉仲を捕らえた。敵兵七千人を斬り、一万人を捕虜とする。
 東晋は、桓沖の子の桓謙を宣陽侯とし、桓石虔を河東太守にした。

 この年、江東は大凶作だった。

 七年。秦の大司農・東海公苻陽、員外散騎侍郎王皮、尚書郎周虎が造反を計画したが、発覚して裁判に掛けられた。
 苻陽は苻法の子息。そして王皮は王猛の子息である。
 苻堅が造反の理由を尋ねると、苻陽は言った。
「臣の父の哀公は、罪なくして殺された。臣は父の復讐をしたかっただけだ!」
 それを聞いて、苻堅は涙を零した。
「哀公が死んだのは、朕とは関わりのないことだ。卿もそれは知っているだろうに。」
 今度は王皮が言った。
「臣の父は丞相として、佐命の勲功があった。それなのに、臣は貧賤に身を置いている。だから、富貴になろうと思っただけだ。」
 苻堅は言った。
「丞相の臨終の時、十分な農具と田畑を卿へ残したが、卿の為の仕官運動はしなかった。『子供のことは父親が一番知っている。』と言うが、王猛は何もかもお見通しだったのか!」
 周虎は言った。
「私は代々晋室のご恩顧を蒙った家柄。命ある限り晋の臣下であり、死んだら晋の鬼となる。これ以上、何を言おうか!」
 周虎は、これ以前も屡々造反に加担していた。そこで苻堅の側近達は彼を誅殺するよう請うたが、苻堅は言った。
「孟威(周虎)は烈士だ。計画が失敗した以上、どうして死を憚ろうか!例え彼を殺したとて、彼を満足させ、名を成させるだけではないか!」
 こうして、全員、死一等を減じた。苻陽は涼州の高昌郡へ流し、王皮と周虎は朔方の北へ流した。
 なお、周虎は、朔方にて一生を終えた。苻陽は勇気も膂力も人並み優れており、やがて善(善/里)善へ移住した。建元の末、秦国に大乱が起こった時、苻陽は善善の兵力を使って東征を企んだので、善善王は彼を殺した。
 四月、扶風太守の王永を幽州刺史とした。彼は王皮の兄だが、凶険無頼の弟とは違い、清廉で身を修め、学問を好んだ。だから、苻堅は彼を登庸したのだ。
 苻融を司徒に任命したが、苻融は固辞して受けなかった。そこで苻堅は、晋討伐を考えていたことでもあり、苻融を征南大将軍・開府儀同三司とした。

 八月。苻堅は、諫議大夫の裴元略を巴西、梓潼二郡太守と為し、密かに軍艦などを制作させた。

 九月、車師前部王と、善善王が、秦へ入貢した。
 かつての漢は、服従しない西域諸国を討伐し、都護を置いて統治した。今回入貢した二王は、苻堅にもこれに倣うよう勧めたので、苻堅は西域討伐軍を起こした。
 抜擢したのは、驍騎将軍呂光。彼を使持節、都督西域征討諸軍事に任命し、鉄騎五千を含む総数十万の軍を与えて西域討伐を命じた。
 苻融が諫めて言った。
「西域は遠く、その土地は大半が砂漠です。その民を得ても使役することが出来ませんし、その土地を得ても耕すことが出来ません。漢の武帝の遠征も、それで得たものは消耗した軍費を補えませんでした。今、万里の外へ遠征軍を出されるとの思し召しですが、これは漢氏の過挙を踏襲するに過ぎません。どうか、もう一度考え直されて下さい。」
 苻堅は聞かなかった。

 十月、苻堅は群臣を太極殿に呼び集め、会議を開いた。
 苻堅は言った。
「吾が大業を継承してより、三十年。四方はほぼ平定したが、東南の一隅のみ、未だ王化に浴していない。今、我が兵卒を数えるに、九十七万の大軍である。吾は自らこれを率いて討伐軍を起こしたいと思う。どうか?」
 すると、秘書監の朱彭が言った。
「陛下は天に代わりて道を行うのですか。これを『征伐』と言い、『戦争』とは言いません。晋主はきっと支えきれず、江海に逃げ、屍を曝すこととなりましょう。陛下が、江南へ避難していた民を故郷へ戻し、その後中国を巡回してその成果を泰山にて神へ告げる。何と素晴らしいではありませんか!今こそ、千載一遇の好機です。」
 苻堅は大いに喜んだ。
「それこそ我が志だ。」
 だが、尚書左僕射の権翼が言った。
「昔、殷の紂王は残虐無道な主君でしたので、周の武王は討伐軍を起こしましたが、比干・箕子・微子の三賢人が居ることを思い起こし、引き返しました。後、紂王が比干を誅殺し、箕子を牢へぶち込み、それを見た微子が殷から亡命して、始めて武王は殷と戦ったのです。
 今、晋は微弱とはいえ、未だ大悪はございません。謝安や桓沖は江表の偉人。君臣は睦み、内外心を合わせております。これを以て見ますに、東晋討伐にはまだまだ時期尚早かと愚考いたします。」
 それを聞いて、苻堅は黙り込んだが、しばらくして言った。
「諸君、各々の意見を腹蔵無く述べよ。」
 太子左衛率の石越が言った。
「天文を見ますに、今は呉に福徳がございます。これを討伐すれば必ず天殃が下りましょう。それに、連中は険阻な長江に據り、民は御国の為に力を尽くしております。今討伐軍を起こしてはなりません!」
 苻堅は言った。
「昔、武王は凶年の時に占いに逆らって紂王を討伐したのだ。天道とは幽遠なもの。容易に知ることは出来ない。それに、夫差も孫晧も皆江湖に據りながら滅亡したではないか。今、我が大軍が長江に臨んで一斉に鞭を放り込めば、その流れを断ち切ることでさえ造作ない。険阻な地形など、恃むに足りんぞ!」
「お言葉ながら、その三国の主君は全て淫虐無道な暴君でした。ですから、容易く滅ぼすことができたのです。今、晋は無徳とは言え、大罪はありません。願わくば陛下、兵を休め穀物を蓄え、敵の隙をお待ち下さい。」
 これを皮切りに群臣は各々利害を述べ、容易に結論が出なかった。とうとう、苻堅は言った。
「これこそ、『皆が意見を言い合えば、小さな小屋さえ造ることができない。』とゆうものだ。吾は我が心に従って決断する!」
 群臣が散会した後、苻堅は、苻融一人を留めて言った。
「昔から、大事業は一・二の臣下とだけ諮ったものだ。今、衆言は紛々として、徒に心を惑わせるだけ。よってお前と二人で決定しようと思う。」
 すると、苻融は言った。
「今、晋を討伐するのには、三つの難点があります。
 天道不順(天文が不吉と告げている)。これが一です。
 晋国に隙がない。これが二つ目。
 我が兵は度重なる戦争で疲弊しており、我が民は敵を畏れている。これが三つ目です。
『晋を討伐してはならない』と言う群臣は、忠臣です。どうか陛下、これをお聞き届け下さいませ。」
 苻堅は顔色を変えた。
「お前までそんなことを言うのか!吾には百万の強兵が居り、有能な将軍も山のように控えている。吾は堯・舜でこそないが、闇劣な主君でもないぞ。連勝破竹の勢いに乗じて滅亡寸前の国を撃つのだ。何で勝てないことを患うのか。それに、この残寇を放置して将来に禍根を残すなど、どうして許されようか!」
 だが、苻融は涙を零して言った。
「今、晋を撃つべき時でないことは明白です。この時期に大軍を起こせば、今までの功績が台無しになってしまいます。
 それに、私が憂えているのはそんな事ではありません。陛下は鮮卑、きょう、けつを寵用し、都の付近にも満ちあふれております。しかし、彼等は我々に国を滅ぼされ、深く怨んでいるのですぞ。太子一人と弱兵のみを都に留めて守らせても、不慮の事態が起これば対抗できません。そうなれば、悔いても及びません!
 愚昧な私の言うことなど採るに足らないと言われるのなら、王景略はどうですか?陛下は常々彼のことを諸葛武候にも喩えて居られたではありませんか。その彼の今際の言葉をお忘れになられたのですか!」
 しかし、苻堅は聞かなかった。
 秦の朝廷にも、諫める者は大勢居た。しかし、苻堅は言った。
「吾が晋を討伐するのだ。その強弱の勢を比べれば、疾風が枯れ葉を一掃するようなものではないか。それなのに、朝廷の内外で、皆が不可と言う。理解できん!」
 皇太子の苻宏が言った。
「今年、福運は晋にあります。そして晋の主君に罪はありません。もしも大挙して敗れれば、対外的には我が国威が挫かれますし、国内的には財政が枯渇します。だからこそ、群臣が諫めているのです!」
 苻堅は答えた。
「以前、燕を討った時も天文に逆らっていた。天道とは、かくも知り難いものなのだ。それに、秦は六国を滅ぼしたが、六国の主君が全て暴虐無道だったとでも言うのか!」
 冠軍将軍・京兆尹の慕容垂が苻堅へ言った。
「弱者が強者に呑まれ、小が大へ呑まれる。これは自然の勢い。何も難しいことではありません。
 陛下は聡明、我が国威は海外を振るわせ、軍勢は百万、朝廷には韓信・白起なみの名将が満ち溢れておりますのに、ただ江南の小国だけが、王命に逆らっております。どうしてこれを子孫の代まで禍根として遺せましょうか!
 それに、詩にも言うではありませんか。『策士が多すぎると、意見がまとまらずに何もできない。』と。ですから、陛下が自らの心で決断されれば済むことです。何で朝廷の臣下達に広く尋ねる必要がありましょうか!
 晋の武帝が呉を滅ぼした時、これに賛成したのは張、杜等二・三の臣下に過ぎませんでした。もしも武帝が朝廷の多数の意見に従っていたら、天下泰平の偉業を為し得たでしょうか!」
 苻堅は大いに悦んだ。
「吾と共に天下を平定できるのは、卿一人だけだ。」
 そして、慕容垂に帛五百匹を賜下した。
 苻堅は江東攻略の意欲が益々募り、夜も寝られない程だった。
 苻融が諫めた。
「『足を知れば辱しめられず、止まるを知れば危うからず』と老子も言われました。古より兵を窮め武を極めた者は必ず滅亡しております。
 それに、我が国は元々戎狄。中国の正統ではありません。江東は微弱とはいえ、正朔を継承して、なお存続しております。これこそ中国の正統。これを滅ぼすことは天意に背くでしょう。」
「帝王の暦数など、不変ではない。徳のあるところへ動くものだ!蜀の劉禅は漢の正統な末裔ではなかったか?しかし、遂に魏に滅ぼされたではないか。
 お前が吾に及ばないのは、まさにここなのだ。理の微妙な変化に精通して融通を利かせることが出来ない点だ。」
 さて、苻堅はもともと沙門の道安を重んじていた。そこで、群臣は苻堅を説得するよう道安に頼み込んだ。
 そんなある日、苻堅は道安と共に東范で遊んだ。この時、苻堅は言った。
「朕は公と共に呉・越へ南遊と思っている。長江で船遊びをし、滄海に臨む。何と楽しいではないか!」
 そこで、道安は言った。
「陛下は天の御心に従ってこの世を治め、中土に割拠し四維を制しておられます。まこと、堯・舜の再来と言っても過言ではありません。何で自ら風雨を冒してまで陣頭に立つ必要がありましょうか!
 それに、東南は湿潤な気候で、妖気が満ち満ちている場所です。虞舜はここに遊んで帰らず、大禹はここに行ったきり戻ってきませんでした。何で大駕の御幸を煩わせるに足りましょうか!」
「天が人を生み、これを主君を統治させた。彼等を養わせるためだ。朕が怠惰に溺れて、片隅の人間だけその恩沢に預からせないなど、どうして許されようか!公の言葉が正しいのなら、古の帝王は誰一人として討伐を行わなかった筈ではないか!」
「どうしてもやむを得ないのでしたら、陛下は洛陽に駐屯し、まず使者を派遣して降伏を勧め、諸将へ六軍を率いさせて後続とすれば、晋の君臣はきっと稽首して入貢するでしょう。自ら江・淮まで出向く必要はありません。」
 苻堅は聞かなかった。
 苻堅が寵愛している張夫人が諫めた。
「『天地が万物を生み聖王が天下を治めるのは、全て自然の流れに従うように行っている。だから功績が挙がるのだ。黄帝は、牛に牽引させ、馬に乗るよう教えた。これはその特性に従っている。禹が九つの河を治水した時は、地形に従った。后稷が耕作を始めたが、その工程は気候に従っている。湯王がけつを滅ぼし武王が紆を滅ぼしたのは、民の心に従っている。流れに従って無理をしなければ成功し、事を無理矢理行えば失敗するのだ。』と私は聞いております。
 今、人々は朝臣でも野人でも、全て晋討伐に反対しておりますのに、陛下一人決行なさるおつもりです。陛下が何に従って挙行されるのか、妾には判りません。
 書経にも書いてございます。
『天の聡明は、民の聡明に依る。』
 天でさえ民に依っておりますのに、ましてや人ではありませんか!
 又、妾は聞いております。
『王者が出陣する時は、必ず、上は天道を観、下は人心に従う。』と。
 今、人心にも天道にも背いております。
 諺にも言います。
『鶏が夜に鳴く時は、出陣しても失敗する。犬が揃って騒ぐ時は、王朝が滅ぶ前兆だ。武器が動いて馬が驚けば、その軍隊は大敗し、二度と帰ることがない。』と。
 昨年の秋以来、多くの鶏が夜半に鳴いております。群犬は哀しげに吠え、厩では馬がオドオドしております。そして、武庫では、兵器が自然と動いて音を立てているとの噂まで流れております。これらは皆、出陣の時ではないと告げております。」
 だが、苻堅は言った。
「戦争のことに、婦人が口出しするものではない!」
 苻堅は末子の中山公苻先を一番可愛がっていたが、彼も諫めた。
「『国の興亡は、賢人を用いるか用いないかにかかっている』と、臣は聞いております。今、陽平公(苻融)は国の謀主ですが、陛下はこれに背いております。
 それに、晋には謝安や桓沖がいますのに、陛下はこれを討伐しようとして居られます。臣は納得できません!」
 しかし、苻堅は言った。
「天下の大事だ。子供の出る幕ではない!」

(訳者、曰く)
 昔、呉王闔慮が楚を攻撃しようとした時、軍師の孫武は言った。
「今、連戦で兵卒が疲弊しております。あと五年お待ち下さい。」
 苻堅は度重なる戦争で、姚氏を滅ぼし、燕を滅ぼし、涼を滅ぼした。秦の領土は即位の時に三倍し、領民も増えたが、兵卒は疲弊しきっていたし、兵糧も底を尽き始めた頃だ。しかし、この広大な領土を維持して農桑に勤しめば、五年の後には兵糧は山積みされ、百万の兵卒を一年間戦争に専念させることが出来ただろう。又、五年も経てば負傷兵を全部農地へ返しても、新兵を鍛えて補充するには充分だったろう。だから、ここは国力を増強させる時だった筈だ。
 東晋は微弱とはいえ、燕や涼とは違って、兵卒の士気は旺盛だったし、良将も重んじられていた。主君が愚かでなく、良将が険阻な地形を恃んでいる国は、微小と雖も侮れない。あの後趙も、大挙した挙げ句、小国の涼に撃退されてしまったのである。兵糧もままならず、疲弊した兵卒を使って頑強な抵抗に逢えば、国の基盤が揺らいでしまう。これこそ呉が滅亡した原因だったし、匈奴と戦って赫々たる戦果を収めた武帝も、「あと数年長生きして戦争を続けていれば、却って漢を滅ぼしていた」と評されている。
 こうして考えるなら、東晋討伐に多くの朝臣が諫めたのは、筋道の通ったことである。この一点だけに論旨を集中させれば、誰が反駁できただろうか。
 だが、彼等はそうしなかった。
 ある者は兵卒の疲弊を告げたが、別の者は或いは天文を告げ、占いを告げ、険阻な地形だけを訴えた。しかし、これらの諸問題はいくらでも論駁が利くものであり、苻堅もそれを以て口を塞いだ。
 度重なる戦勝で苻堅の心は傲り、目の前には百万の兵卒が居る。彼が戦争に逸ったのは当然である。その時に及んで大勢の臣下が諫争したが、そのうちの十に八までは簡単に反駁できるものだった。既に心が逸っていた苻堅は、数多くの諫言の中から容易に反駁出来る大半の言葉を言い負かして自信を強め、更に諂い人からそそのかされた。これでは止まる筈がない。
 天文を告げる者、険阻な地形を説いた者、彼等は苻堅の行動を止めるつもりだったが、却ってこれをけしかける結果となってしまった。だから、上役の計画を諫める時には、理由を増やしてはいけない。彼等は反論可能なものだけ反駁し、それによって自信を強め、本当に大切な理由を、詰まらないものとして聞き流すことになってしまうのである。
 もしもこの時、全ての朝臣達が国力の疲弊だけに集中して諫争すれば、いくら苻堅の心が逸っていても、それをグラつかせることくらいはできただろう。(これは、東莱博議「斉、蔡を侵して楚を伐つ」の論旨をこの事件に応用したものである。)

 八年、五月。東晋の桓沖が十万の兵を率いて、秦に奪われた襄陽を奪還しようと攻撃した。
 まず、前将軍劉波にがく北の諸城を攻撃させた。
 輔国将軍楊亮は蜀を攻撃して五城を抜き、陪城へ迫った。鷹揚将軍郭銓は武當を攻撃した。
 六月、桓沖の別働隊が、萬歳、筑陽を攻撃して、これを抜いた。
 苻堅は、征南将軍鉅鹿公苻叡、冠軍将軍慕容垂等に五万の兵を与え、襄陽救援に向かわせた。兌州刺史張崇は武當を救援に、後将軍張毛と歩兵校尉姚萇は陪城を救援に向かった。
 苻叡が新野に屯営し、慕容垂が登城へ入城すると、桓沖はがく南まで退却した。
 七月、郭銓と桓石虔が武當にて張祟を破り、二千戸を掠めて帰った。
 苻叡は、慕容垂を前鋒として進軍し、がく水に臨んだ。
 夜半、慕容垂は全兵卒に十本の松明を持たせ、樹の枝に結びつけさせた。この灯りは、数十里も連なった。桓沖は懼れて退却し、上明へ還った。
 張毛が斜谷まで進軍すると、楊亮は退却した。
 桓沖は、甥の桓石民を領襄城太守として夏口を守備させるよう上表した。又、自らは領江州刺史を求め、許諾された。

 苻堅は、東晋討伐の詔を下した。
「民十丁毎に一兵を徴発した。又、二十歳未満の良家の子弟で勇者の資質がある者は、皆、羽林郎とする。」
 又、言った。
「司馬昌明(東晋皇帝)を尚書左僕射、謝安を吏部尚書、桓沖を侍中とする。この軍勢なら、すぐに戻って来ることになろう。出陣に先立って彼等の邸宅を築造しておけ。」
 良家の子弟は、三万余騎が集まった。秦州主簿の趙盛之に、この少年達を都統させた。
 この時、朝臣達は皆、出陣に反対していたが、慕容垂、姚萇、それに良家の子弟達がこれを勧めた。
 苻融が苻堅に言った。
「鮮卑やきょうの捕虜(慕容垂と姚萇)は、我等の仇敵です。国に大乱が起こり、その隙に志を逞しくすることを、彼等は常に狙っているのです。そんな彼等の口車に、オメオメと乗せられなさいますな!良家の子弟達は、皆、富饒の子息です。戦争の何たるかも知らずに、ただ陛下に阿っているだけです。
 今、陛下は彼等を信用して、大挙を軽々しく起こされますが、これが失敗した時の後難を、臣は懼れるのです。悔いても及びませんぞ!」
 苻堅は聞かなかった。
 八月、苻堅は、張毛や慕容垂等が率いる二十五万を苻融に都督させ、前鋒とした。そして姚萇を龍驤将軍、督益・梁州諸軍事に任命し、姚萇へ言った。
「昔、朕は龍驤将軍だった時、国を受け継いだ。だから、この蜀を軽々しく人に与えたりしなかったのだ。卿はそれ勉めよ!」
 すると、左将軍の竇衝が言った。
「王は戯れを言わぬものです。何と不吉な言葉ですか!」
 苻堅は黙り込んだ。
 慕容楷と慕容紹が慕容垂へ言った。
「主上の驕慢は甚だしい。今こそ叔父上、中興の業をお建てください。」
 慕容垂は答えた。
「そうだ。そしてそれには、お前達の協力が必要なのだ!」
 甲子、苻堅は長安を出発した。戎卒は六十万。騎兵二十七万。旗や太鼓は前後千里に連なった。
 九月、苻堅が項城へ到着した頃、涼州の兵は咸陽へ到着した。蜀・漢の兵卒は揚子江の流れに沿って下り、幽・冀の兵は彭城へ到着した。東西万里に亘って、水陸から進軍し、兵糧を運ぶ船は一万艘を数えた。そして苻融の軍隊三十万が、まず頴口へ至った。

 東晋では、謝安を征虜将軍・征討大都督とし、徐・兌二州刺史の謝玄を前鋒都督とし、輔国将軍謝淡(正しくは王扁)、西中郎将桓伊と共に八万の兵力でこれを防がせた。又、龍驤将軍胡彬に五千の水軍を与えて寿陽救援に向かわせた。なお、謝淡は謝安の息子である。
 この時、秦の大軍に、建康は震え上がっていた。謝玄が朝廷に入って謝安へ計略を尋ねると、謝安は平然としてい言った。
「既に決まっておる。」
 それきり何も言わなかった。謝玄は敢えて聞き返さなかったが、やがて張玄を謝安のもとへ遣り、計略を尋ねさせた。すると、謝安は駕を出して、張玄と別荘へ遊山に行き、一族を呼び集めた。彼等が集結すると、謝安は張玄と別荘を賭けて将棋を打った。普段の謝安は張玄に負けてしまうのだが、この日の張玄は恐れの余り気もそぞろ。遂に負けてしまった。謝安は更に散策し、夜半になって漸く家へ帰った。
 桓沖はこの来寇を深く憂え、精鋭三千を選りすぐって都の守備に派遣しようとしたが、謝安はこれを固く拒んだ。
「朝廷の手筈は既に終わった。これ以上の兵甲は要らない。西藩に留めて防備させなさい。」
 桓沖は佐吏を振り返って嘆息した。
「謝安石は廟堂の才能こそあるが、軍事の素人。今、大敵が迫り来ているのに、遊び呆けている。抜擢した将軍は青二才。軍勢は寡弱。天下の行く末は見えた。俺は左衽(野蛮人の装束)するしかないのか!」

 十月、苻融等が寿陽を攻撃し、勝った。晋の平虜将軍徐元喜等を捕らえる。苻融は、参軍の郭褒を淮南太守とした。
 慕容垂は員城を抜いた。
 寿陽陥落を聞いて、胡彬は狭石まで退却したが、苻融は進軍してこれを攻撃した。
 秦の衛将軍梁成は五万の兵を率いて洛澗に屯営し、淮に柵を築いて敵兵の進軍を阻んだ。謝石と謝玄は、洛澗から二十五里の所に陣を布いていたが、梁成を懼れ、敢えて進まなかった。
 胡彬は兵糧が尽きたので、密かに謝石のもとへ使者を派遣した。
「今、賊軍の勢いは盛んで、我が軍は兵糧が尽きました。このままでは援軍が間に合いません!」
 だが、秦の兵卒がこの使者を捕らえ、苻融のもとへ送った。そこで、苻融は苻堅のもとへ使者を派遣した。
「賊は寡少で、簡単に捕らえられます。ただ逃げ出されるのを恐れるばかり。どうか、速やかにお越し下さい。」
 そこで、苻堅は大軍を項城へ留め、軽騎八千を率いて寿陽へ急行した。そして、朱序を使者として、謝石のもとへ派遣した。
「強弱は明らか。速やかに降伏せよ。」
 だが、朱序は私的に謝石等へ言った。
「もしも秦軍百万の軍勢が勢揃いしたら、とても太刀打ちできません。ですから、今、敵が集結する前に撃破しましょう。もしもその前鋒を破れば、敵方の戦意は喪失し、そこに勝機が見出せます。」
 苻堅が寿陽まで来たと聞き、謝石は甚だ懼れ、戦わずに敵軍が消耗するのを待とうと考えた。しかし、謝淡が、朱序の言葉に従うよう勧めた。

 十一月。謝玄は、劉牢之率いる五千の精鋭を洛澗へ派遣した。
 その軍が十里も行かぬうちに、梁成は陣を布いてこれを待ち受けた。劉牢之は直前で川を渡り、梁成を攻撃して大いに破った。この戦いで、劉牢之は、梁成と、弋陽太守の王詠を斬った。
 又、軍を分けて敵の帰路を断ったので、秦軍は崩壊し、争って淮水へ逃げた。秦兵一万五千人が戦死し、秦の揚州刺史王顕を捕らえ、多くの武器を押収した。
 この機を逃さず、謝石等晋の諸軍は水陸から並び進んだ。
 寿陽城に登り、苻融と共にこれを見下ろした苻堅は、晋兵が整然としているのに驚いた。又、八公山の草木を晋兵と見誤り、苻融を顧みて言った。
「これは強敵ではないか。東晋が弱いなどと誰が言ったのか!」
 憮然として、その顔に、始めて恐怖の色が浮かんだ。
 秦軍は、肥水へ逼って陣を布いた。晋軍はその川を渡ることが出来ない。謝玄は苻融のもとへ使者を派遣して言った。
「君の軍は深入りし過ぎた。それなのに水辺に陣を布いているが、これは持久戦の構えで速戦には適さない。そこで提案するのだが、少し退却してくれないか?そうすれば我々は渡河しよう。一気に勝負を付けるには、その方が好都合ではないか!」
 秦の諸将は皆言った。
「我々は大軍で、敵軍は寡勢。それに加えて渡河させなければ、万全です。」
 しかし、苻堅は言った。
「ほんの少しだけ退却し、敵が渡河している中途を我が鉄騎で撃破する。そうすれば必勝疑い無しだ!」
 苻融も賛成し、退却を命じた。だが、ほんの僅かの後退だった筈なのに、その退却に歯止めが利かなかった。(両陣が相対した時、退却した方が敗れる。それは用兵の常勢である。)
 謝玄、謝淡、桓伊等は兵を率いて渡河し、敵を攻撃した。苻融は統制を取ろうと戦場を駆け回ったが、退却する兵卒達の流れに巻き込まれ、馬が倒れた所を、晋兵に殺された。遂に、秦軍は瓦解した。謝玄は、勝ちに乗じて青岡まで追撃した。
 秦軍は大敗し、人の流れに乗れずに味方から踏みつぶされた死体が野原を覆う有様だった。逃げる者は、風の音や鶴の鳴き声さえも敵軍来襲の音と聞き誤り、夜昼なしに全速力で逃げ続けた。追撃を恐れて山野に伏したので、飢えと凍えが重なって七・八割の兵卒が野垂れ死んだ。
 始め、秦軍が少し退却する手筈だった時に、朱序が陣の後方から大声で騒ぎ立てたのだ。「我が軍は敗れたぞ!」
 こうしてパニックに陥った秦軍は本当に瓦解してしまったのである。
 このどさくさに紛れて、朱序は、張天錫、徐元喜と共に降伏した。

 この戦いで晋軍は、苻堅の乗っていた雲母車を捕獲した。寿陽は回復され、淮南太守の郭褒を捕らえた。
 苻堅は流れ矢に当たり、単騎で逃げた。淮北まで逃げこんだ時に甚だしく餓えていたところ、豚の煮物を献上する民が居た。苻堅はこれを食すと、帛十匹と綿十斤を褒美として賜下した。しかし、献上した男は、これを辞退して言った。
「陛下は苦言を退け、甘言を楽しんで、遂にこの苦境へ陥られました。とはいえ、陛下は民の父、民は陛下の息子同然です。父親を養って見返りを求める息子など、どこの世界に居りましょうか!」
 そして、振り返りもしないで去って行った。
 苻堅は張夫人へ言った。
「これから何の面目あって天下を治めようか!」
 苻堅の目から涙が溢れて止まらなかった。
 この時、秦の諸軍は壊滅したが、慕容垂率いる三万の陣は無傷だった。苻堅は、千余騎と共に、この陣へ逃げ込んだ。
 世子の慕容寶が、慕容垂へ言った。
「燕が転覆して以来、天命も人心も、全て至尊へ集まりました。ただ、未だ時が至らなかった為、その志を隠してきたのです。今、秦主は敗戦し、その身を我々に委ねてきました。これは、燕を復興せよとゆう天の思し召しです。この好機を失ってはいけません。今まで蒙った微弱な恩など顧みず、社稷の重さだけを思われて下さい!」
 だが、慕容垂は言った。
「お前の言う通りだ。しかし、彼は命を擲って私のもとへ逃げ込んできたのだ。どうして殺したり出来ようか!それに、天が彼を見捨てたのなら、別に殺さなくても何もできまい。 今は彼を保護して、今までの恩顧に報いよう。そして静かに隙を待って大願を謀ればよい。ここで恩を返しておけば心に負い目も残らず、堂々と正義を標榜して天下を取ることも出来るではないか。」
 奮威将軍の慕容徳が言った。
「秦が強かったから、燕を併呑したのです。秦が弱くなればこれを図る。これは『仇に報い恥を雪ぐ』と言うもので、心の負い目とは言いません。兄上は、どうして彼を殺さず、却って数万の兵卒を与えたりするのですか?」
「昔、太傅から睨まれ身の置き所さえなくなってしまった私は、生き延びる為に秦へ亡命してきた。にもかかわらず、秦主は私のことを国士として遇してくださったのだ。後、王猛に陥れられた時にも、申し開きする証拠さえなかったが、秦主は信じてくれた。この恩をどうして忘れられようか!
 もしも、ていの国運が尽きたというのなら、私は兵を関東へ結集し、まず、業を復興しよう。関西については、手出しをするつもりはない。」
 冠軍行参軍の趙秋が言った。
「明公が燕を復興することは、図讖にも記されています。今、天の時が至ったとゆうのに、また何を待たれるのですか!もしも秦主を殺し、業に據って軍鼓を鳴らして西進すれば、三秦もまた苻氏のものではありませんぞ!」
 その他、慕容垂の親党の多くが苻堅殺害を勧めたが、慕容垂は従わず、麾下の兵卒の指揮権を苻堅へ返した。
 平南将軍の慕容偉は員城に駐屯していたが、苻堅の敗北を聞き、部下を棄てて逃げ出した。栄陽まで来た時、慕容徳は彼にも起兵を勧めたが、慕容偉は従わなかった。
 謝安は、伝令を得て、秦軍の敗北を知った。その時、彼は丁度客と棋を囲んでいたが、勝報を無造作に机の上に置き、喜んだ顔さえ浮かべず、棋を続けた。
 客が何の知らせか問うと、謝安は静かに答えた。
「なあに。小僧っ子が、賊軍を撃退したのさ。」
 だが、客が帰ってしまうと、躍り上がって喜び、屐(木製の靴の一種)の歯が欠けたことにさえ気がつかない有様だった。
 丁亥、謝石等が建康へ帰った。彼等は秦の楽工達を捕虜として連れてきた。東晋は亡命王朝だったので、宗廟での正統な音楽を演奏できる人間が居なかったのだが、これによってようやく奏でられるようになった。
 乙未、張天錫を散騎常侍、朱徐を琅邪内史とした。

 

(訳者、曰く)
 肥水の戦いは、その規模から言っても中国史有数の戦いであり、しかも少数で大敵を撃破した戦いでもある。その「寡を以て衆を討つ」性格上、多くの学者が、この戦役に関して論を立て、秦の敗戦の原因を解析した。
 私もいくつか目を通してみたが、最も的を得たと思えるのは、東莱博議の「莫傲屈瑕」である。この記述と併せて一読されることをお勧めする。