法然上人御法語

御法語 第一
それ流浪三界のうち、いづれのさかいに、おもむきてか、釈尊の出世に、あはざりし。
輪廻四生の、あひだ、いづれの生を、うけてか、如来の説法を、きかざりし。華厳開講の、むしろにも、まじはらず、般若演説の座にも、つらならず鷲峰説法の、にはにも、のぞまず、鶴林涅槃の、みぎりにも、いたらず。われ舎衛の三億の家にや、やどりけん。しらず地獄八熱の、そこにや、すみけん。はずべしはずべし、かなしむべしかなしむべし。まさにいま、多生曠刧をへても、うまれがたき、人界にうまれ、無量億刧を、おくりても、あひがたき、仏教にあへり。釈尊の在世に、あはざる事は、かなしみなりと、いへども、教法流布の世に、あふ事を得たるは、これよろこびなり。たとへば目しひたる、かめの、うき木の、あなにあへるがごとし。わが朝に、仏法の、流布せし事も、欽明天皇、あめのしたを、しろしめして、十三年、みずのえさるのとし、冬十月一日、はじめて仏法わたり給ひし。それよりさきには、如来の教法も、流布せざりしかば、菩提の覚路、いまだきかず。ここにわれを、いかなる宿縁にこたへ、いかなる善業によりてか、仏法流布の時に、うまれて、生死解脱のみちを、きく事をえたる。しかるをいま、あひがたくして、あふ事を得たり。いたずらに、あかし、くらして、やみなんこそ、かなしけれ。

御法語 第二
おほよそ、仏教おほしといへども、所詮、戒定恵の三学をばすぎず。所謂小乗の戒定恵、大乘の戒定恵、顕教の戒定恵、密教の戒定恵也。しかるに、わが身は、戒行において、一戒をも、たもたず、禅定において、一つもこれをえず。人師釈して、尸羅清浄ならざれば、三昧現前せずといへり。又凡夫の心は物に、したがひて、うつりやすし。たとへば猿猴の枝に、つたふがごとし。まことに散乱して動じやすく、一心しずまりがたし。無漏の正智、なにによりてか、おこらんや。もし無漏の智劔なくば、いかでか悪業煩悩の、きづなをたたんや。悪業煩悩の、きづなをたたずば、なんぞ生死繋縛(くばく)の身を、解脱することをえんや。かなしきかな、かなしきかな、いかがせん、いかがせん。ここに我等がごときは、すでに戒定恵の三学の器にあらず。この三学のほかに、我が心に相応する法門ありや、我が身に堪へたる修行やあると。よろづの、智者に、もとめ、諸の学者に、とぶらいしに、をしふるに、人もなく、しめすに輩もなし。然る間、なげきなげき、経蔵にいり、かなしみかなしみ、聖経にむかひて、手づから、みずから、ひらき見しに、善導和尚の観経の疏の、一心に専ら弥陀の名号を念じ、行住座臥に時節の久近を問はず、念々に捨てざるもの、これを正定の業と名づく、彼の仏の願に順ずるが故に。といふ文を見得てのち、我等がごとくの、無智の身は、偏にこの文を、あふぎ、もはら、このことわりを、たのみて、念々不捨の稱名を修して、決定往生の業因に備ふべし。

御法語 第三
或る人、上人の申させ給ふ御念仏は念念ごとに仏の御心に、かなひ候ふらんなど申しけるを、いかなればと、上人かへし、とはれければ、智者にて、おはしませば、名号の功徳をも、くはしく、しろしめし、本願の様をも、あきらかに、御心得あるゆえにと、申しけるとき、汝本願を信ずる事、まだしかりけり。弥陀如来の、本願の名は、木こり、草かり、菜つみ、水くむ、たぐひごときのものの、内外ともに、かけて、一文不通なるが、となふれば、必ずうまると信じて、真実にねがひて、常に念仏申すを、最上の機とす。もし智恵を、もちて、生死を、はなるべくば、源空いかでか、かの聖道門をすてて、この浄土門に、趣くべきや。聖道門の修行は、智恵を、きはめて、生死を、はなれ、浄土門の修行は、愚痴に、かへりて、極楽に、うまると、しるべしとぞ、仰せられける。

御法語 第四
念仏往生の誓願は平等の慈悲に住して、發し給ひたる、事なれば、人を、きらふことは、候はぬなり。仏の御心は、慈悲を、もて、躰とする事にて候ふなり。されば、観無量寿経には、仏心といふは、大慈悲これなりと説かれて候。善導和尚此の文を受けて、此の平等の慈悲を、もては、普く一切を摂すと、釋したまへり。一切の言、ひろくして、もるる人候べからず。されば、念仏往生の願は、これ弥陀如来の本地の誓願なり。余の種々の行は、本地の、ちかひにあらず。釋迦も、世に出給ふ事は、弥陀の本願をとかんと思しめす御心にて候へども、衆生の機縁に随ひ給ふ日は、余の種々の行をも、説き給ふは、これ随機の法なり。仏の、みづからの、御心の底には候はず。されば、念仏は弥陀にも、利生の本願、釋迦にも、出世の本懐なり。余の種々の行には、似ず候ふなり。

御法語 第五
本願と云うは、阿弥陀仏の、いまだ仏にならせ給はざりし昔、法蔵菩薩と、申ししいにしへ、仏の国土を、きよめ、衆生を成就せんがために、世自在王如来と申す仏の御前にして、四十八願を、おこし給ひし其の中に、一切衆生の往生のために、一つの願を、おこし給へり。これを念仏往生の、本願と申す也。即ち無量寿経の上卷に、いはく、設し我れ仏を得たらんに、十方の衆生、至心に信楽して、我が国に生ぜんと欲して、乃至十念せんに、若し生ぜずば、正覚を取らじと。善導和尚、此の願を釋して、宣はく、若し我れ成仏せんに、十方の衆生、我が名号を稱すること、下十聲に至るまで、若し生ぜずば、正覚を取らじ。彼のほとけ、今現に世に在して成仏し給へり。當に知るべし、本誓の重願虚しからざることを。衆生稱念すれば、必ず往生を得と。念仏といふは、仏の法身を、憶念するにもあらず、仏の相好を観念するにもあらず、ただ心をいたして、もはら、阿弥陀仏の名号を、稱念する、これを念仏とは申すなり。故に稱我名号といふなり。念仏の外の、一切の行は、これ弥陀の本願に、あらざるがゆえに、たとひ目出たき、行なりといへども、念仏には、およばざるなり。大方、其の国に、うまれんと、おもはんものは、その仏のちかひに随ふべきなり。されば、弥陀の浄土に、うまれんと、おもはんものは、弥陀の誓願に、したがふべきなり。

御法語 第六
酬因感果の、ことはりを、大慈大悲の御心の、うちに思惟して、年序そらに、つもりて、
星霜五刧に、およべり。しかるに善巧方便を、めぐらして思惟し給へり。しかも、われ別願を、もて、浄土に居して、薄地低下の、衆生を、引導すべし。その衆生の、業力によりて、うまるるといはば、かたかるべし。われ、すべからく、衆生のために、永劫の修行をおくり、僧祇の苦行を、めぐらして、萬行萬善の果徳円満し、自覚覚他の覚行窮満して、その成就せんところの、萬徳無漏の、一切の功徳を、もて、わが名号として、衆生に、となへしめし。衆生もし、これにおいて、信をいたして、稱念せば、わが願に、こたへて、うまるる事を、うべし。

御法語 第七
六方恆沙の諸仏、舌をのべて、三千世界に、おほひて、もはら、ただ弥陀の、名号を唱えて、往生すといふは、これ真実也と、證誠したまふなり。これ又念仏は、弥陀の本願なるがゆえに、六方恆沙の諸仏、これを證誠し給ふ。餘の行は、本願にあらざるがゆえに、六方恆沙の諸仏、證誠したまはず。これにつけても、よくよく御念仏候うて、弥陀の本願、釋迦の付属、六方の諸仏の護念を、ふかく、かうぶらせ、たまふべし。弥陀の本願、釋迦の付属、六方の諸仏の護念、一々にむなしからず。このゆえに、念仏の行は、諸行に、すぐれたるなり。

御法語 第八
浄土一宗の、諸宗にこえ、念仏一行の、諸行に、すぐれたりと、いふ事は、萬機を攝する、かたをいふなり。理観、菩提心、讀誦大乗、真言、止観等、いづれも、仏法の、おろかに、ましますにはあらず。みな生死滅度の、法なれども、末代に、なりぬれは、ちから、およばず。行者の、不法なるによりて、機が、およばぬなり。時をいへば、末法萬年の、のち、人誦十歳に、つづまり、罪をいへば、十悪五逆の罪人なり。老少男女の、ともがら、一念十念の、たぐひに、いたるまで、みなこれ攝取不捨の、ちかひに、こもれるなり。このゆえに、諸宗にこえ、諸行に、すぐれたりとは申すなり。

御法語 第九
念仏の行者の、存じ候ふべき様は、後世を、おそれ、往生を、ねがひて、念仏すれば、をはる時、かならず、来迎せさせ給ふよしを存じて、念仏申すより外の事候はず。三心と申し候ふもかさねて、申す時は、ただ一つの願心にて候なり。そのねがふ心の、いつはらす、かざらぬ方をば、至誠心と申し候。此の心の實にて、念仏すれば臨終に来迎すといふ事を、一念も、うたがはぬ方を、深心とは申し候。このうへ、わが身も、かの浄土へ、うまれんと、おもひ、行業をも、往生のためと、むくるを、廻向心とは申し候なり。此の故に、ねがふ心、いつはらずして、げに往生せんと、思ひ候へば、おのづから、三心は具足する事にて候ふなり。

御法語 第十
末代の衆生を、往生極楽の機に、あてて見るに、行すくなしとても、疑ふべからず。一念十念に、足りぬべし。罪人なりとても、疑ふべからず。罪根ふかくをも、きらはじと宣へり。時くだれりとても、疑ふべからず。法滅以後の衆生、なお、もて往生すべし。況や近来をや。我が身わろしとても、疑ふべからず。自身はこれ、煩悩具足せる凡夫也と宣へり.十方に浄土おほけれど、西方を願ふは、十悪五逆の衆生の、生まるる故なり。諸仏のなかに、弥陀に帰したてまつるは、三念五念に至るまで、みづから来迎し給ふ故なり。諸行の中に念仏を用ふるは、かの仏の本願故也。いま弥陀の本願に乗じて、往生しなんに、願として成ぜずと云ふ事あるべからず。本願に乗ずる事は信心の、ふかきによるべし。うけがたき、人身をうけて、あひがたき本願にあひて、おこしがたき道心を發して、はなれがたき、輪廻の里をはなれて、生まれがたき浄土に、往生せん事、悦の中の悦なり。罪は十悪五逆の者も、生ると信じて、少罪をも犯さじと思ふべし。罪人なほうまる、況や善人をや。行は一念十念なほ、むなしからずと信じて、無間に修すべし。一念なほ生まる、況や多念をや。阿弥陀仏は不取正覚の言を、成就して、現に彼の国に、ましませば、定めて命終の時は来迎し給はん。釋尊は善哉、我が教に随ひて、生死を離ると知見し給ひ、六方の諸仏は、悦ばしき哉、我が證誠を信じて、不退の浄土に、生まると悦び給ふらんと、天に仰ぎ、地に臥して、悦ぶべし、このたび弥陀の本願に、あふ事を。行住坐臥にも、報ずべし、かの仏の恩徳を。頼みても頼むべきは、乃至十念の詞。信じても猶信ずべきは、必得往生の文也。


御法語 第十一
ただ心の善悪をも、かへりみず、罪のかろき、おもきをも、沙汰せず、心に往生せんと、おもひて、口に南無阿弥陀仏と、となへては、聲につきて、決定往生の思をなすべし。その決定心によりて、すなはち往生の業は、さだまるなり。かく心えねば、往生は不定なり。往生は、不定と思へば、一定する事にて候ふなり。されば詮は、ふかく信ずる心と申し候ふは、南無阿弥陀仏と申せば、その仏の誓ひにて、いかなる身をも、きらはず、一定むかへ給ふぞと、ふかく、たのみて、いかなる、とがをも、かへりみず、うたがふ心の、すこしも、なきを申し候ふなり。

御法語 第十二
それ速に生死を、はなれんと、おもはば、二種の勝法の中に、しばらく、聖道門を、さしおきて、えらびて、浄土門にいれ。浄土門にいらんと、おもはば、正雑二行の中に、しばらく、もろもろの雑行を、ながすてて、えらびて、正行に帰すべし。正行を修せんと、おもはば、正助二業の中に、なほ助業を傍にして、えらびて、正定を、もはらにすべし。正定の業といふは、すなはち、これ仏の御名を称するなり。名を称すれば、かならず、うまるることを得。仏のほんがんに、よるが故に。


御法語 第十三
往生の行、多しといへども、大いにわかちて、ふたつとし給へり。一つには専修、いはゆる念仏なり。二つには雑行、いはゆる一切の、もろもろの行なり。上にいふ所の定散等これなり。往生礼讃に云く、若し能く上の如く、念々相續して、畢命を期とせば、十は即ち十生じ、百は即ち百生ず。専修と、雑行との得失なり。得と云ふは、往生することを得。いはく、念仏するものは、十は、すなはち、十人ながら往生し、百は、すなはち、百人ながら往生すといふ、これなり。失といふは、いはく、往生の益を、失えるなり。雑行のものは、百人が中に、まれに、一二人往生することを得て、そのほかは生ぜず。千人が中に、まれに、三五人うまれて、その餘はうまれず。専修のものは、みな、うまるる事を得るは、なにのゆえぞ。阿弥陀仏の本願に、相応せるがゆえなり、釋迦如来のをしへに、随順せるがゆえなり。雑行のものは、うまるる事すくなきは、なにのゆえぞ。弥陀の本願に、たがへるゆえなり、釋迦のをしへに、したがはざるゆえなり。念仏して、浄土を、もとむるものは、二尊の御心に、ふかくかなへり。雑行をして、浄土を、もとむるものは、二仏の御心に、そむけり。善導和尚、二行の得失を、判ぜる事、これのみにあらず。観経の疏と、申すふみのなかに、おほく得失をあげたり。しげきがゆえに、いださず。これをもてしるべし。

御法語 第十四
本願の念仏には、ひとりだちを、せさせて、すけをささぬなり。すけといふは、知恵をも、すけにさし、持戒をも、すけにさし、道心をも、すけにさし、慈悲をも、すけにさすなり。善人は、善人ながら、念仏し、悪人は、悪人ながら、念仏して、ただうまれつきの、ままにて、念仏する人を、念仏に、すけささぬとは云ふ也。さりながら、悪をあらため、善人となりて、念仏せん人は、仏の御心に叶ふべし。かなはぬ物ゆえに、とあらん、かからんと思ひて、決定心おこらぬ人は、往生不定の人なるべし。

御法語 第十五
一念十念に、往生をすと、いへばとて、念仏を、疎想に申すは、信が行を、さまたぐるなり。念々不捨と、いへばとて、一念を、不定におもふは、行が信を、さまたぐるなり。信をば、一念に、うまると信じ、行をば、一形に、はげむべし。又一念を、不定に思ふは、念々の念仏ごとに、不信の念仏になるける。其の故は、阿弥陀仏は、一念に一度往生をあておき給へる願なれば、念ごとに、往生の業となるなり。

御法語 第十六
念仏の数を、多く申すものをば、自力を、はげむといふ事、これまた、ものも覚えず、あさましき、僻事なり。ただ一念二念を、となふとも、自力の心ならん人は、自力の念仏とすべし。千遍萬遍を、となへ、百日千日、よりひる、はげみ、つとむとも、偏に、願力をたのみ、他力を、あふぎたらん人の念仏は、聲々念々、しかしながら、他力の念仏にて、あるべし。されば、三心を、おこしたるひとの念仏は、日々夜々、時々尅々に、唱ふれども、しかしながら、願力を仰ぎ、他力を、たのみたる心にて、唱へ居たれば、かけても、ふれても、自力の念仏とは、いふべからず。

御法語 第十七
念仏を、申し候ふ事は、やうやうの義候へども、ただ六字を、唱ふる中に、一切の行は、をさまり候ふなり。心には本願をたのみ、口には名号をとなへ、手には念珠を、とるばかりなり。常に心を、かくるが、きはめたる決定往生の業にて候ふなり。念仏の行は、もとより、行住座臥、時處諸縁を、きらはず、身口の不浄を、きらはぬ行にて、易行往生と申し候ふなり。ただし、心を、きよくして申すを、第一の行と申し候ふなり、人をも、左様に御すすめ候ふべし、ゆめゆめ、此の御心は、いよいよ、つよくならせ給ひ候ふべし。

御法語 第十八
現世を、すぐべきやうは、念仏の申されんかたによりて、すぐべし。念仏のさはりに、なりぬべからん事をば、いとひすつべし。一所にて、申されずば、修行して申すべし。修行して申されずば、一所に住してもうすべし。ひじりて、申されずば、在家になりて申すべし。在家にて、申されずば、遁世して申すべし。ひとり、こもり居て、申されずば、同行と共行して申すべし。共行して申されずば、一人こもり居て申すべし。衣食かなはずして、申されずば、他人に、たすけられて、申すべし。他人の、たすけにて申されずば、自力にて申すべし。妻子も、従類も、自身たすけられて、念仏申さんためなり。念仏のさはりに、なるべくば、ゆめゆめもつべからず。所知所領も、念仏の助業ならば大切なり。妨にならば、もつべからず。惣じて、これをいはば、自身安隠にして、念仏往生を、とげんがためには、なに事も、みな念仏の助業なり。三途にかへるべきことをする身をだにも、すてがたければ、かへりみ、はぐくむぞかし。まして往生すべき、念仏申さん身をば、いかにも、はぐくみ、もてなすべし。念仏の助業ならずして、今生のために、身を貪求するは、三悪道の業となる。往生極楽のために、自身を貪求するは、往生の助業となるなり。

御法語 第十九
他力本願に乗ずるに、二つあり、乗ぜざるに二つあり。乗ぜざるに、二つといふは、
一つには罪をつくるとき乗ぜず。其の故は、かくのごとく、罪をつくれば、念仏申すとも、往生不定なりと、おもふ時に乗ぜず。ふたつには道心のおこる時、乗ぜず。其の故は、おなじく念仏申すとも、かくのごとく、同心ありて、申さんずる念仏にてこそ、往生はせんずれ。無道心にては、念仏すとも、かなふべからずと、道心を、さきとして、本願を、つぎに、おもふ時乗ぜざるなり。次に、本願に乗ずるに、二つの様といふは、一つには罪つくる時乗ずるなり。其の故は、かくのごとく、罪をつくれば、決定して地獄に堕つべし。しかるに、本願の名号を、唱ふれば、決定往生せん事の、うれしさよと、よろこぶ時に乗ずるなり。二つには、道心おこる時、乗ずるなり。其の故は、此の道心にて、往生すべからず。これ程の道心は、無始よりこのかた、おこれども、いまだ生死を、はなれず。故に、道心の有無を論ぜず、造罪の軽重をいはず、ただ本願の稱名を、念々相續せんちからによりてぞ、往生は遂ぐべきと、おもふ時に、他力本願に乗ずるなり。

御法語 第二十
近来の行人、観法を、なす事なかれ。仏像を観ずとも、雲慶康慶が、造りたる、仏程だにも、観じあらはすべからず。極楽の荘厳を、観ずとも桜梅桃李(ようばいとうり)の、花果程も、感じあらはさん事、かたかるべし。彼の仏今現に世に在して成仏し給えり。當に知るべし、本誓の重願虚しからざることを。衆生稱念すれば、必ず往生を得の、釋を信じて、ふかく、本願をたのみて、一向に名号を唱ふべし。名号を唱ふれば、三心、おのづから具足する也。

御法語 第二十一
或は金谷の花を、もてあそびて、遅々たる、春の日を、むなしく、くらし、或は南楼に月を、あざけりて、漫漫たる、秋の夜を、いたづらに、あかす。或は千里の雲に、はせて、山のかせぎを、とりて、歳を、おくり、或は萬里のなみに、うかびて、うみのいろくずを、とりて、日をかさね、或は厳寒に、こほりをしのぎて、世路を、わたり、或は炎天に、あせをのごひて、利養を、もとめ、或は妻子眷属に、纒はれて、恩愛の、きづな、きりがたし。或は執敵怨類に、あひて、瞋恚のほむら、やむ事なし。惣じて、かくのごとくして、昼夜朝暮、行住座臥、時として、やむ事なし。ただほしきままに、あくまで、三途八難の業を、かさぬ。しかれば、或る文には、一人一日の中に、八億四千の念あり、念々の中の所作皆是れ三途の業といへり。かくのごとくして、昨日も、いたづらに、くれぬ。今日も又、むなしく、あけぬ。いま、いくたびか、くらし、いくたびか、あかさんとする。

御法語 第二十二
それ、あしたに、ひらくる、榮花は、ゆふべの、風に、ちりやすく、ゆふべに、むすぶ命露は、あしたの日に、きえやすし。これを、しらずして、つねに、さかえん事を、おもひ、これを、さとらずして、久しく、あらん事を、おもふ。しかるあひだ、無常の風、ひとたびふきて、有為のつゆ、ながく、きえぬれば、これを曠野にすて、これを、とほき山におくる。かばねは、つひに、こけのしたにうづもれ、たましひは、獨りたびのそらに、まよふ。妻子眷属は、家にあれども、ともなはず、七珍萬寶は、くらにみてれども、益もなし。ただ身にしたがふものは、後悔の涙也。つひに閻魔の廳に、いたりぬればつみの浅深をさだめ、業の軽重を、かんがえらる。法王罪人に問うていはく、なんぢ仏法流布の、世に生まれて、なんぞ修行せずして、いたすらに、帰りきたるやと。その時には、われを、いかがこたへんとする。すみやかに、出要を、もとめて、むなしく、三途に帰る事なかれ。

御法語 第二十三
もろこし我が朝に、もろもろの智者達の、沙汰し申さるる、観念の念にもあらず。又学問をして、念の心をさとりて、申す念仏にもあらず。ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して疑なく、往生するぞとおもひとりて、申す外には、別の仔細候はず。ただし三心四修と申すことの候ふは、皆決定して南無阿弥陀仏にて、往生するぞと、おもふうちに、こもり候ふなり。この外に、奥ふかきことを存ぜば、二尊のあはれみにはずれ、本願にもれ候ふべし。念仏を信ぜん人は、たとひ一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらにおなじうして、智者のふるまひをせずして、ただ一向に念仏すべし。
為證以両手印
浄土宗の安心起行、この一紙に至極せり。源空が所存、此の外に全く別義を存ぜず。滅後の邪義を、ふせがんがために、所存をしるし畢んぬ。
建歴二年正月二十三日    大師在御判

御法語 第二十四
ときどき別時の、念仏を修して、心をも、身をも、はげまし、ととのへ、すすむべきなり。日々に六万遍七万遍を唱へば、さても足りぬべき事にてあれども、人の心ざまは、いたく、目なれ、耳ならぬれば、いらいらと、すすむ心すくなく、あけくれは、そう々として、心閑かならぬ様にてのみ、疎略になりゆくなり。その心を、すすめんためには、時時別時の、念仏を修すべきなり。しかれば善導和尚も、ねんごろに、はげまし、恵心の先徳も、くはしく、をしへられたり。道場をも、ひきつくろひ、花香をも、供へたてまつらん事、ただちからの、たへたらんに、したがふべし。また我が身をも、ことに、きよめて道場に入りて、或は三時、或は六時なんどに、念仏すべし。もし同行など、あまたあらん時は、かはるがはる、いりて、不断念仏にも修すべし。棋様の事は、おのおの、様に随ひて、はからふべし。

御法語 第二十五
しづかに、おもんみれば、善導の観経の疏は、是れ西方の指南、行者の目足なり。しかれば、すなはち、西方の行人は、かならず、すべからく珍敬(ちんぎょう)すべし。就中毎夜の夢の中に、僧ありて、玄義を指授せり。僧といふは、おそらくは、これ弥陀の応現なり。しからばいふべし、この疏は弥陀の傳設なりと。いかにいはんや、大唐に相伝していはく、善導は、これ弥陀の化身なりと。しからばいふべし、この文は、これ弥陀の直説なりと。すでに、うつさんと、おもはんものは、もはら、経法のごとく、せよといへり。此のことば、まことなるかな。あふぎて本地を、たづぬれば、四十八願の法王なり。十刧正覚のとなへ、念仏にたのみあり。ふして垂迹を、とぶらへば、専修念仏の導師なり。三昧正受のことば、往生にうたがひなし。本迹ことなりといへども、化導これ一なり。ここに貧道、むかし此の典を披閲して、粗素意をさとれり。たち所に餘行を、とどめて、ここに念仏に帰す。それよりこのかた、今日にいたるまで、自行、化他、ただ念仏を事とす。然る間まれに、津をとふものには、しめすに、西方の通津をもてし、たまたま行をたづぬるものには、をしふるに、念仏の別行をもてす・これを信ずるものは、おほく、信ぜざるものは、すくなし・「已上略抄」念仏を事とし、往生をこひねがはん人、あに此書をゆるがせに、すべけんや。

御法語 第二十六
観無量壽経にいはく、一々の光明、遍く十方の世界を照して、念仏の衆生を、攝取して、捨て給はず。己上」これは光明、ただ念仏の衆生を照らして、餘の一切の行人をば、てらさずといふ也。但し餘の行をしても、極楽をねがはば、仏光てらして、攝取し給ふべし。いかが、ただ念仏のものばかりを、えらびて、てらしたまへるや。善導和尚釋して、のたまはく、弥陀の身色は金山の如し。相好の光明十方を照らす。唯念仏の者のみありて光攝を蒙る。當に知るべし本願最も強きを。念仏はこれ弥陀の本願の行なるがゆえに、成仏の光明、かへりて、本地の誓願を、たらしたまふなり。餘行は、これ本願にあらざるがゆえに、弥陀の光明、きらひて、てらしたまはざるなり。今極楽を、もとめん人は、本願の念仏を行じて、攝取の光に、てらされんと思し食すべし。これにつけても、念仏大切に候。よくよく申させ給ふべし。

御法語 第二十七
善導の三縁の中の、親縁を釈し給ふに、衆生、ほとけを禮すれば、仏、これをみたまふ。衆生、ほとけを、となふれば、仏、これをきき給ふ。衆生、仏を念ずれば、仏も、衆生を念じ給ふ。かるがゆえに、阿弥陀仏の三業と、行者の三業と、かれこれ、ひとつになりて、仏も衆生も、おや子の如くなるゆえに、親縁となづくと候ひぬれば、御手に、ずずを、もたせたまひて候はば、仏これを御らん候ふべし。御心に念仏申すぞかしと、思し食し候はば、仏も行者を、念じ給ふべし。されば仏に、見えまいらせ、念ぜられまいらする、御身にて、わたらせたまひ候はんずるなり。さは候へども、つねに御したの、はたらくべきにて候ふなり。三業相応のためにて候ふべし。三業とは、身と、口と、意とを申し候ふなり。しかも仏の本願の、称名なるがゆえに、こえを、本體とは思し食すべきにて候。さて我が耳に、聞こゆる程申し候ふは、高聲の念仏の、うちにて候ふなり。

御法語 第二十八
法爾の道理といふ事あり。ほのほは空にのぼり、水は、くだりさまにながる。菓子の中にすき物あり、あまき物あり。これらは、みな法爾の道理なり。南無阿弥陀仏の本願は、名號をもて、罪悪の衆生を、みちびかんと、ちかひ給ひたれば、ただ一向に念仏だに申せば、仏の来迎は、法爾の道理にて、うたがひなし。

御法語 第二十九
まことしく、念仏を行じて、げにげにしき、念仏者に、なりぬれば、よろずの人を見るに、みな、わがこころには、おとりて、あさましくわろければ、わが身の、よきままに、我はゆゆしき、念仏者にてあるものかな。誰々にも、勝れたりと思ふなり。この心をば、よくよく、つつしむべき事なり。世もひろく、人もおほければ、山のおく、林のなかに、こもり居て、人にも、しられぬ、念仏者の、貴く目出たき、さすがに、おほくあるを、わが、きかず、しらぬ、にてこそあれ。されば、われ程の念仏者よもあらじとおもふ、僻事(ひがごと)なり。この思は、大キョウマンにてあれば、即ち三心も、かくるなり。またそれを、たよりとして、魔縁のきたりて、往生を妨ぐるなり。これ我が身の、いみじくて、罪業をも滅し、極楽へも、まゐる事ならば、こそあらめ。ひとへに、阿弥陀仏の願力にて、煩悩をも、のぞき、罪業をも、けして、かたじけなく、手づから、みずから、ごくらくへ、むかへとりて、帰らせまします事也。我がちからににて、往生する事ならばこそ、われかしこしといふ、慢心をば、おこさめ。キョウ慢の心だにも、おこりぬれば、心行かならず、あやまる故に、たちどころに、阿弥陀仏の願に、そむきぬるものにて、弥陀も諸仏も、護念し給わず。さるままには、悪鬼の、ためにも、なやまさるるなり。返すがへすもつつしみて、きょう慢の心を、おこすべからず。あなかしこあなかしこ。

御法語 第三十
法蓮房申さく、古来の先徳、みなその遺跡あり。しかるに、いま精舎一宇も、建立なし。
御入滅の後、いづくを、もてか、御遺跡とすべきやと。上人答へ給はく、あとを、一廟にしむれば、遺法あまねからず。予が遺跡は、諸州に遍満すべし。ゆえいかんとなれば、念仏の興業は、愚老一期の勸化なり。されば念仏を、修せんところは、貴賎を論ぜず、海人漁人が、とまやまでも、みなこれ、予が遺跡なるべしとぞ、おほせられける。

御法語 第三十一
念仏の行を、信ぜざらん人にあひて、御物語り候はざれ。いかに况や、宗論候ふべからず。強(あながち)ちに、異解異学の人を見て、これを、あなづり、そしる事候ふべからず。いよいよ、おもき罪人に、なさん事不便(ふびん)に候ふべし。極楽をねがひ、念仏を申さん人をば、塵刹の外なりとも、父母の慈悲に、おとらず思し食すべきなり。今生の財寶ともしからん人をば、力を、くはえさせ給ふべし。もしすこしも、念仏に心をかけ候はん人をば、いよいよ御すすめ候ふべし。これも弥陀如来の、本願の、みやづかひと思し食し候ふべし。


以下、御法語後巻

御法語後第1
浄土門といふは、この娑婆世界を、いとひすてて、いそぎて、極楽にうまるる也。かの国に、うまるる事は、阿弥陀仏の、ちかひにて、人の善悪を、えらばず、ただ、ほとけのちかひを、たのみ、たのまざるによる也。このゆえに、道綽は、浄土の一門のみありて、通入すべき、みちなりと、のたまへり。されば、このごろ、生死を、はなれんと、思はん人は、證しがたき、聖道をすてて、ゆきやすき、浄土をねがふべき也。この聖道浄土をば、難行道、易行道と、なづけたり。たとへて、とりて、これをいふに、難行どうは、けはしき、みちを、かちにて、ゆくがごとし。易行道は、海路を、ふねにのりて、ゆくがごとしといへり。あしなえ、目しひ、たらん人は、かかる、みちには、むかふべからず。ただふねに、のりてのみ、むかひの、きしには、つくなり。しかるに、このごろの、われらは、智恵の、まなこ、しひ、行法の、あしなえたるともがら也。聖道難行の、けはしき、みちには、惣じて、のぞみを、たつべし。ただ弥陀の本願の、ふねに、のりて、生死の、うみをわたり、極楽のきしに、つくべき也。

御法語後第二
およそ、生死をいづる行、一つにあらずといへども、まず極楽に、往生せんとねがへ。弥陀を念ぜよと、いふ事、釋迦一代の教に、あまねくすすめ給へり。そのゆえは、阿弥陀仏本願を、おこして、わが名号を、念ぜんもの、わが浄土に、うまれずば、正覚を、とらじと、ちかひて、すでに、正覚をなり給ふゆへに、この名号を、となふるものは、かならず往生する也。臨終の時、もろもろの聖衆と、ともに、きたりて、かならず、迎摂し給ふゆえに、悪業として、さふるものなく、魔縁として、さまたぐる事なし。男女貴賎をも、えらばず、善人悪人をも、わかたず、至心に弥陀を念ずるに、うまれずといふ事なし。たとへば、おもき石を、ふねに、のせつれば、しずむ事なく、萬里のうみを、わたるがごとし。罪業の、おもき事は、石のごとくなれども、本願の、ふねに、のりぬれば、生死の、うみに、しづむ事なく、かならず往生するなり。ゆめゆめ、わが身の、罪業によりて、本願の不思議を、うたがはせ、給ふべからず。これを他力の、往生とは申す也。

御法語後第三
上人播磨の信寂房に、おほせられけるは、ここに、宣旨の二つ侍るを、とりたがへて、鎮西の宣旨を、坂東へ、くだし、坂東の宣旨をば、鎮西へ、くだしたらんには、ひともちいてんやと宣ふに。信寂房、しばらく案じて、宣旨にても候へ、とりかへたらんをば、いかが、もちひ侍るべき。と申しければ。御房は道理をしれる人かな。やがてさぞ。帝王の宣旨とは。釋迦の遺教なり。宣旨二つありといふは、正像末の三時の教なり。聖道門の修行は、正像の時の、教なるがゆえに、上根上智の、ともがらに、あらざれば、證しがたし。たとへば、西国の宣旨のごとし。浄土門の修行は、末法濁乱の、時の教なるがゆえに、下根下智の、ともがらを、器(うつわもの)とす。これ奥州の宣旨のごとし。しかれば、三時相応の宣旨、これを、とりたがふまじきなり。大原にして、聖道浄土の、論談ありしに、法門は、牛角の論なりしかども、機根くらばには、源空かちたりき。聖道門は、ふかしといへども、時すぎぬれば、いまの機に、かなはず。浄土門は、あさきに、似たれども、當根に、かなひやすしと、いひしとき、末法萬念・餘経悉滅・弥陀一教・利物偏増の道理に、をれて、人みな、信伏しきとぞ、仰せられける。
御法語後四
雙卷経の、おくに、三寶滅盡の、後の衆生、乃至一念に、往生すと、とかれり。善導釋していはく、萬年に、三寶滅して、此の経住まること百年、爾の時聞きて一念すれば、皆まさに彼こに生ずることを得べしといへり。此の二つの意をもて、弥陀の本願の、ひろく摂し、とほく、およぶほどをば、しるべき也。重きをあげて、軽きををさめ、悪人をあげて、善人ををさめ、遠きをあげて、地下きををさめ、後をあげて、前ををさむるなるべし。まことに、大悲誓願の、深広なる事、たやすく、言をもて、のぶべからず。心をとどめて、おもふべき也。抑此の頃、末法に、いれりといへども、いまだ百年に、みたず、われら罪業、おもしといへども、いまだ五逆を、つくらず。しかれば、はるかに、百年法滅ののちを、すくひ給へり。いはんや此のごろをや。ひろく五逆極重の、つみをすて給わず。いわんや十悪の、われらをや。ただ三心を具して、もはら、名号を稱すべし。

御法語後第五
善根なければ、此の念仏を修して、無上の功徳を、えんとす。餘の善根、おほくば、たとひねんぶつせずとも、たのむかたも、あるべし。しかれば善導は、わが身をば、善根薄少なりと信じて、本願をたのみ、念仏せよと、すすめ給へり。経に、一たび名号を、となふるに、大利を得とす。又すなはち、無上の功徳を得と、とけり。いかにいはんや、念々相續せんをや。しかれば善根なければとて、念仏往生を、うたがふべからず。

御法語後第六
釋迦如来、この経の中に、定散のもろもろの行を、説きをはりて後に、まさしく、阿難に、付属したまふときには、上に説くところの、散善の三福業、定善の十三観をば、付
属せずして、ただ念仏の一行を、付属してまへり。経にいはく、仏阿難に告げ給はく、汝好く是の語を持て。是の語を持てとは、即ち是れ無量壽仏の名を持てとなり。己上
善導和尚、この文を釋してのたまはく、仏阿難に告げ給はく、汝好く是の語を持てより已下は、正しく弥陀の名号を付属して遐代に流通し給ふことを明かす。上来定散両門の益を、説くと雖も、仏の本願に望むれば、意衆生をして、一向に専ら、弥陀仏の名を稱せしむるに在り。已上   此の定散の諸の行は、弥陀の本願に、あらざるがゆえに、釋迦如来の往生の行を、付属し給ふに、餘の定善散善をば、付属せずして、念仏はこれ、弥陀の本願なるがゆえに、まさしく、えらびて、本願の行を、付属し給へるなり。いま、釋迦のをしへに随ひて、往生を、もとむるもの、付属の念仏を、修して、釋迦の御心に、かなふべし。これにつけても、又よくよく、御念仏候うて、仏の付属に、かなはせ給ふべし。

御法語後第七
浄土宗の意、善導の御釋には、往生の行に、大いに、わかちて、二つとす。一つには正定、二つには雑行也。はじめに、正行といふは、是れにあまたの行あり。はじめに、讀誦正行といふは、これは無量寿経、観経、阿弥陀経等の、三部経を、讀誦する也。次に観察正行といふは、これは、かの国の、依正二報の、ありさまを観ずる也。次に、禮拝正行といふは、これは、阿弥陀ほとけを、禮拝するなり。次に、稱名正行といふは、南無阿弥陀仏と、となふる也。次に、讃嘆供養正行といふは、これは、阿弥陀仏を、讃嘆し、たてまつる也。これをさして、五種の正行となづく。讃嘆と供養とを、二つの行と、する時は、六種の正行とも申す也。此の正行に付きて、ふさねて、二つとす。一つには、一心に、もはら、弥陀の名号を、となへたてまつりて、立居起臥、晝夜に、忘るることなく、念念に、すてざる者を、これを、正定の業となづく。かの仏の本願に、順ずるがゆえにと申して念仏を、もて、まさしく、さだめたる、往生の業と立て候。もし禮誦等によるをば、なづけて、助業とすと申して、念仏のほかの、禮拝、讀誦、讃嘆供養などをば、かの念仏を、たすくる業と申して候ふ也。さてこの正定業と、助業とを、のぞきて、そのほかの、もろもろの業をば、みな雑行となづく。

御法語後第八
それ浄土に、往生せんと、おもはば、心と行との、ふたつ相應すべきなり。かるがゆえに、善導の釋に、ただし、その行のみあるは、行すなはち、ひとりにして、また、いたるところなし。ただその願のみあるは、願すなはち、むなしくして、またいたるところなし。かならず、願と行と、あひたすけて、なすところ、みな尅すといへり。およそ、往生のみにかぎらず、聖道門の、得道を、もとめんにも、心と行とを、具すべしといへり。発心修行と、なづくるこれなり。今此の浄土宗に、善導のごときは、安心起行となづけたり。

御法語後第九
至誠心といふは、大師釋して宣はく、至といふは、真也。誠といふは、實也といへり。ただ真実心を、至誠心と、善導は、おほせられたる也。真實といふは、もろもろの、
虚假の心の、なきをいふ也。虚假といふは、貪瞋等の、煩悩を、おこして、正念を、うしなふを、虚假心と釋する也。すべて、もろもろの、煩悩の、おこる事は、みなもと、貪瞋を、母として、出生するなり。貪といふについて、喜足小欲の貪あり、不喜足大欲の貪あり。いま浄土宗に、制するところは、不喜足大欲の、貪煩悩也。まづ行者、かやうの、道理を心えて、念仏すべき也。これが真實の念仏にてある也。喜足小欲の貪は、くるしからず。瞋煩悩も、敬上慈下の心を、やぶらずして、道理を、心えんほど也。痴煩悩といふは、おろかなる心也。此の心を、かしこくなすべき也。まず生死を、いとひ、浄土を、ねがひて、往生を大事と、いとなみて、もろもろの家業を、事とせざれば、痴煩悩なき也。少々の痴は、往生のさはりにはならず。これほどに、心えつれば、貪瞋等の、虚假の心は、うせて、真實心は、やすく、おこる也。これを浄土の菩提心といふなり。詮ずるところ、生死の報を、かろしめ、念仏の一行を、はげむがゆえに、真實心とはいふ也。

御法語後第十
はじめには、わが身のほどを信じ、後には、仏の願を信ずるなり。その故は、もし、はじめの、信心をあげずして、後の信心を、釋し給はば、もろもろの、往生をねがはん人、たとひ、本願の名号をば、となふとも、みづから心に、貪欲、瞋恚、煩悩をも、おこし、身に十悪破戒等の、罪悪をも、つくりたる事あらば、みだりに、自身を、かろしめて、身のほどを、かへりみて、本願を疑ひ、候はまし。いま、この本願に、十聲一聲までに往生すといふは、おぼろげの人には、あらじなずと、おぼえ候はまし。しかるを、善導和尚、未来の衆生の、このうたがひを、おこさん事を、かがみて。この二つの信をあげて、我等がいまだ煩悩をも断ぜず、罪業をも、つくる、凡夫なれども、ふかく弥陀の、本願を信じて、念仏すれば、一聲にいたるまで、決定して、往生するよしを、釋したまへる、この釋の、ことに、心にそみて、いみじく、おぼえ候ふなり。


御法語後第十一
廻向発願心といふは、過去、および、今生の、心口意業に、修するところの、一切の善根を、真実の心をもて、極楽に回向して、往生を欣求する也。これを廻向発願心となづく。この三心を、具しぬれば、かならず往生する也。

御法語後第十二
むかしの太子は、萬里の、なみを、しのぎて、龍王の、如意寶珠を、得給へり。いまの、われらは、二河の水火をわけて、弥陀本願の、寶珠を得たり。かれは、龍神の、くいしがために、うばはれ、これは異学異見のために、うばはる。かれは、貝のからに、もて、大海を、くみしかば、六欲四禅の、諸天来りて、おなじく、くみき。これは信の手を、もて、疑謗の難を、くまば、六方恆沙の諸仏、きたりて、くみし給ふべし。

御法語後第十三
一々の願の、をはりに、若し爾らずば、正覚を取らじと、誓ひ給へり。しかるに、阿弥陀仏、ほとけになり給ひてより、このかた、すでに十刧を、へ給へり。まさにしるべし、誓願むなしからず。しかれば、衆生の稱念するもの、一人も、むなしからず、往生する事を得。もし、しからずば、たれか、仏になり給へる事を信ずべき。三寶滅盡の、時なりと、いへども、一念すれば、なほ往生す。五逆深重の、人なりと、いへども、十念すれば、往生す。いかに況や、三寶の世に生まれて、五逆をつくらざる我等、弥陀の名号を、唱へんに、往生うたがふべからず。いま、この願にあへる事は、實に、おぼろげの縁にあらず。よくよく、よろこび、おぼしめすべし。たとひ又、あふといへども、もし信ぜざれば、あはざるがごとし。いまふかく、この願を信ぜさせ給へり。往生疑ひおぼしめすばからず。必ず必ず、ふた心なく、よくよく御念仏候うて、このたび生死を、はなれ、極楽に、生まれさせ給ふべし。

御法語後第十四
問。信心のやうは、うけたまはりぬ。行の次第、いかが候ふべき。
答。四修をこそ、本とする事にて候へ。一つには長時修、乃至、四つには無餘修也。
一つには長時修といふは、善導は、命の終るを、期として、誓って中止せざれといふ。二つに恭敬修といふは、極楽の、仏法僧寶に於て、常に憶念して、尊重をなす也。三つに無間修といふは、要決に云く、常に念仏して、往生の心をなせ。一切の時に於いて、心につねに思ひ、たくむべし。四つに無餘修といふは、要決に云く、もはら極楽をもとめて、弥陀を禮念するなり。但諸餘の行業を、雑起せざれ。所作の業は、日別に念仏すべし。

御法語後第十五
毎日の所作に、六萬十萬の数遍を、念珠を、くりて、申し候はんと、弐萬参萬を、念珠を、たしかに、一つづつ申し候はんと、いづれか、よく候ふべき。答。凡夫のならひ、弐萬三萬を、あつとも、如法には、かなひ、がたからん。ただ数遍の、おほからんにはすぐべからず。名号を相續せんためなり。かならずしも、かずを、要すとするにはあらず。ただ常に念仏せんがためなり。かずをさだめぬは、懈怠の因縁なれば、数遍をすすむるにて候。

御法語後大十六
問。念仏せんには、かならず、念珠を、もたずとも、くるしかるまじく候ふか。
答。かならず念珠を、持つべき也。世間の、うたを、うたひ、舞、まふすら、その拍子に、したがふ也。念珠を、はかせにて、舌と手とを、うごかす也。ただし無明を、断ぜざらんものは、妄念、おこるべし。世間の客と、主とのごとし。念珠をてにとる時は、妄念の、かずを、とらんとは、約束せず。念仏の、かずとらんとて、念仏の、あるじを、すえつるうへは、念仏は主、妄念は客也。さればとて、心の妄念を、ゆるされたるは、過分の恩也。それに、あまさへ、口に様々の、雑言をして、念珠を、くりこしなどする事、ゆゆしきひが事也。

御法語後十七
百萬遍の事。仏の願にては候はねども、小阿弥陀経に、若は一日、若は二日、乃至7日、念仏申す人、極楽に、生ずると、とかれて候へば、七日念仏申すべきにて候。その七日の、ほどのかずは、百萬遍に、あたり候ふよし、人師釋して候へば、百万編は、七日申すべきにて候へども、たへ候はざらんひとは、八日九日などにも、申され候へかし。さればとて、百万編、申さざらん人の、うまるまじきにては候はず。一念十念にても、うまれ候ふなり。一念十念にても、うまれ候ふほどの、念仏と思ひ候ふうれしさに、百万編の、功徳を、かさぬるにて候ふ也。

御法語後第十八
十重をたもちて、十念をとなへよ。四十八軽を、まもりて、四十八願を、たのむは、心にふかく、こひねがふ所なり。おほよそ、いづれの行を、もはらにすとも、心に戒行を、たもちて、浮嚢を、まもるがごとくにし、負の威儀に、油鉢を、かたぶけずば、行として成就せずと、いふ事なし。願として、円満せずと、いふことなし。しかるを。われら、或は四重を、をかし、或は十悪を行ず。かれも、をかし、これも、行ず。一人として、まことの戒行を、具したる者はなし。諸悪莫作、諸善奉行は、三世の諸仏の通戒也。善を修するものは、善趣の報を得、悪を行する者は、悪道の果を感ずといふ、この因果の道理を、きけども、きかざるがごとし。はじめて、いふに、あたはず。しかれども、分にしたがひて、悪業を、とどめよ。縁にふれて、念仏を行じ、往生を期すべし。

御法語後第十九
孝養の心をもて、ちちははを、おもくし、おもはんひとは、まず阿弥陀ほとけに、あづけ、ま井らすべし。我が身の、人となりて、往生をねがひ、念仏することは、ひとへに、わが父母の、やしなひたてればこそあれ。わが、念仏し候ふ功徳をあはれみて、わが父母を、極楽へ、むかへさせ、おはしまして、罪をも滅し、ましませと、おもはば、必ず必ずむかへとらせ、おはしまさんずる也。

御法語後第二十
ある時には、世間の無常なる事を、おもひて、此の世の、いくほどなき事をしれ。ある時には、仏の本願を、おもひて、かならず、むかへ給へと申せ。ある時には、人身の、うけがたき、ことわりを、おもひて、このたび、むなしく、やまん事を、かなしめ。六道を、めぐるに、人身を、うる事は、梵天より、糸をくだして、大海の、そこなる、針のあなを、とほさんが、ごとしといへり。ある時は、あひがたき、仏法にあへり。このたび、出離の業を、うえずば、いつをか、期すべきと、おもふべき也。ひとたび、悪道に、堕しぬれば、阿僧祇刧を、ふれども、三寶の、御名をきかず。いかに、いわんや、ふかく、信ずる事をえんや。ある時には、わが身の、宿善を、よろこぶべし。かしこきも、いやしきも、人、おほしと、いへども、仏法を信じ、浄土を、ながふものは、まれ也。信ずるまでこそ、かたからめ、そしり、にくみて、悪道の因をのみ、つくる、しかるに、これを信じ、これを貴びて、仏をたのみ、往生を志す、これ偏に宿善の、しからしむる也。ただ今生の、はげみにあらず。往生すべき、期(とき)のいたれる也と、たのもしく、よろこぶべし。かやうの事を、をりに、したがひ、事によりて、おもふべき也。

御法語後大二十一
念仏して、往生するに、不足なしと、いひて、悪業をも、はばからず、行ずべき、慈悲をも、行ぜず、念仏をも、はげまさざらん事は、仏教の、おきてに、相違する也。たとへば、父母の慈悲は、よき子をも、あしき子をも、はぐくめども、よき子をば、よろこび、あしき子をば、なげくがごとし。仏は一切衆生を、あはれみて、よきをも、あしきをも、わたし給へども、善人を見ては、よろこび、悪人を見ては、かなしみ給へる也。よき地に、よき種を、まかんがごとし。かまへて、善人にして、しかも、念仏を修すべし。是を真実に、仏教に、したがふものといふ也。

御法語後第二十二
往生せさせ、おはしますまじき、やうにのみ、申しきかせ、ま井らする、人々の、候ふらんこそ、返す返す、あさましく、心ぐるしく候へ。いかなる智者、めでたき人々、おほせらるるとも、それにな、おどろかせ、おはしまし候ひそ。おのおのの道には、めでたく、貴き人なりとも、さとり、ことに、行、ことなる人の、申し候ふ事は、往生浄土の、ためには、中々ゆゆしき、退縁悪知識とも、申しぬべき、事どもにて候。只凡夫の、はからひをば、ききいれさせ、おはしまさで、一すぢに、仏の御ちかひを、たのみ、ま井らせ、おはしますべく候。

御法語後第二十三
まめやかに、往生の志ありて、弥陀の本願を、疑うはずして、念仏を申さん人は、臨終の、わろき事は、大方は、候ふまじき也。そのゆえは、仏の来迎し給ふ事は、もとより、行者の、臨終正念の、ためにて候ふ也。それを、意えぬ人は、みな、わが、臨終正念にて、念仏申したらん時に、仏は、迎へ給ふべき也とのみ、意(こころえ)えて候ふは、仏の願をも信ぜず、経の文をも、意えぬ人にて候ふ也。そのゆえは、稱讃浄土経に云く、仏、慈悲をもて、加へ祐けて、心をして、みだらしめ給はずと、とかれて、候へば、ただの時に、よくよく申しおきたる、念仏によりて、臨終に、必ず仏は来迎し給ふべし。仏の、来迎し給ふて、見たてまつりて、行者、正念に、住すと申す義にて候。しかるに、さきの念仏を、空しく思ひなして、よしなく、臨終正念をのみ、いのる、人などの候ふは、ゆゆしき僻胤(ひがいむ)に、いりたる事にて候ふ也。されば仏の本願を、信ぜんひとは、かねて、臨終を疑ふ心、あるべからずとこそ、おぼえ候へ。ただ当時申さん念仏をば、いよいよ、至心に申すべきにて候。

御法語後第二十四
五逆罪と申して、現身に父を殺し、母をころし、悪心をもて、仏心を、そこなひ、諸宗を破り、かくの如く、おもきつみをつくりて、一念懺悔の、心もなからん、其の罪によりて、無間地獄におちて、多くの刧を、おくりて、苦をうくべからん者、終りの時に、善知識の、すすめによりて、南無阿弥陀仏と、十聲唱ふるに、一聲に、おのおの八十憶刧が間、生死に、めぐるべき、罪を滅して、往生すと、説かれて候ふめれば、さほどの、罪人だにも、ただ十聲一聲の念仏にて、往生は、し候へ。まことに、仏の本願の力ならでは、いかでか、さる事候ふべきと、覚え候。

御法語後第二十五
問うて云く、攝取の益を、かうぶる事は、平生か、臨終か、いかん。
答へて云く、平生の時なり。そのゆえは、往生の心、まことにて、わが身を疑ふ事なくて、来迎をまつ人は、これ三心具足の、念仏申す人なり。この三心具足しぬれば、必ず極楽に、うまるといふ事は、観経の説なり。かかる志ある人を、阿弥陀仏は、、八萬四千の光明を、はなちて、てらし給ふ也。平生の時、照しはじめて、最後まで、捨て給はぬなり。故(かるがゆえ)に不捨の誓約と申す也。

御法語後第二十六
弥陀の本願を、深く信じて、念仏して、往生を願ふ人をば、弥陀仏より、はじめ奉りて、十方の諸仏菩薩、観音勢至、無数の菩薩、この人を圍繞して、行住座臥、よる、ひるをもきらはず、影の如くに、そひて、諸の横悩をなす、悪鬼悪神の、たよりを、はらひ、のぞき給ひて、現世には、横さまなる、煩なく、安隠にて命終の時は、極楽世界へ、むかへ給ふ也。されば念仏を信じて、往生を、ねがふ人は、ことさらに、悪魔を、はらはんために、萬の仏、神に、祈おもし、慎みをもする事は、なじかはあるべき。あはんや、仏に帰し、僧に帰する人には、一切の神王、恆沙の鬼神を、眷属として、常に此の人を、まもり給ふといへり。然れば、かくの如きの、諸仏諸神、圍繞して、守り給はん上は、又いづれの、仏神かありて、なやまし、さまたぐる事あらん。

御法語後第二十七
宿業、かぎりありて、受くべからん病は、いかなる諸の仏、神に、いのるとも、それに、●るまじき事也。祈るによりて、病もやみ、命も、のぶる事あらば、たれかは、一人として、やみ、しぬる、人あらん。いはんや、又仏の御力は、念仏を信ずる者をば、転重軽受といひて、宿業限ありて、おもく、うくべき、やまひを、かろく、うけさせ給ふ。いはんや、非業を、はらひ給はん事、ましまさざらんや。されば、念仏を信ずるひとは、假令いかなる、病を受くれども、皆これ宿業也。これよりも、重くこそ、受くべきに、仏の御力にて、これほども、受くるなりとこそは、申し事なれ。我等が、悪業深重なるを滅して、極楽に往生する程の、大事をすら、遂げさせ給ふ。まして、此の世に、いく程ならぬ、命を延べ、病をたすくる力、ましまさざらんやと申す事也。されば、後生をいのり、本願を、たのむ心も薄き人は、かくのごとく圍繞にも、護念にも、あづかる事なしとこそ、善導は宣ひたれ。同じく念仏すとも、深く信を起して、穢土をいとひ、極楽をねがふべき事也。

御法語後第二十八
此のたび輪廻の、きづなを、はなるる事、念仏に過ぎたる事は、あるべからず。このかきおきたる、ものを見て、そしり謗ぜんともがらも、必ず九品の、うちなに、縁をむすび、たがひに、順逆の縁、むなしからずして、一仏浄土の、ともたらむ。抑(そもそも)機をいへば、五逆重罪を、えらばず、女人闡提をも、すてず。行をいへば、一念十念を、もてす。これによりて、五障三従を、恨むべからず、この願をたのみ、この行をはげむべき也。
念仏のちからにあらずば、善人なほ、うまれがたし。いはんや悪人をや。五念に五障を消し、三念に三従を滅して、一念に臨終の、来迎を、かうぶらんと、行住座臥に、名号を、となふべし。時處諸縁に、此の願をたのむべし。あなかしこあなかしこ。

御法語後第二十九
会者定離は、常の習、今はじめたるにあらず。何ぞ深く嘆かんや。宿縁空しからずば、同一蓮に座せん、浄土の再会甚だ近きにあり。今の別は暫くの悲しみ、春の夜の夢の如し。信謗ともに縁として、先に生れて、後を導かん、引摂縁は、これ浄土の楽しみなり。夫れ現生すら、猶もて疎からず、同名号を唱え、同一光明の中にありて、同聖衆の護念を蒙る、同法尤もしたし。愚に疎しと思し食すべからず。南無阿弥陀仏と唱へ給へば、住所は隔つといへども、源空に親しとす。源空も、南無阿弥陀仏と唱へたてまつるが故也。念仏を縡(こと)とせざる人は、肩を並べ、膝を與(く)むといへども、源空に疏かるべし。三業皆異なるが故なり。

御法語後第三十
当時日ごとの、御念仏をも、かつかつ回向し、ま井らせられ候ふべし。なき人のために、念仏を回向し候へば、阿弥陀仏、光をはなちて、地獄、餓鬼、畜生を、てらし給ひ候へば、この三悪道に、しづみて、苦を受くるもの、其の苦、やすまりて、命終りて後、解脱すべきにて候。大経に、若し三途勤苦の處に在りて、此の光明を見たてまつれば、皆休息を得て、復苦悩なし。寿終の後、皆解脱を蒙らむと云へり。

御法語後第三十一
左様に、そら事を、たくみて、申し候ふらん人をば、かへりてあはれむべきなり。さ程のものの、申さんによりて、念仏に疑をなし、不信を、おこさんものは、言ふに足らぬ程の、事によりてこそは候はめ。大方弥陀に、縁あさく、往生に、時いたらぬものは、きけども信ぜず、行ふを見ては、腹をたて、怒をふくみて、さまたげんとすることにて候ふ也。その心をえて、いかに人申すとも、御心ばかりは、動(ゆる)がせ給ふべからず。強(あなが)ちに信ぜざらんは、仏なほ、力および、たまふまじ。何況(いかにいわん)や凡夫の力、および候ふまじき事なり。かかる不信の衆生を、利益せんと、思はんに、つけても、とく極楽へ、ま井りて、さとりて、ひらきて、生死にかへりて、誹謗不信の者をも、わたして、一切衆生、あまねく利益せんと、思ふべき事にて候ふ也。


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