「医療過誤事例の多発におもう」

    

 最近のマスコミ報道のなかで、特に目立つのが「医療過誤」に関するものであるが、実に奥深い多くの示唆と問題点を含んでいるようにおもわれる。症例により様々な事が想定されるしコメントする立場には無いので一般論と私見をのべてみたい。

 アメリカでも、1980年代後半から90年代前半にかけてマスコミによく医療事故が登場したがこれに対する医療側の反応は日本とは比べ物にならない程早くかつ理論的であった。各症例についての徹底的考証が、医療現場でも学会においても討議されいろいろな工夫と提案がなされているというのである。
「医療者は誤りを起こしてはならないし又起きない」という前提での発想は、もし、医療事故を起こした時に、「その誤りを認めるのは恥である」となり「隠す」事に繋がってしまう。これでは、ある意味では「貴重な」事例からなんら学ぶこと無く同じ事がくり返されるのではなかろうか。
まず、勇気を持っていろんな事例をさらけだして徹底的に検討していく必要があるのではないだろうか。その為にはその当事者の不注意を責めないという前提が確立されていなければ、「誤りから学ぶ医療」は出発しない。
「個人の不注意を責める」発想からは「同じ過誤を起こさないように気を引き締めてがんばろう」という単なる精神論しかでてこない。

 アメリカの場合には「医師も看護婦も人である以上誤りを犯す」という前提にたち、間違えようとしても間違い得ないシステムをつくる方策を模索しているという。
 たとえば、IVHと経管チューブを間違えた事例があったら、チューブそのものを全く違う形にして繋ぐにも繋げないようにシステムを変える等又、麻酔時に酸素と笑気をつけ間違ったり吸引と酸素のバルブのつけ違い等があったら、医療業界、医療器メーカー、行政が素早く対応して、間違いを起こすにも起こせない様にバルブの仕様を変える等は如何であろうか。
投薬間違いは、よく似た名前の薬の間でおこる事が多いので薬効ごとの配列に変えるとかの工夫もいいのではないだろうか。
とにかく、「ヒヤリハット事例」を、隠すことなくさらけだして(個人を責める姿勢があれば、出てこない)「過ち」を「総ての医療人の糧として学ぶ」姿勢が最も求められるシステムではないだろうか。

 佐賀県保険医新聞2000年12月号「主張」より