張纉
梁の武帝は、河東王誉を湘州刺史とした時、湘州刺史張纉をヨウ州刺史として、岳陽王言と交代させた。
張纉は、もともと才能や名声があった。又、河東王は年少でもあり、張纉はこれを侮って、迎え入れに礼儀を欠いていた。すると河東王は、引継にかこつけて張纉を抑留し、ヨウ州へ行かせなかった。
やがて侯景が造反すると、張纉への風当たりは益々強くなった。張纉は殺害されることを懼れて、夜半、小舟に乗って逃げだした。そのままヨウ州へ向かおうとしたが、岳陽王から拒まれるかもしれないと畏れた。そこで、彼は旧知の湘東王を頼り、彼へ河東王兄弟を殺させようと考え、江陵へ向かった。
台城が陥落して、諸王が各々本拠地へ戻ることになると、河東王は湖口経由で湘州へ戻った。桂陽王慥は上役である湘東王(桂陽王は信州刺史。湘東王は九州都督で、その九州の中に信州が入っていた。)へ挨拶してから信州へ戻ろうと考え、軍を江陵へ留めていた。この時、張纉は湘東王へ手紙を書いた。
「河東王は江陵を襲撃するつもりです。岳陽王はヨウ州に居りますし、二人して不逞な企みをしているのです。」
江陵遊軍主の朱栄も、使者を派遣して湘東王へ伝えた。
「桂陽王は、河東王・岳陽王に呼応しようとて、ここに留まっているのです。」
湘東王は懼れ、船も兵糧米も沈めると、陸路を通って江陵へ戻り、桂陽王を捕らえ、殺した。
張纉出家
やがて、湘東王が、指揮下の諸州へ派兵を命じた。そこで岳陽王誉は、府司馬劉方貴を漢口へ派遣した。それへ対して湘東王は、岳陽王自身出陣するよう命じたが、岳陽王は従わなかった。
この時、劉方貴は、ひそかに湘東王と内通し、襄陽を襲撃しようと謀った。だが、まだ実行しないうちに、岳陽王は、他の口実で劉方貴を召還した。劉方貴は陰謀が暴露したと思って、樊城へ據って、これを拒否した。岳陽王は、これを攻撃した。
湘東王は、張纉へ多くの賜物を渡して鎮へ向かわせたが、彼が大堤まで来た時に、樊城は陥落し、劉方貴は斬られていた。
張纉が襄陽へ到着した時、岳陽王は軍府を独裁していた。台城が陥落したこととて、岳陽王は、誰の命令も受けるつもりはなかった。
助防の杜岸が、張纉へ言った。
「岳陽王の態度を見ておりますに、誰の命令も受けますまい。このまま西山へ逃げ込まなければ、禍を蒙りますよ。」
杜岸は、襄陽の豪族で、兄弟九人は、全て驍勇の誉れ高かった。そこで、張纉は杜岸と盟約を結び、夫人の衣を着て西山へ逃げ込んだ。
岳陽王は、杜岸へ張纉の追捕を命じた。張纉は捕らわれると、出家すると言って命乞いした。岳陽王はこれを許したが、そのまま抑留した。
官軍決起
荊州長史王沖は、湘東王へ諸藩の盟主となるよう請うたが、湘東王は、これを拒否した。
上申侯韶が、建康から江陵へ出奔し、武帝の密詔を受けたと吹聴し、徴兵した。湘東王は、侍中、仮黄鉞、大都督中外諸軍事、司徒、承制となり、その他の諸藩も位号を進めた。
湘東世子方等
湘東王は、徐孝嗣の孫娘を娶って、世子の方等を生んだ。ところが、妃は醜くてやきもち焼き。しかも品行も悪かったので、湘東王は二、三年に一度くらいしか妃の元へは訪れなかった。
ある時、湘東王は妃の元へやって来た。妃も、放置されていて湘東王を恨んでいたので、扇で顔を半分隠して対面した。湘東王は眇だったので、それをからかったのだ。湘東王は怒り、そのまま帰った。
こんな事があったので、方等は、あまり寵愛されていなかった。ところが、建康から江陵へ戻ってきた時、方等の軍は整然としていた。これを見て、湘東王は始めて彼の能力に感嘆し、後宮へ入って妃へこれを告げた。だが、妃は泣いて退出した。湘東王は怒り、妃の穢行を書き出して、大閤へ掲示した。それを見て、方等は、ますます懼れた。
さて、湘東王は侯景討伐に先んじて諸州から兵糧を集めさせた。その使者が湘州へ行くと、湘州刺史の河東王は言った。
「各々自分の軍府があるではないか。何で他人へ隷属しなければならぬのか!」
河東王は驍勇で、士卒の心を掴んでいたので鼻っ柱も強く、使者が三回やって来たが、遂に兵糧を差し出さなかった。
方等が河東王討伐を請うと、湘東王は、末っ子の安南侯方矩を湘州刺史に任命し、方等へ精鋭兵二万を与えて派遣した。
出陣に臨んで、方等は親しい者へ言った。
「今回は必死の覚悟だ。死に場所を得なければ、必ず後悔するぞ!」
(胡三省、曰く。方等は、侯景相手ではなく、皇族の内紛に命を賭けた。どうして死に場所を得たと言えようか!)
方等の軍が麻渓へ到着すると、河東王は七千の兵を出してこれを攻撃した。方等は敗北し、溺死した。安南侯方矩方は、敗残兵をかき集めて江陵へ戻った。
これによって、湘東王の威厳はなくなってしまった。
湘東王の寵妃の王氏は、方諸を生んだ。王氏が卒すると、湘東王は、妃の徐氏が毒殺したと疑い、自殺を強要した。徐氏は井戸へ飛び込んで死んだ。埋葬は、庶人の格式で行い、諸子が喪に服すことを許さなかった。
鮑泉出陣
湘東王は、意陵太守王僧弁と信州刺史鮑泉に湘州を攻撃させようと、期日を決めた。だが、意陵の兵卒達がまだ集結していなかったので、王僧弁は全員集結してから出陣しようと、鮑泉と共に、期限の延長を求めた。すると湘東王は、王僧弁等が日和ったと思い、剣を握って怒鳴りつけた。
「卿が命令を拒むのは、賊徒となりたいからか?それならばここで殺してやる!」
そして、鞘ごとの剣で王僧弁を殴りつけた。それは王僧弁の左髀へ当たり、彼は悶絶した。やがて蘇生したけれども、即座に投獄されてしまった。
鮑泉は震え上がって何も言わない。王僧弁の母親がやって来て、涙を零して陳謝し、誤解であると陳情したので、湘東王の怒りも収まり、王僧弁を釈放して良薬を与えた。王僧弁は、それで、どうにか死を免れた。
丁卯、鮑泉一人で湘州討伐に出陣した。
八月、鮑泉は石椁寺へ陣取った。河東王は迎撃に出たが、敗北した。二日後、再び戦ったが、又しても敗北。この戦いで、河東王の兵は一万余人が溺死した。
河東王は長沙まで退却した。鮑泉は、軍を率いて、これを包囲した。
王僧弁出陣
九月、河東王は、岳陽王へ急を告げた。岳陽王は、諮議参軍の蔡大宝へ襄陽の留守を任せると、二万の兵を率いて江陵を攻撃した。湘州を助ける為である。
湘東王は大いに懼れ、側近を牢獄へ派遣して、獄中の王僧弁へ方策を尋ねた。すると、王僧弁はつぶさに方略を告げたので、湘東王は、彼を釈放して城中都督とした。
乙卯、岳陽王は江陵へ到着すると、十三の軍営を築いて、これを攻撃した。ところがこの時、折悪しく大雨が降り、平地は四尺ほども浸水してしまったので、岳陽王軍の戦意は阻喪した。
ところで、湘東王は、新興太守の杜則(「山/則」)と面識があった。そこで湘東王は、彼の元へ密かに手紙を送り、降伏するよう説得した。乙丑、杜則は、兄の杜岌、杜岸、弟の杜幼安、甥の杜龕を説得し、彼等全員、手勢を率いて湘東王へ降伏した。のみならず、杜岸は襄陽攻撃を請願した。
湘東王が、請願通り五百の兵を与えると、杜岸は昼夜兼行して襄陽へ向かう。だが、襄陽城から三十里の地点で、敵方へ感づかれてしまった。蔡大宝は、岳陽王の母親を奉じて城壁へ登って防戦した。
本拠地の襄陽が襲撃されたと聞いた岳陽王は、慌てて引き返した。この時、川へ棄てられた兵糧や金帛や武器は、数え切れぬ程だった。
張纉は足を病んでいたので、岳陽王は、車に乗せて従軍させていた。敗走するに及んで、車を護衛する者が、敵に奪われることを恐れて彼を殺し、その屍は棄てて行った。
岳陽王が襄陽へ引き返してくると、杜岸は廣平へ逃げ、南陽太守杜獻をたよった。杜獻は、杜岸の兄である。
十一月、岳陽王は、将軍薛暉へ廣平を攻撃させた。薛暉は、これを抜き、杜岸を捕らえて襄陽へ送った。岳陽王は、彼の舌を抜き、顔を鞭打ち、四肢をバラバラにしてから釜ゆでにした。又、彼の祖父の墓をあばき、屍を焼き捨て、頭蓋骨で漆椀を作った。
鮑泉始末
鮑泉は長いこと長沙を包囲したが、なかなか落とせない。湘東王は怒り、王僧弁を都督として交代させ、鮑泉の罪状を列挙した。
王僧弁が来ると聞くと、鮑泉は言った。
「彼が来て助けてくれるなら、賊はすぐにでも平定できるぞ。」
そして、宴席をしつらえて彼の到着を待っていた。だが、やって来た王僧弁は鮑泉の背後に座って言った。
「鮑郎。卿には罪がある。」
そして、鎖で縛り上げた。しかしながら、鮑泉が弁明の上陳謝すると、湘東王の怒りも解け、釈放された。
西魏
岳陽王は、既に湘東王と敵対してしまったので、攻め滅ぼされることを恐れ、西魏へ降伏を申し込んだ。西魏丞相宇文泰は東閣祭酒の栄権を使者として、襄陽へ派遣した。
湘東王の命令で、司州刺史柳仲礼が意陵を鎮守して岳陽王を牽制すると、岳陽王は懼れ、妃の王氏と世子の寮を人質として西魏へ差し出した。
宇文泰は、江・漢を攻略しようと、開府儀同三司の楊忠を都督三荊等十五州諸軍事とし、穰城を鎮守させた。
柳仲礼が安陸へ進軍すると、安陸太守柳は、城ごと降伏した。そこで柳仲礼は、長史の馬岫と、その弟の馬子礼を安陸へ留めてそこを守らせ、自身は一万の兵を率いて襄陽へ向かった。
宇文泰は、楊忠と行台僕射長孫倹を救援に派遣した。楊忠が義陽まで進軍すると、義陽太守の馬伯符は下差城ごと降伏した。そこで、楊忠は馬伯符を道案内とした。馬伯符は、馬岫の子息である。
十二月、楊忠は随郡を抜き、太守の桓和を捕らえた。
大寶元年(550年)、楊忠は安陸を包囲した。すると、柳仲礼が、安陸救援に駆けつけた。魏の諸将は、柳仲礼が到着する前に安陸を攻略するべきだと考え、攻撃を急ぐよう進言した。すると、楊忠は言った。
「城を猛攻して、疲れ切った状態で表裏から攻撃されるのが、一番愚かだ。南人は、水軍が巧く、野戦は苦手。柳仲礼の軍が近くに来たのなら、こっちは奇襲してやろう。奴等が油断していて我等が奮戦するならば、一戦で勝負は決するぞ。柳仲礼さえ撃破すれば、安陸城は向こうから降伏してくる。諸城も、檄を廻すだけで降伏するぞ。」
そして、騎兵二千を選りすぐり、馬に枚を噛ませて夜行した。
祟頭にて、柳仲礼軍を撃破。柳仲礼と、その弟の柳子礼を始め、殆どの兵卒を捕虜とした。
柳仲礼が捕らわれると、馬岫は安陸城ごと降伏し、別将の王叔孫は意陵城ごと降伏した。こうして、漢東の土地は、全て西魏へ奪われてしまった。
二月、楊忠は勝ちに乗じて石城まで進軍し、江陵を窺った。湘東王は、舎人のユ恪を派遣して、楊忠を説得した。
「岳陽王は、造反して我等を攻撃したのです。西魏がこれを助けるのなら、天下の人々へ何を以て模範を示すのですか!」
そこで、楊忠は建水の北へ留まった。
湘東王が、子息の方略を人質として講和を求めると、西魏はこれを受諾した。そこで、湘東王は楊忠と盟約を結んだ。
「西魏は石城までを領土とし、梁は安陸を国境とする。そして、子息を人質として送る。以後は、永く修好しよう。」
楊忠は、帰国した。
聞く耳持たん
二月、邵陵王が、湘東王へ書状を出し、河東王と和解するよう勧めたが、湘東王は却下した。(詳細は「邵陵王」の項目に記載する。)
四月、湘東王は、上申侯韶を長沙王とした。
河東王の最期
王僧弁は長沙を急襲し、四月、これを落とした。河東王を捕らえて、斬る。その首を江陵へ渡すと、湘東王は、これを手厚く葬った。
話は遡るが、湘東世子が戦死した戦役では、河東王方の周鉄虎が大活躍した。以来、河東王は、彼を重く用いるようになった。
王僧弁は、周鉄虎を捕まえると、釜ゆでを命じた。すると、周鉄虎は大呼した。
「侯景が滅びもしないうちに、なんで壮士を殺すのか!」
王僧弁は、その言葉に感じ入って、周鉄虎を釈放し、自分の麾下へ加えた。
湘東王は、王僧弁を左衛将軍とし、侍中・鎮西長史を加えた。
ところで、湘東王は武帝の崩御を聞いてはいたが、まだ長沙を滅ぼしてなかったので、隠していた。壬寅、始めて喪を発した。そして武帝の像を百福殿へ設置すると、これへ対して非常に謹厳に仕え、全ての行動を報告した。
こうして桎梏が外れた湘東王は、今の天子を侯景の傀儡と決めつけ、大宝の年号を破棄し、太清四年と称した。そして、侯景討伐の号令を掛け、遠近へ檄を飛ばした。
西魏と岳陽王
西魏は、岳陽王誉を梁皇帝とさせたがっていたが、岳陽王は肯らない。そこで梁王として、百官を立てさせた。
六月、岳陽王は、西魏へ入朝した。
邵陵王綸
太清三年(549年)十一月、宋子仙の攻撃に、銭塘の戴僧易は降伏した。
宋子仙は、勝ちに乗じて浙江を渡り、会稽まで進軍した。邵陵王綸(武帝の六男)は、銭塘が敗北したと聞くや番陽へ逃げ出した。番陽内史の開建侯蕃が兵を率いてこれを拒んだが、邵陵王は開建侯の軍を撃破した。
邵陵王は、そのまま九江まで進む。すると、尋陽王大心が、江州を彼へ譲ろうとしたが、邵陵王は断り、そのまま西へ進軍した。
大寶元年(550年)、邵陵王は江夏へ到着した。郢州刺史南平王恪は郊外まで出迎え、州を譲ろうと申し出たが、邵陵王は受けなかった。そこで、邵陵王を假黄鉞、都督中外諸軍事、承制置百官へ推薦した。
この頃、湘東王は、河東王・岳陽王と戦火を交えていた。二月、邵陵王は、河東王を救援しようと思ったが、兵糧が少ない。そこで、湘東王へ書を遣った。
「天の時も地の利も、人の和にかないません。ましてや、手足が互いに損ない合って良いものでしょうか!今、社稷の危恥、その傷は大きく深いのです。今こそ、心を裂いて肝を舐め、血の涙を流して戈を枕にするべき時。ましてや、その余の小憤など、笑って受け入れるべきです。外難が未だ除かれざる時に家中で禍を構えて滅びなかった国など、未だかつてありませんでした。
それ、征戦の理は、ただ勝つことだけを求める。それが骨肉の争いに至っては、ますます勝ちを求めて益々残酷になります。しかし、これに勝ったとて功績にはならず、敗れたら滅亡するだけ。兵力を損耗して義を破り、いたずらに名を汚すだけです。今、侯景が江外へ出兵しないのは、江外の藩塀が盤固で宗鎮が強密だからではありませんか。
それに、もし、湘州が陥落したら、河東王は不安になり、必ずや西魏へ救援を求め、その軍隊を引き入れるでしょう。そうなれば、我が国は滅亡します。
どうか、湘州の包囲を解いて、社稷存続の謀を執られて下さい。」
しかし、湘東王の返書は、河東王の悪行を列挙し、絶対に赦さないと息巻くばかり。それに加えて、言った。
「河東王は、既に西魏と結び、楊忠の軍を引き入れた。しかし、我はかつての魯仲連のように、談笑してこれを退散させたのだ。(この時、西魏との講和が成立したばかりだった。) 世には曲直がある。多弁はいらん。」
返書を読んだ邵陵王は、これを投げ捨て、涙を流して慷慨した。
「天下はこのようになってしまったか!河東王が滅亡すれば、次はきっと俺の番だ!」
邵陵王の部下は横暴で、郢州軍府の兵卒達を見下していた。郢州の将佐は皆、彼等を怨んだ。
南平王の知恵袋は、諮議参軍の江仲挙。彼は、邵陵王を始末するよう、南平王へ吹き込んだ。南平王は驚いて言った。
「もしも我が邵陵王を殺したとて、どうして一鎮が静まろうか。陛下は既に賊に捕らわれている。兄弟順で言うならば、邵陵王が即位する筈。その邵陵王を殺したら、邵陵王の弟達である荊州の湘東王や益州の武陵王は大喜びだぞ。そして彼等は、平和になれば、即位の為に優位になろうと、大義を口にして我を責めるに決まっている。それに、巨賊が平定されないうちに骨肉で戦いあうなど、自分の首を絞めるようなものだ。卿よ、そんなことは考えるな。」
だが、江仲挙は従わず、手下の将兵と打ち合わせ、日時を決めて決起しようとした。しかし、この陰謀は事前に漏洩し、邵陵王は彼等を殺した。南平王が狼狽して陳謝に赴くと、邵陵王は言った。
「小人達のやったことです。兄とは関わりありますまい。凶党は一掃しました。兄上は、何も心配なさいますな。」
七月、侯景の部下の任約が、邵陵王綸へ向かって進軍して来た。邵陵王は、司馬の将思安へ五千の兵を与えて、任約軍を襲撃させた。任約軍は、敗北して散り散りとなった。将思安は、これに増長して、ろくに防備もしなかった。それを知った任約は、敗残兵をかき集めてこれを襲撃、将思安軍は敗北した。
邵陵王は、軍備を修めて、侯景討伐へ乗り出そうとした。湘東王は、これを憎んだ。
八月、王僧弁と鮑泉へ一万の兵を与えて、東へ向かわせた。上辺は「任約を防ぐ。」と言い、かつ、邵陵王へ「湘州を与る」と言って、江陵へ呼び返した。
王僧弁の軍が鸚鵡洲まで進軍すると、郢州司馬の劉龍虎等が、これに内応しようと、密かに人質を送った。それを聞いた邵陵王は息子の威正侯質へ、彼等の攻撃を命じた。劉龍虎等は敗北し、王僧弁のもとへ逃げ込んだ。
邵陵王は、手紙を書いて王僧弁を責めた。
「将軍は、去年は人の姪を殺し、今年は人の兄を討伐してまで栄達を求めているが、そんなことは天下が許さないぞ!」
王僧弁は、その書を湘東王へ送ったが、湘東王は進軍を命じた。
辛酉、邵陵王は、麾下を西園へ集めて、泣いて言った。
「我はただ、賊軍を滅ぼそうと思っただけだ。だが湘東王は、常日頃から我のことを帝位継承の敵対者と見ていた。そして、遂に我へ討伐軍を出したのだ。今回、防戦すれば、身内同士で殺し合うことになり、千年先まで嘲笑される。彼等を受け入れれば、理由もなしに縄目の恥辱を受けてしまう。ここは、逃げるしかない。」
麾下の壮士達は出戦を望んだが、邵陵王は許さず、質と共に船に乗って川を下った。
こうして王僧弁は、郢州を占領した。
湘東王は、南平王を尚書令・開府儀同三司とし、世子の方諸を郢州刺史、王僧弁を領軍将軍とした。
邵陵王は、逃げている途中に鎮東将軍裴之高と遭遇した。邵陵王は軽舟で逃げた。武昌の間飲寺にて、僧侶が、彼等を岩穴の下へ匿った。
やがて、韋質や司馬の姜律等が、邵陵王が無事だと聞いてやって来てた。彼等は、七柵の遺民達を味方に引き入れようと、兵糧と武器を求めた。邵陵王がそれに従って巴水へ出向くと、流民八、九千人が集まってきた。そこで、敗残兵もかき集めて、斉昌へ據った。
ここに及んで、邵陵王は北斉へ講和の使者を派遣した。北斉は、邵陵王を梁王とした。
九月、任約が、西陽・武昌へ進攻した。
邵陵王は、北斉の援軍がまだ来ていないので、馬柵の軍を西陽から八十里の所まで移動させた。任約はこれを知ると、儀同の叱羅子通へ鉄騎二百を与えて襲撃させた。邵陵王は防備をしていなかったので、逃げ出した。
この頃、湘東王は、北斉と連和していた。だから、北斉はこの戦いを観望して援軍を出さなかったのだ。
定州刺史田祖龍が、邵陵王を迎え入れようとしたが、彼は元々湘東王と仲が善かった。だから邵陵王は、捕らわれることを恐れ、斉昌へ戻った。
汝南まで行くと、西魏の汝南城主の李素が、城を開いて彼を迎え入れた。李素は、邵陵王の元の部下だったのだ。
ところで、邵陵王は衡陽王献を斉州刺史として、斉昌を鎮守させていた。任約はこれを攻撃して衡陽王を捕らえた。衡陽王は、建康へ送られ、そこで殺された。
二年、正月。西魏が汝陽を包囲し、李素は戦死した。
二月、汝南城は陥落。邵陵王は捕らえられ、殺された。その屍は揚子江へ投げ込まれたが、岳陽王が取って、埋葬した。
※武帝存命中の邵陵王は、聡明との評判だったが、無法な振る舞いが多く、何度も罰を受けていた。それが、侯景の乱に至っては、かえって、誰よりも忠孝厚かった。人情の妙とゆうものだろう。
ただ、彼の部下に無法な振る舞いが多くて、南平王の部下と衝突した。これは、太平の頃の邵陵王が無法だった為、彼のもとにはその様な部下が集まっていたのかも知れない。
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