魏寿余、朝廷にて士会の足を踏む  

  

  

(東莱博議) 

”手を執って導くだけでなく、明確な事実を以て証とし、
 面と向かって言い聞かせるばかりか、耳を引っ張ってでも聞かせたい。(詩経「抑」)”
 と言われているが、人を説得するのは何と難しい事だろうか。
 我がこれを「曲がりくねった道だ。」と言えば、彼は同じ物を「天下の大道だ。」と言う。我がこれを「毒薬だ。」と教えれば、彼はそれを「良薬だ。」と言い返す。ああ、ここまで食い違っているのに、どうやったら相諭しあえるのだろうか。
 言う者は聞く者の心を知らず、ただ悟りが遅いことを恨む。聞く者は言う者の心を知らず、ただ急激な理論の展開に目を白黒させている。攻める者がますます努めれば、閉じる者はますます堅くなる。ますます煩雑な説明が行われれば、聞く方はますます聞き流す。
 南面して君、北面して臣、東面して師、西面して徒。それらの間で百の諫言も従われず、何度告げても聞かれないのは、全てこれが原因である。 

 ところで、かつて魏寿余が士会を誘った場面を見てみるに、ただ足を踏んだだけで、全ての事が通じてしまった。これは一体どんな術策を使って、こんなに速やかに伝わったのだろうか?
 これは、魏寿余の術が巧みだったのではない。士会が切実な想いでこれを聞いていただけなのだ。
 故国を思う士会の想いは、獣が住穴を想い、鳥が林を想い、魚が淵を想うようなものだったのに、閉じこめられ拘束されて、馳せ戻ることができなかった。その彼に、晋へ帰れる期待が起こったならば、微かな端緒を示されただけでも、心に響き魂で受け止め、踵を接するようにたちまち通じてしまったのも無理はない。
 ああ、切実な想いで聞いていたからこそ、かくも速やかに感じ得ることができたのだ。もしも、士会の心の中の故郷を想う念がこんなに切実でなかったならば、魏寿余が喩え股を刺し胸を叩いたとしても、きっと士会は悟らなかっただろう。 

 丙ショクと閻職は一度罵り合っただけで感応して懿公は殺されてしまった(※1)。二人の怨みを蓄えることが切実だったからだ。魏氏と韓氏が肱をつつき合っただけで智伯氏は滅んだ。(※2)両氏の患を切実に憂えていた為だ。そして、魏寿余と士会は一履で相悟り、去計が定まった。士会の帰国を謀る想いが切実だったからだ。
 これらの数人が、怨みを蓄えるような想いで徳を蓄え、患を憂うるような想いで善を憂え、帰国を謀るような想いで道を謀ったならば、彼等は皆、肱でこづかれたり目配せされただけで至理を悟ることができるのだ。諄々と諭しても茫漠としている者達とは大きな違いだ。まさしく、「切実」の一文字こそ、道学に入る門である。 

 孔子や孟子の後、数千年の間、感発転移の機は天下に現れなくなった。だから、学者達は塵の積もった古書を誦読し、嘆息して呟くのだ。
「我は死ぬまで、孔子や孟子が体験したような感動的な事件に出会うことができまい。」
 だが、彼等は知らないのだ。道は離れることができないし、理は不滅である。孔子や孟子が往ってしまっても、感発転移の機が孔孟と共に往ってしまうわけではない。振り返ったらこれを古に見るが、前を向いたら今に見れるし、仰ぎては朝廷に見られ、伏しては野に見られる。
 人々が利害でせめぎ合ったり、事に依って団結したり、その一つ一つの事件毎に、この機がこの理が発しているのだ。利益を独占したがる貪欲な人間達の所業でさえも、そのその行動や集合離散、出没変化の一つ一つに多くの理が発現している。
 それらは口では語らず、事の顛末で伝えられる。これを見るには、その事績ではなく、心に響くものとして感じなければならない。その境地まで達すれば、市場の露店でさえも洙泗の浜の如く、工賈商旅の中に子遊子夏の用を見い出せるのだ。 

 ああ、目を挙げてみれば全てが妙用なのに、彼等は見ようともしない。耳に満ちるものは全て心に響くのに、聞こうともしない。一日中理と共に居るのにこれに遭えないと嘆く。
 ああ、理が人に遇わないのか?人が理に遇わないのか? 

  

(※1) 

 斉の懿公が公子だった時、丙ショクの父親と訴訟をして負けた事があった。襲爵すると、彼は丙ショクの父親の死体を掘り起こして足を斬ったが、丙ショクは公の車の御者にした。
 又、懿公は閻職の妻を奪ったが、閻職は車の添乗役にした。
 ある時、懿公は申池で遊んだが、この時、丙ショクと閻職が喧嘩になった。
 丙ショクは、閻職を馬の鞭で叩いた。そして、閻職が怒ると、丙ショクは冷やかした。
「妻を奪われても怒らないくせに、このくらいがなんだ。」
 すると、閻職は言い返した。
「父親を足斬りにされても恨めない奴と、どちらがましだ?」
 そこで二人は相談し、懿公を殺して亡命した。 

  

(※2) 

 晋の四人の大夫のうち、智伯が魏氏と韓氏を率いて趙氏を討伐した。しかし、趙氏が必死で抵抗したので、智伯は水攻めに出た。趙の都の周りを堤防で囲んで、川の水を引き入れたのだ。趙の都は水没し、降伏寸前。智伯は、魏氏や韓氏と共にこの有様を見物して言った。
「国を滅ぼすには兵を使う物と思っていたが、水を使っても滅ぼせるのだな。」
 これを聞いた魏氏は、”次は我々が滅ぼされるかも知れない”と危惧して、韓氏の肱をつついた。
 その夜、魏氏と韓氏は堤防を決壊して智氏の陣へ水を導き、趙氏と共に智伯を殺して智氏を滅ぼした。
 後、晋は魏、韓、趙の三氏によって分割された。

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