東莱博議  斉・魯、長勺に戦う。付、士薦、晋侯がかかくを伐つのを諫める。

 

(春秋左氏伝)

 魯の荘公の十年、正月。斉の軍が魯を攻めた。魯の荘公は迎撃しようとした。
 ここに、曹歳(歳/刀)とゆう男が居た。彼は戦争が起こると聞いて、荘公へ助言をしに行こうとした。すると、同郷の人間が言った。
「よせよせ。偉い人たちがたくさんおらっしゃるから。」
「いや、あの偉い人達は、みんな頭が悪いからな。深謀遠慮を知らんのだ。」
 曹歳は、荘公へ謁見すると、戦争の為にどんな準備をしたのか尋ねた。すると、荘公は答えた。
「朝廷の衣服や食糧などを、寡人は独占せず、将士へ分配しておる。」
「それは小恩小恵と申すもの。そんな事くらいでは、とてもとても戦争は出来ません。」
「祭祀の供え物や祝詞には、いい加減なことをせず、きっちり儀礼通りに行っている。」
「それは小さな信義。そんなものでは、神鬼も助けては下さいません。」
「訴え事が起これば、大小に関わらず、寡人が十分吟味しておる。決して間違いがないとは言えぬが、それでも情理は尽くしておるぞ。」
「それは民を愛する心の現れでございます。それならば、一戦できましょう。もしも賢君が戦われる時には、きっと私にもお手伝いさせて下さい。」
 この問答で、荘公は曹歳を気に入り、戦争の時、戦車に添乗させた。

 両軍は長勺で戦った。荘公が軍鼓を打ち鳴らそうとすると、曹歳は言った。
「まだまだ。」
 斉軍では軍鼓が打ち鳴らされる。それが三回を数えた時、曹歳は言った。
「それ、今こそ。」
 魯軍でも軍鼓が打ち鳴らされ、志気を鼓舞された兵卒は斉軍を撃破した。荘公が追撃を掛けようとすると、曹歳は言った。
「暫くお待ち下さい。」
 そして下車して敵軍の轍を調べてから言った。
「大丈夫です。追撃しましょう。」
 魯軍は斉軍を追撃して、更なる戦果を挙げた。
 戦争が終わった後、荘公は曹歳に訳を尋ねた。すると、曹歳は言った。
「戦争とゆうのは、いわば兵卒の志気を競うようなもの。軍鼓が鳴れば、兵卒の志気は高まりますが、二度目に鳴った時には、やや衰えます。そして、三度目になると、完全に尽き果てるのです。その時、こちらは攻撃を掛けました。あちらは志気が尽き、こちらの志気は満ちている。だから勝てたのです。追撃を掛ける時には、敵の撤退が偽装ではないかと疑いましたので、轍や幟を確認しました。すると、どちらも乱れており、統制が執れていませんでした。ですから、本当に算を乱して逃げているのだと確信したのでございます。」

 

(博議)

 儒学者の迂遠な論など、軍人は軽蔑している。
 鉦や軍鼓が天を震わせ、旌旗が絡み合い、戦車がぶつかりあって百死に一生を得る。このような事態になって、かの迂儒達はようやくヨチヨチと歩き始め、矢石が雨霰と飛び交う中で、詩書を誦し仁義を談じるのである。
 昔、劉邦は儒学者を嫌っていた。彼は、冠をして謁見する者がいれば、その冠を取り上げて放尿したし、麗(麗/里)食其が謁見した時には、侍女に足を洗わせた格好で相対したと伝えられているが、それも又、当然ではないか。
 さて、魯の荘公が長勺にて斉と戦い、両軍が相望んだ。これは一体どのような事態か?
 それなのに、荘公は曹歳の言葉に、「裁判がどうの、民への情けがどうの」と答えた。目の前の現実を全く無視した、何と迂遠な言葉だろうか。
 この荘公の言葉を、宋の襄公や陳余へ聞かせたのなら、得心するだろう。だが、孫子や呉氏なら馬鹿にするに決まっている。そして曹歳は、この言葉を聞いて、戦争できると判じた。さては彼も迂儒曲士の片割れか。
 だが、実際の戦争となれば、何の何の。自軍の士気を旺盛に保ったままで、敵の気力が阻喪した時を狙って攻撃する。敵の敗走の真偽を見分け、自軍は整然としたまま、乱れた敵を追撃する。その機権とう略、孫武や呉起と並び馳せて先を争う。彼は断じて、宋襄や陳余の類ではない。
 このような曹歳だから、もしも荘公の言葉が本当に迂遠なものだったなら、どうして「戦争できる」などと答えようか。彼は深く賞賛し、戦争できると即答した。これには必ず理由がある筈だ。それを考えてみよう。

 馬が勝手に走り回らないのは、はみや轡でその動きを制御しているからだ。臣下が勝手気儘に専断しないのは、法令が彼等を押さえている為だ。轡が壊れれば、馬の真性が剥き出しになり、法令が緩めば、民の真情が顕れる。
 民を苦しめても、彼等は怨まない。いや、怨まないように見える。しかし、それは法令に脅かされているに過ぎない。大敵が目前に迫り、戦闘が始まって大騒動へ陥った時、常日頃の「法制」などと言うものは跡形もなく消し飛んでしまう。そして、法制が無くなれば、真情が噴出する。
 喰馬の恩、羊羮の怨、それらの過去の確執の中で、恩を恩とし、怨を怨とし、その想いの動くところへ放埒に従い、自分の主君へ対処する。兵卒達の一人一人が、常日頃から、主君の恩に深く感謝していなければ、危険この上ないではないか。
 おおよそ、人は追い詰められた時こそ感動しやすく、しかもその感情をいつまでも忘れられないものである。

 昔、子羔が衛に仕えていた時、ある臣下を斬足の刑に処した。後、衛で造反が起こり、が逃げ回っていると、彼に足を斬られた男が門を守っていたが、彼は子羔へ言った。
「ここに、隠れる場所があります。」
 羔はそこに隠れて、追手から逃れることが出来た。窮地を脱した羔は、男へ尋ねた。
「私はお前の足を斬った。今なら、その復讐が出来たのに、却って助けてくれたのはどうゆう訳かね?」
「君が私の裁判をする時、何とか罪を軽くできないかと、何度も法律を調べ直して下さいましたし、どうしても斬足に処さなければならないと決まった時、悄然とした顔つきをなさって居られました。私は其の有様を見知っておりますので、怨むどころか、却って感謝しているのでございます。」
 ああ、人が牢獄にぶち込まれた時には、一銖の施しでも毛髪の恵みでも、山のように大きく感じるものなのだ。
 子羔は一役人に過ぎない。しかも、憐憫の想いこそあったが、何の実績もなかった。それでいて、造反危急の時に、このように助けて貰えた。ましてや一国に君臨している荘公が、大小の裁判全てに真心を以て臨んでいた。この戦乱の時に恩を返そうとゆう気持ちは、先程の足斬人が羔へ対して思った想いなどとは比べものにもならぬ程、強い筈だ。

 牢獄とゆうのは、死地である。そして戦場も又死地である。昔、死地に居た時に、莫大の賜を貰った。今、死地へ赴いて、その恩を返さずにおられようか。兵卒が、主君の為に喜んで死んでいくようになれば、堅城を陥れ、大敵を撃退するなど、些細なことだ。
 こう考えるならば、荘公の言葉は正しく妥当な返答である。決して迂遠ではない。

 私は、昔、論じたことがある。
「戦争を論じた昔の人の言葉と今の人の言葉とには、大きな隔たりがある。」と。
 曹歳が荘公へ「何を恃んで戦争するのか」と尋ねた時、荘公は三つの返事をしたが、軍旅形勢について言及した言葉は、その中に一つとしてなかった。それは何故だろうか?
 それは、戦闘を論じるのと、戦争できる要因を論じるのとでは違うからだ。
 軍旅形勢は戦闘である。そして、民心は戦争する為の要因である。これは、黄河と揚子江のようにかけ離れている。戦争する為の要因を尋ねるのに、どのように戦うか答える。これでは、楚のことを尋ねられた時に燕のことを答えるようなものだ。
 晋の士薦が、かく公討伐を諫めた時も、曹歳や荘公と同様のことを口にした。
「かく公は驕っています。もし、屡々戦勝すれば、更に戦いを求め、民衆の労苦も顧みなくなる。そもそも、礼楽慈愛を蓄えるから戦争が出来るのです。かく公はこれらを蓄えておりません。屡々戦えば、やがてかくの民衆は飢え疲れるでしょう。」と。
 当時は、皆、戦争についてこのように論じていたのだ。
 晋の士薦も、魯の荘公も、学術で名を現した学者ではない。それでいて、このように本質を衝いたことを口にしている。これは、この時代が上古の理想的な時代からそれほど時を経ていなかったので、凡庸な人間でも深い理を知っていた為ではないだろうか。

 唐の柳宗元は、当時では名儒の誉れが高かった。その彼にして、長勺の戦争を次のように論じているのだ。
「裁判を丁寧にやっているから、戦争に勝てる?そんな馬鹿な道理など、私は信じない。」と。
 そうして、両軍の将卒の資質や地形について論じた。
 だが、宗元が語ったのは戦闘であり、戦争できる要因ではない。だから、私は思うのだ。「春秋時代は、学問を修得しなかった人間の一言一言の中にさえ、後の世の大学者が理解しなかったような心理が隠されているものだ、」と。ましてや、この時代に刻苦勉励した学者が言った言葉なら、尚更である。ましてや、佳き時代に更に近い、三代(夏、殷、周)の学者が言った言葉なら。

 最近の学者は、区々たる浅智恵で、滔々たる古人の海を測ろうと考え、妄りに物議を醸している。ああ、道理のレベルが天と地ほどもかけ離れている事に気がつかないのだ。

 

(参考)

 宋の襄公、陳余

 春秋時代、宋の襄公は大国の楚と戦った。楚が川を渡って軍が乱れている時に、将軍達は攻撃を仕掛けようと言ったが、襄公は言った。
「それは卑怯なやり方だ。敵が陣を構えてしまってから、正々堂々撃ち破るのが、人の道である。」
 こうして、楚が陣を整えるのを待ってから宋は攻撃を仕掛け、大敗した。

 項羽と劉邦が戦っている時、劉邦麾下の韓信は、造反した陳余を攻撃した。
 陳余は学者上がりで、常に正義の戦を標榜し、だまし討ちや奇策は用いなかった。この時も、臣下の李左車は奇襲を掛けて敵の輜重隊を分断するよう進言したが、陳余はこれを却下した。間者を使ってその経緯を知った韓信は、大喜びで進軍し、陳余軍を撃破、彼を斬り殺した。

 

 喰馬の恩、羊羮の怨、

 秦の穆公のこと。穆公の名馬が逃げ出した。野人達がこれを捕らえ、そのような珍宝と知らずに、これを殺して食べてしまった。やがて、役人が彼等を捕らえ、処刑しようと進言したところ、穆公は言った。
「名馬を食べて酒を飲まなければ、食中毒を起こすと聞いている。」
 そして、処罰するどころか、彼等へ酒を与えて釈放したのである。
 後、秦は晋と戦った。この時、穆公は窮地へ陥ったが、かつて馬を食べた野人達が駆けつけてきて、命を的に戦い、穆公は窮地を脱することが出来た。

 中山の主君が、皆に羊の羮を配った。だが、羮が不足して、司馬子期は食べることが出来なかった。そこで、子期は怨みを含んだ。
 後、楚と中山が戦った時、子期は公の戦車を操っていたが、そのまま楚の陣地へ駆け込んだので、中山公は捕まり、戦争には大敗した。
 公は嘆いて言った。
「一杯の羊羮が国を滅ぼす。」と。
 (一説には、子期の字に「羊」の文字があったので、これを憚って彼に与えなかったのだとも言われている。だとすれば、子期はその遠慮を考えずに逆恨みしたことになる。)