私が大学を卒業した昭和44年は、第三内科教授の追放、医局講座制解体、大学院廃止のスローガンのもとに、大学紛争の嵐が吹き荒れた時代でした。

  学生時代は、優秀な学生であることのみが目的の日々であったのが、米軍戦闘機の大型計算機センターへの墜落を機に、24歳の血気さかんな、医師になりたての私は、それまでの医学を学び研究する事は無論の事だがそれだけではなく、患者サイドにたつ真の医療とはいかにあるべきかとか、自分自身どう関わってきたのか等の自問自答と放課後の討論集会に参加したものでした。

  研修医時代はこのように学生運動も盛んでしたが患者さんを受け持ち、いつも夜八時以前に病棟を離れる日は無く、夜食のラーメンをすすりながら深夜11時に帰路につく事もしばしばでしたが、お互いに励ましあいながら医療に携わる喜びに満ち溢れていました。

  一内時代は花田先生(前唐津日赤院長)山口先生(佐賀医科大学学長)、二内時代は尾前先生(前国立循環器センター総長)平田先生(東京女子医大名 誉教授)、三内時代は小鶴先生(九州がんセンター部長)本村先生(福岡逓 信病院院長)等のそうそうたる先生が皆講師でおられて、疾病の見方考え方文献の引き方患者への接し方カルテの書き方等から酒の飲み方にいたるまで全てに薫陶を戴きいまでも声をかけていただけるのもあの波乱万丈の時代に各内科をまわって研修させてもらった賜だと感謝しています。

  文部教官になった頃には大学もそれなりに落ち着きを取り戻し、学生講義の準備とか出席を取ったり赤血球酵素関係の研究をしたり、病棟外来の副主任をしたりといそがしくたちまわっていました。
昭和52年九州がんセンタ ーの内科医長に就任したあと昭和54年12月、高齢(80歳)だった親父と地元の方の要請もあり故郷に有床の診療所を開いたわけです。

  お陰様で開業してからは目の回るいそがしさでしたが、悪性疾患だけでも250例を超え特定疾患の申請も20例以上になり紹介状も50枚綴が70冊目となり紹介先も患者さんの希望されるところに私のアドバイスを加味して、福岡佐賀久留米鳥栖を中心に多岐にわたっています。
医師として日常の診療に必死にとりくんできたつもりでも個々の患者さんにとって果たして「よき医者」でありえたのかはわかりませんが一つ言える事は、医療に携わる者は当然の事ながら個々の患者さんも、自らの医療を勝ち取っていく時代になってきているという事です。

  社会的弱者(肉体的弱者、精神的弱者、経済的弱者)に対して、どれだけの医療福祉を本人の負担のかからない限度内で供給しうるかという事でその国の真の豊かさやその国の政治レベルの高さが評価されるわけです。
年間50兆円もの公共事業への投資をしていながら、国民医療費が27兆円になったと騒ぎますが、7兆円強しか国庫負担はないのですから(あとは患者窓口負担と保険料)。      
  国民の目の高さでの暖かな行政のできる(政治屋ではない)政治家を選んでいく努力が医師にも国民にも今希求されているのではないでしょうか。

       1998年6月25日

  パーキンソン友の会佐賀県支部報      1998年7月号より