斉、蔡を侵して楚を伐つ

 

(春秋左氏伝)

 斉の桓公の二十九年(魯の僖公の三年)。斉侯、宋公、江人、黄人が穀陽で会盟した。これは楚討伐の相談の為である。魯では、この会盟に公子の友を参加させた。

 さて、桓公は、蔡から正室を娶っていたが、この年、彼女と不仲になり、実家へ追い返した。すると蔡の領主も腹を立て、彼女を早々と別の所へ再婚させた。それで桓公は激怒し、翌年、諸侯を総動員して蔡を討伐した。従軍したのは宋公、陳侯、衛侯、鄭伯、許男、曹伯。この大軍の前に、蔡軍は壊滅した。
 だが、たかが夫婦喧嘩の挙げ句、六カ国の軍勢を総動員したのでは、いくらなんでも人聞きが悪い。そこで桓公は、管仲の献策を採って、そのまま楚の征伐へ向かった。
 これに対して、楚の王は使者を派遣した。
「君は北海に住まわれ、寡人は南海の住人。天と地ほども離れておりますのに、今回ははるばる何のご用でございましょうか?」
 すると、管仲が言った。
「昔、我が君のご先祖が斉に封じられた時、時の執政が言われた。『まつろわぬ者共を成敗し、以て我が周室を助けよ、』と。今、楚が貢ぐべき包茅が周室へ届かず、王の祭祀に支障を来しているので、その訳を問い質しに来たのだ。又、昔、昭王陛下が南征へ行かれたのに、未だに戻ってきていない。この事も併せて詰問する。」
 すると、使者が言い返した。
「貢ぎ物の包茅が周室へ届かなかったのは、当方の手落ちです。謹んでお言いつけに従いましょう。しかし、昭王が南征に来られたのは、遠い昔の話ではありませんか。そのような事は河の龍神にでもお尋ね下さい。」
 斉軍は更に進軍したが、今度は楚の将軍が軍勢を率いて対峙した上で申し出た。
「貴君が徳を修められるのなら、我々は従いましょう。しかし、暴虐にも武力で制圧しようとの心なら、徹底抗戦いたします。」
 結局、斉は楚と盟約を交しただけで引き返した。

(博議)

 小人の悪を甚だしくしようとすれば、却ってその悪を寛恕する結果となってしまう。小人の悪業を水増しすると、小人の罪を薄くする結果となってしまうものである。

 そもそも小人とは、自分が得をするためならば他人の事は顧ないものである。彼等は常に悪心を抱き、悪行をものともしないで、毎日毎晩他人の隙を狙っている。だから、一旦彼等の悪業を暴露してその罪状を詰問すれば、連中はどう言い訳ができるだろうか?しかしながら、小人は詰問者へ向かって堂々と言い返す。
 だが、これにはそれなりの理由がある。それは、小人が開き直ったわけではない。小人を詰問する人間の手落ちである。
 小人を詰問する者は、その罪状を数え上げる時に、彼等を非常に憎み、絶対に恐れ入らせてやろうと手ぐすね引いている。だから、「この程度で本当に連中が恐れ入るだろうか?」と不安に思い、ついつい真実の罪状の他に嫌疑不確かな罪状まで水増しして詰問してしまうのだ。しかし、それこそ小人にとって願ったり。彼等は大喜びで道理に従って言い返す。そしてその結果、傍観者達までも詰問者が横暴であったと憮然としてしまうのだ。
 いわゆる小人とゆう連中は、常に悪事ばかりを働いているので、言い訳のしようがないと思い煩っている。だから、「追求する者に一言の言い過ぎや一文字の間違いでもあったなら、どう言い返そうかこう言い返そうか。」と常日頃から考えているものである。そんな状態で、こちらの方から故意に無実の罪で相手を詰ったのだから、どうして言い返さずに済ますだろうか。これは、彼等に言い訳の糸口を与えるようなものだ。
 小人は、実際に悪事を行っている。だが、相手がこれに虚偽の悪事を追加したら、彼等はそれを論ぱくするだけではなく、最初の実悪でさえも虚悪であるかのように振る舞ってしまう。だから小人は、君子が自分の罪を水増ししないで、事実だけを非難するのではないかと恐れているのだ。
 嗚呼、君子は何を苦しんで一偽の為に百の真実を失わせるのか?小人も、何の幸いで一誣を借りて百の咎から解き放されるのだろうか?

 ここで、商人が市場で物を売ることを考えてみよう。
 秤を手にして、一銖のものは一銖、一鈞のものは一鈞、一両は一両、一石は一石と、きっちりと計って売るので、買う者もそれで納得するのだ。ところがここに、少しでも得をしようと、秤に手を加えた者が居たとしよう。その不正が暴露されたら、僅か毫毛程のごまかしだったとしても、人々はこぞって其の商人を見限り、彼は二度と取り引きしなくなってしまうだろう。
 秤が既に決まってしまったら、これに手を加えると貪欲と譏られてしまう。それと同様に、既に罪悪が定まってしまったのだから、これに妄りに悪行を加えれば、「濫」(むやみに、やたらに)と譏られる。だから、財貨を取る者が取ってはならない財貨に手を出せば、当然手に入る利益さえ棒に振ってしまうように、小人の罪を詰問する者が、小人に濡れ衣まで着せてしまうと、当然詰問するべき罪でさえ詰問できなくなってしまうのだ。
 商人が当然取るべき利益だけ手にすれば、顧客を逃がさない。君子が、当然糺すべき罪だけを詰問すれば、小人には逃げ場がない。何で事実を曲げてまで過剰に罰しなければならないのか?

 斉の桓公と管仲が楚を征伐した時、貢ぎ物が滞っていることを責めて討伐したらなら、楚の君臣は言い逃れもできずに服従したに違いない。しかし、斉の君臣は、貢職を怠ったことだけでは討伐の理由として貧弱だと考え、遠い昔の昭王の事件まで持ち出して楚の君臣を詰問した。
 この時、実は桓公は私的な怨恨で諸侯を集めて蔡を討伐した。この専横の事実を覆い隠すために、彼等は楚の討伐を聖戦に転化したかった。それ故、開戦の理由をことさら大袈裟に持っていった挙げ句がこの詰問となったのである。
 だが、昭王が南征に行ったきり帰らなかったとゆうのは、この時代から数えても数百年もの昔である。その事実は曖昧模糊としており、当事者は子供すら一人も残っては居ない。これでは、たとえ楚の君臣が誠実な人間だったとしても、この詰問をオメオメ受け入れる筈がない。これこそが、斉の君臣が「水浜の悔」を喫した所以である。
 もしも彼等が詰問を貢職の一件だけで済ませていたら、中華に反逆し続けていた楚に謝罪させるとゆう偉業が達成できたのである。ワザワザ大軍を以て遠征しながら僅かに盟約を結ぶことしかできなかったことと比べて、どちらが赫々たる成果だっただろうか?

 そもそも、影が形に従って動き、反響が音に従って響くように、刑罰は悪行に従って下すものである。その高下も軽重も、影や音や悪人自らがこれを生むもの。一形が両影を生み、一音が両響を生むとゆう道理など、有って良い筈がない。だから、君子が裁判をする時には、相手の犯した罪をつまびらかにし、罪が重ければ罰も重く、罪が軽ければ罰も軽くするもので、そこに感情を差し挟んではいけない。
 憤怒に耐えない時に、私情を挟んで罪を重くしたなら、これは相手を私的に罰したのである。相手の罪を糾明したのではない。他国を征伐し、他族を覆滅し、人身を惨殺するとゆう暴挙を私的に行う。なんと危うい所行か!
 さて、小人が君子を譏ったとしよう。これは勿論「誣」である。しかし、君子が小人の罪を水増ししたら、やはり「誣」である。小人が君子を「誣」するのは、全体の「誣」だが、君子が小人を「誣」したのは、一事の「誣」に過ぎない。この二つの「誣」には大小の違いがあるが、しかし、結局は同じ「誣」であると評価されてしまう。君子が小人の「誣」に立腹し、そのやり口を真似て相手を「誣」した。これでは、どうして相手を責めることができようか?
 斉が楚を討伐した時、ここの道理を桓公へ説く人が居なかったのは、誠に惜しむべき事である。

 それでは、楚の罪過は、果たして貢職を怠った事だけなのだろうか?
 とんでもない!
 楚は、周王室の権威が衰退したことを聞き、王位を僭称しているではないか!傲慢な虚号で自ら娯しみ、その僭上の罪悪は天下に鳴り響く。これは国家へ対する反逆罪であり、決して許すことのできない大罪悪である。
 桓公と管仲は大軍で遠征を掛けた為に、その名分を付けようと、遙か昔の悪行まで持ち出して相手の罪を水増しした。そんな彼等だから、もしも楚の領主が「王」を僭称していると知ったならば、必ずこれを詰問したに違いない。しかし、現実には、彼等はこの点に触れなかった。だから、彼等はこの一件に気がつかなかったと断定できる。
 だが、これは不思議なことだ。楚の領主が「王」を僭称している事は、当時の人間なら誰もが知っている常識ではなかったか?何で斉の君臣だけがこれを忘れていたのだろうか?それは、彼等が戦争の大義名分を創ろうとやっきになっていたせいなのだ。
 こじつけの理由を必死になって考えて、あらを探そうと細かいところばかり探しまくる。そしてあら探しが細かくなればなる程に、目の前にある明白なことから、尚更目が離れてしまうのだ。
 ある女性が、かんざしを落とした。そのかんざしは、彼女の目の前に横たわっていたのだけれど、彼女は必死になって探し回り、混乱の中で気が急いて、目の前の簪が益々見えなくなってしまった。こんなことは良くあることだが、彼女はどうして探し出せないのだろうか?それは、心が切羽詰まった挙げ句、目がみえなくなってしまった為だ。
 桓公と管仲は、楚の犯した滔天の大罪を見逃した。その理由こそこれである。