衛旱し、刑を討つ。
 
(春秋左氏伝) 

 魯の僖公の十八年。刑が衛を攻撃した。
 翌年、衛の主君は刑へ報復しようと思った。
 この頃、衛は日照り続きだった。山川の神を祀って占ってみたら不吉だった。だが、ィ荘子は言った。
「昔、周で飢饉が起こったが、横暴な殷を討伐したら、途端に豊作となった。今、刑は無道である。そして、我が国には旱魃が起こった。これは、天が我々に、刑を討伐させようとしているのだ。」
 そこで出陣したところ、果たして雨が降った。 

  

(東莱博議) 

 昔の戦上手と言われた将軍達は、神怪に託して部下を使った。そうやって一時の勝利を得ることはできるが、その患は後世へ流れて患いとなる。ただ、皆が疑うようなものに仮託した場合、その患は小さい。患が大きいのは、人々が信じてしまいそうな物へ仮託した場合である。
 牛の声を聞いた卜偃は、これを天の声と言い立てて、出陣を進めた。
 田単は、城内の民へ、食事時には庭で神を祀るように命じたので、城内へ沢山の鳥が舞い降りた。そこで田単は、「神が舞い降りた」と称して兵卒を励ました。
 陳勝が決起した時、魚の腹の中へ丹書した帛を隠しておき、これを取り出して兵卒へ示した。
 樊祟は、常に巫女を周辺に置いておき、彼女達の言葉だと言い立てて、兵卒達へ命令を下した。
 これらは皆、神怪に仮託して衆人をいつわるものである。だが、これらのことは単なる妖異談なので、愚者を騙すことはできても智者を騙すことはできない。小人を欺くことはできても、君子を欺くことはできない。そして、その場限りで功績を治めることはできても、後世の人間まで騙し続けることはできないものだ。
 このような事は、深く論じる必要はない。だが、衛が刑を討伐した時に仮託した事については、深く論究しなければならない。 

 そもそも天とは、人々が仰ぐものである。聖人は、人々が尊敬する者である。「天」に仮託すれば、人々がどうして逆らうだろうか。そして聖人に仮託すれば、人々がどうして敢えて追求しようとするだろうか。
 衛が刑を攻撃しようとした時、どうすれば衆人を意のままに動かせるか、その方法が見つからなかった。その時、ィ荘子は旱魃が起こったことを理由にして、民を動かすことを考えた。
 彼は言った。
「昔、周で飢饉が起こったが、横暴な殷を討伐したら、途端に豊作となった。今、刑は無道である。そして、我が国には旱魃が起こった。これは、天が我々に、刑を討伐させようとしているのだ。」
 ィ荘子としては、天の玄妙さと武王の名声を借りて、衆人がみんなして信じている物を取り、国民を誑かして戦争へ駆り立てようと思っていたに過ぎない。
 昔、後漢の光武帝が河を渡る時、黄河が氷結していることを信じていたわけではなかったが、行ってみたら偶々黄河は凍結していた。(※1)同じように、刑を討伐する時のィ荘子は、そんなことで雨が降るとは思っていなかった。ただ、出陣したら偶々雨が降ったのだ。
 だが、偶然雨が降ったにもかかわらず、まるで天が感応して雨降らせた必然の出来事のように感じられた。こうして人々はこれを必然の出来事として語り伝え、後世へ遺したのである。
 この戦役は、衛にとっては幸運だった。しかし、後世にとっては大きな不運だった。 

 刑を討つの戦役で、ィ荘子は「雨が降る」と言葉に出し、軍隊が出動し、雨が降った。この三つの出来事が、響きに応じるように、影が形に従うように相継いで起こったので、後の人々は思ったのだ。
”天の心を測り知ることができる。そして、天を動かすこともできる。”と。
 日照りを儀式のせいにして(後漢書)、星の異変を補弼のせいにして(※2)、火災を外戚の横暴のせいだとする(※3)。上天を矯誣し、六経を粉飾し、傲然として忌憚がない。その端緒を開いたのが、ィ荘子なのだ。
 ああ、ィ荘子。まぐれ勝ちの一勝を得たいのなら、他に方法があっただろう。勢力で人を使うこともできたし、煽動して使うこともできたし、賞罰で使うこともできた筈だ。激揚奮発、施す術がないなどと、どうして患おうか。どうして古今から信じられているものを軽々しく取って、その権威を俗世へ引き下ろすような真似をしたのだ。 

 天を本当に知らなければ、天の大きさを貶めても気になるまい。聖人を本当に知らなければ、聖人の尊さを貶めても、それと気がつくまい。その名声だけを空で聞き、その理に暗い。そんな人間が大勢居ることこそ、ィ荘子のような輩の説が民間に持てはやされる理由なのだ。
 だが、天や聖人を本当に知っている人間は、そんな連中とは違う。
 原憲が貧しく、顔回が夭折したような事実を見ても、天が善へ禍することを信じず、慶封が富み、盗跖が長寿だったような事実を見ても、天が淫へ利することを信じない。「速やかに貧しく、速やかに朽ちる。」とゆう言葉を聞いても、それが孔子の言葉だとは断じて信じず、「杵を漂わす程の血が流れた」とゆう言葉を聞いても、それが武王の所業だと信じない。
 けだし、彼等が知っているのは、理であり、偶然の一事実ではないのだ。実であって、名ではないのだ。百人のィ荘子が居たとしても、このような人間は、絶対に騙せない。 

  

(※1) 

光武帝が渡河しようとして、斥候に様子を見に行かせたところ、彼は復命した。
「河の水は流れており、舟がなくては渡れません。」
 だが、王覇は光武帝へ偽って報告した。
「河の水は凍り付いています。このまま渡れます。」
 そこで光武帝が進軍したところ、渡し場へ着いた時には、河は凍り付いていた。 

  

(※2) 

不吉な星と言われる火星が、宋の公室の星を犯した。そこで、天文官が宋の主君へ言った。
「このままでは、我が君へ禍が生じます。禍を宰相へ移しましょう。」
 すると、宋の主君は言った。
「宰相は、我が補弼。彼を害するようなことはできない。」
「それならば、禍を民へ移しましょう。」
「民を守る為に主君がいるのだ。我が為に民を害することはできない。」
「それならば、禍を歳へ移しましょう。」
「それは飢饉が起こると言うことだ。やはり民が苦しむではないか。」
 そこで、天文官は言った。
「天は人の心に感じます。今、我が君には三つの嘉言がございました。きっと、天も感じているでしょう。」
 そして観測し直すと、火星は三度動いていた。 

  

(※3)   

 後漢の哀帝の頃、外戚の丁氏と傅氏が専横を極めていた。人々はこれを憎み、五行官は、災害が起こる度に彼等二族のせいであると弾劾した。