| 風俗 |
| 光宅元年(684)秋、七月戊午、廣州都督路元叡が、崑崘人に殺された。その経緯は、以下の通り。
元叡は暗愚怯懦な人間で、彼の僚属は勝手放題にやっていた。商船などが来ると、僚属は飽くことなく金を貪った。胡の商人達はこれを元叡へ訴えたが、元叡は却って彼等を牢獄へぶち込もうとしたので、胡人達は怒った。その中に袖に剣を忍ばせていた崑崘人がいたが、彼が聴事(裁判台)へ駆け登り、元叡とその近習十余人を殺して去った。彼等へ敢えて近づく者は居なかった。 胡人達は船に乗って海へ出た。これを追跡したが、追いつけなかった。 同月、温州で大水が起こり、四千余家が流された。
天授元年(庚寅、690年)十一月、国号を「唐」から「周」へ変える。
二年七月。関内の数十万戸を洛陽へ移住させた。 長寿二年(693年)正月戊申、宰相へ時政記を選び毎月史館へ送るよう、姚壽が上奏して請うた。これに従う。
二月乙亥、錦を使うことを禁止した。
五月癸丑、棣州で河が氾濫した。 長安元年(701年)三月、大雪だった。蘇味道はこれを瑞兆として、百官を率いて入賀した。すると、殿中侍御史王求禮が、これを止めて言った。
長安二年(702年)正月乙酉、始めて武挙を設けた。 三年六月、寧州で大水が起こり、二千余人が溺死した。 |