坂田   隆之

   筑後川の豊かな恵みを受けて筑後平野が有明海に広がっていますが、その中心に久留米市が栄えています。明治の中頃から久留米で多いものとして、「久留米の3しゃ」といって芸者・医者・人力車と三つ並べて有名でありました。医者も芸者も久留米が九州一の筑後平野における農業の中心地として繁盛し、そこに産業が興って全国からお金が集まっていたというのがその理由でしょう。
   人力車というのは、明治の初めに博多の人が発明したということですが、駕籠では二人で一人を運んでいたのですから大変な運送革命であります。久留米でいち早く人力車が普及したのは商業の町として賑わっていたという証拠ですが、多いときは600台を数えたそうであります。昭和の初めになると他の乗り物が発達して、人力車は、島田崩しを結った芸者さん専用になり、200人の芸者さんに対して人力車40台という安定した需要供給が、太平洋戦争が終わるまで続くのであります。
   さてゴム工業の始まりですが、その因縁は足袋の大量生産の話から始めなければなりません。明治の初めのことですが、倉田雲平(初代)という人がいました。6人兄弟の末っ子に生まれましたが、父は8歳のときに亡くなっていて母親は煎餅を焼いて暮らしを立てていました。
    雲平さんは近江屋という茣蓙商店に養子に出ました。しかし、自分一人がぬくぬくと暮らしているのに、母親は大変貧乏していることが申し訳ないと思うようになって、養子先を飛び出して実家に帰って家の手伝いをするわけであります。でも煎餅を焼いていても仕方がないので、着物仕立屋に弟子入りして手に職を付けたのであります。
   20歳になったので独立して仕立屋を始めましたが、注文が全くありません。着物の仕立てを頼むというのは、新規開業の若造のところへは誰もしないのであります。そこで雲平さんは仕立屋の業務分析を行ったのであります。仕立屋は長物の着物や羽織袴、それに下着から足袋まで縫い上げるのでありますが、この中で一番手間が掛かるものは足袋であります。現代風に言えば最も付加価値が高いものが足袋の縫合や仕立てで、しかも消耗品であるから需要が繰り返し多くなることに目を付けて、足袋製造の専業を行うと決意しました。

仕立屋 の看板




つちや足袋の商標


つちやたびのチラシ








   雲平さんの偉かったところは、ここから先の行動であります。本格的なたび製造の技術を学ぶために、当時外国船が出入りしていて先端技術が取り入れられ、全てのレベルが高かった長崎に行き、長崎足袋製造所に二年の年期奉公に入りました。既に技術の基本は身についていますのでメキメキ腕を上げて、主人から大変褒められて久留米に帰ってくるのであります。
   そしてここに明治6年、雲平さんは米屋町で「槌屋(つちや)足袋店」を開業致します。他の追従を許さない先端技術による、丁寧に真心を込めて仕上げて、足袋製品を久留米市内の旅館などに販売しましたので、一度でも履いた人の評判が大層によく、売行きを伸ばしていくのであります。
   そこに明治10年西南戦争が始まり、久留米の明善堂に討伐軍の本営が置かれるのでありますが、ここから槌屋足袋に2万足の足袋の注文が舞い込むのであります。
    「槌屋足袋さん、ことは急いでいるから20日で納品してもらいたい」と討伐軍の河野参謀が要請するのであります。「冗談じゃありまっせん。1ヶ月に2,000足なら無理して出来ますばってん、2万足も作れません」と雲平さんは答えたのであります。しかし、ここが男の踏ん張り所と博多・長崎・下関まで手を回して職人を集め、期日内に納品したのであります。
   それで陸軍の河野参謀の信頼を得るわけです。そしてその後も軍の諸物資の納品を手がけるのですが、頼みの河野参謀が田原坂で戦死するなどあって、軍隊の後を追い掛けての販売が混乱の中に立ち往生して、大損を被るのであります。
   「走るものはつまずきやすく、つま立つものは倒れやすい。堅実なる一歩ずつを進めよ、進めたる足は堅く踏みしめよ」という倉田家の家訓がここで生まれるのであります。この苦境に立った企業家を支えたのは、留守の作業所を経営していた奥さんのモトさんであります。へそくりから百円を出して「あなた、いい品物を作っておれば神様が助けてくださいますよ」と夫を励ましたのであります。昔から嫁さんが頑張らんと商売の成功は得られないのであります。
   雲平さんは初心に帰って、再び真心込めた足袋づくりに精を出すのであります。大量生産のための製造設備の改善、製造工程の能率化が次々と考え出され、休む暇もなく工場は拡張を続けるのであります。
   文明開化によってトムソンの型打抜機が考案され、ミシンが輸入されるようになり、電灯や動力としての電力利用が普及してくるのであります。これらをいち早く導入して生産の拡大を続けました。
   明治22年には広島県からペストが発生し、全国を恐怖のどん底に落とし込むのであります。政府の達示で「作業するものは微菌が入らないように足袋を履いて仕事をせよ」と緊急な方針が出て、ますます足袋が売れていくのであります。

大量生産、大量販売を軌道に乗せる


倉田家の家訓
  








   時代を先取りした大量生産大量販売を経験した雲平さんは、このノウハウを生かさない訳には参りません。大量販売には広告宣伝が大切であります。
   倉田雲平の販売強化の話が沢山残っていますが、日清戦争後に工場を拡張し新たにドイツ製ミシンを購入して増産体制をとり、明治35年に事情の判った長崎で、販路拡大の第一歩として宣伝を致します。幅5寸、長さ一尺5寸のトタン板に「にかぎり升」と書いたものをいたるところに張り出します。1ヶ月程経って長崎の人々が、にかぎり升とは何のことだろうかと注目が集まったところへ、「にかぎり升」のその上部に「つちやたび」の看板を張りつけていったのであります。
   「つちやたびにかぎり升」なるほどーこれで名前が浸透します。その後更に新聞広告を連載し、つちやたびと書いた100本の幟を押し立てた楽隊を行進させ、市内の商店を訪問させたので、長崎での販売は大成功を納めました。引き続き九州各県を巡回して訪問販売を行い販路の拡大をしていくのであります。
   当事の福岡日日新聞は、「いかなる山村僻地といえど店頭に(たばこ)の赤札を横に吊るしたるを見ざるはないが、是とともにまた必ずや(つちやたび)の青札を認めざるところはあるまい」とその浸透振りを述べています。
  「つちやたび」・「しまやたび」両社とも販路拡大に、九州では初めて宣伝カーを使っております。自動車がまだ岡蒸気と呼ばれて、珍しい時代に足袋の名前を書いて走り、大いに宣伝効果を納めていたのであります。
   つちやたびは九州で初めて飛行機を飛ばして宣伝をしました。久留米での足袋の製造会社が、大量生産大量販売の日本での元祖で、この2社が競争しながら、これをバネとして日本中を制圧していったのであります。
   明治37・8年の日露戦争後は、両社とも工場を新増設して、動力を使用して生産能力を飛躍的に増やし、機械を導入して年間に1,000万足を生産するまでになり、大正9年には、久留米絣の当時の生産額1,000万円を、足袋の生産額が上回ったのであります。
   つちや足袋は、その後昭和に入るとゴム靴の生産を本格化し、各地に工場を建て輸入するまでになります。マークも海外に通用するものにして「月星印」を昭和3年に採用しました。また支那靴の生産にも力を注ぎ、回教徒が多かった南方では「蝙蝠印」を用いました。

新時代の新しい商標を作る



南方に販売する邦靴には
コーモリ印の商標を使う

町角の要所要所に「にかぎり升」の
看板を掲出して、町の人が「これは何だろう」と
噂し合ったころを見計らって、その上部に
「つちやたび」と書いた看板を張って回りました。
「なるほど」と町の話題になりました。


   







   志まや足袋は、明治25年初代石橋徳次郎が、島屋の屋号の元に小さな仕立物屋を始めたのでありますが、病気がちだったので早くから2人の息子に家業を継がせたのであります。その兄重太郎(二代目徳次郎襲名)は非常に元気がよく、学校では組一番の暴れん坊だったので、兄は外回りを担当し、弟の正二郎は内の仕事を受け持ったということであります。
   ところが兄の重太郎さんは、一年志願で兵隊に入ってしまったのであります。後に一人残った正二郎さんは久留米商業学校を卒業したばかりの17歳でしたが、商いのやり方について考え合理的な足袋の専業化を図ることにしました。それまで無給で働いてもらっていた従業員に給与を払い、労働時間を短縮し能率を上げることにしました。まさに徒弟制度を大変革したのであります。
   重太郎さんは25歳で市会議員になり後には久留米商工会議所の会頭や久留米市の名誉市長になるのでありますが、兄弟力を合わせて商売に励んだのであります。

宣伝車第一号スチュードベーカー車


   しまやたびでは九州で初めて自動車を購入し、宣伝に使うと「馬のない馬車が来た」と言って黒山の人だかりがしたといいます。九州の運転免許第1号は、しまや足袋二代目の二代目石橋徳次郎さんだということであります。
   このように、しまや足袋を製造して全国に販路を伸ばし、つちや足袋を追いかけていったのでありますが、中でも一番のアイデアは均一価格足袋の売出しです。
   正二郎さんが大正の初め頃東京にいって市電にのったら、運賃が「5銭均一」でこれにヒントを得たのが「二十銭均一アサヒ足袋」の発想であります。
   正二郎さんは、これを実行するために次のような戦略を練り上げました。
  1. 足袋の文数ごとに違っていた価格を、全て均一価格に統一すること。
  2. 製造経費の合理化を更に進めて、2割安の一足20銭を小売価格とする。
  3. 従来の巾着印を、新しく波に朝日のマークで「アサヒ足袋」として広告宣伝をする。
   このときに「アサヒたび」という商標を世間にアピールし易い名前として選び、既に使用していた数社から買い取って用いたのであります。
   足袋は文数が多く、値段もまちまちだったのですが、足袋を店に卸す際に取引に手数が掛かって仕方がない。それで文数の大小種類の如何を問わず、一足20銭均一としました。大正3年のことであります。
   これを聞いた同業者は「値段が同じなら大きな文数ばかり売れて小さいのは売れ残り、大損するぞ」と笑いましたが、値段の設定も2割ほど安くしましたので、これが大当たりで注文が今の5倍にも増えたのであります。そこで新しい工場を建てて移転するというめでたいことになりました。
   それが今の久留米市洗町の工場であります。
   日産2,000足が4年間で10倍の日産2万足に増加して全国一のメーカーとなることができましたので、社名をしまや足袋店から資本金100万円の「日本足袋株式会社」に改めたのであります。大躍進であります。

巾着印の商標


巾着印を抽象化したマーク


朝日昇天の波にアサヒの商標へ切替

つちやたびの価格表

しまやたびの価格表(大正5年頃)








   大正時代の中頃、第一次世界大戦の景気により、わが国の経済は輸出が伸びて大いに発展し国民生活も向上したのでありますが、労働者の履物は昔ながらの草鞋が用いられていました。石橋正二郎さんは「こんな原始的で非効率な履物はどうしても改良しなければならない」とかねて思っていたのであります。
   そこで大正10年足袋にゴム底を張りつける研究に着手したのであります。アメリカ製のテニス靴から、ゴム底を張りつける方法にヒントを得て完成したものであります。翌年8月に試作品1,000足を三井三池炭鉱に提供して、使用実験をしてもらったところ、「底部がゴムだから、坑内の上り下りに足元が滑らず事故の防止に役立つし、丈夫で長持ちするので能率が上がる」と大変な評判になりました。
   日本足袋は実用新案(挟入貼付式)を出願して、大正12年1月「アサヒ特許地下足袋」の販売を開始しました。
    その年の9月に関東大震災があり(6万人死亡)軽くて丈夫な地下足袋の進化が、その復興作業で認められて、全国に売上げを伸ばすのであります。
   草鞋は農家では夜なべに自分で作っていましたが、買えば5銭します。一日に一足履き潰しますし、それに足袋も1ヶ月に一足は要ります。年間計算では、


草鞋     5銭×300足=15円
足袋     20銭×年10足=2円
地下足袋 1円50銭×年2足=3円
計:17円


   地下足袋は日本中の人気を呼び、売り出し初年度だけで150万足を売り上げました。翌年増産計画のところ工場が火災を引き起こしましたが、直ちに鉄筋コンクリートの4階建の敷地2万坪の工場を建て、フォードのベルトコンベァーシステムをいち早く導入して量産体制を作りました。昭和10年には、地下足袋2,000万足・ゴム靴2,000万足の生産に達したのであります。
   ところが同じ大正12年1月に、つちや足袋も又「つちやゴム底足袋」を発売したのであります。つちや足袋では大正9年にダンロップ神戸に人を出し研究に着手していたのであります。「地下足袋はうちはずーと前から研究ばしょった」しかしゴム加工する際にゴム底が固くなり、商品化が遅れたのであります。
   この事から両社は一時特許に関する係争関係が持ち上がるのでありますが、久留米商工会議所会頭中川喜次郎氏の仲裁により大正15年に白紙無条件で和解が成立しました。日本足袋会社では製造希望者には一足2銭で権利を開放したのであります。
   その後両社は運動靴や長靴も生産に着手し、つちやたびはゴム靴には新しく「月星マーク」を採用し、アサヒ靴と競いあいながら成長を続け、全国に販売網を確立して久留米に本格的なゴム工業の基盤が作られて行きました。

アサヒのホーロー看板




つちやゴム底たびのホーロー看板




アサヒ地下足袋の第1号製品




つちやゴム底たびの第1号製品


初期のアサヒ靴のポスター

ゴム靴輸出の統計「アッと思う間に世界一になる」

ゴム靴の宣伝チラシー
   








   ゴム工業を始めたうえは、自動車のタイヤへ関心が動いていくのであります。昭和5年日本足袋(株)社長石橋徳次郎さんは公的業務対応のため相談役となり石橋正二郎さんが社長となりました。
   石橋正二郎さんは、やがて来るモータリゼーションを予測して社内にタイヤ部門を作り研究を開始し、昭和6年3月にブリッヂストンタイヤ株式会社を資本金100万円で設立するのであります。
   ブリッヂストンという名前でありますが、「アサヒタイヤでは当時日本のものは劣る」という考え方がありましたし、将来は海外に輸出して外貨を稼ぎ、国家に貢献したいと考えて、バタ臭い名前にしようと思い、石橋をそのまま英語にしてストンブリッヂが浮かび上がったのでありますが、語呂が悪いので逆にして「ブリッヂストン」にしたわけであります。
   トレードマークは「要石」の形のなかにブリッヂストンの頭文字「BS」入れたものにしました。BSにはベストサービスの意味も入っているのです。製品の出荷が始まりましたが、たちまち破れやすいとの評判が立ちました。「破れたら取り替えます」という責任保障を宣言したので、工場はまたたくまに返品の山となったのであります。「石橋を引っ繰り返して名前を付けるからこういう事になるのではないか」と陰口をいわれたりしたのであります。
   創業の3年間に44万本のタイヤを出荷した中で、10万本が返品されてきたのでありますから大変な損失であります。タイヤ事業がうまく行かないので、兄の徳次郎は正二郎に「金ばかり使って本業が傾くぞ。タイヤは止めたがよかばい」と言ったのでありますが、「必ずものにするので、一年だけ様子を見てください」と頼み込んで国産タイヤの生みの苦労を続けるのであります。
   この日本の国産タイヤを押しつぶそうと、既存のイギリス系ダンロップ神戸工場やアメリカのグッドリッチ系横浜ゴムは、当時1本110円していたタイヤの値段を値下げして対抗したのであります。この為に40円まで価格が下がったそうであります。
   返品タイヤの使い道について、当時は鉄道の駅から馬車による運搬が殆どでしたが、この荷馬車の後輪に使うことを考えついて、馬車に多く荷物を積んでも軽く引けるようになり荷馬車にタイヤを使うことが全国的にここから始まったのであります。ブリッヂストンタイヤが馬車馬をも喜ばしたという、石橋正二郎さんの余徳溢れる話であります。
   その後研究改良を重ねていいものが出荷出来るようになり、需要もだんだん増えていきました。特に昭和12年の日華事変が始まると、軍は全面的に国産のタイヤを採用することになって、業績はますます拡大していったのであります。またブリヂストンタイヤではイギリスに社員を派遣して、ゴルフボールの研究もしました。

ブリヂストンの商標


新製品と記念撮影


初期のブリヂストンタイヤのポスター


馬車の後輪にタイヤを装着


ゴルフボール試作1号
   








  つちや足袋・月星靴の日華ゴム株式会社(現月星化成(株))、しまや足袋・アサヒ靴の日本ゴム株式会社(現(株)アサヒコーポレーション)、それにブリヂストンタイヤ株式会社(現(株)ブリヂストン)この久留米ゴム3社は、昭和10年から3社ともそれぞれに朝鮮・中国・台湾へと工場を進出させて、世界一のゴム靴輸出工業国に日本を押し上げたのであります。
   ブリヂストンタイヤは太平洋戦争中の昭和17年に、軍部から英語の社名は外国会社と誤解されるから変更せよ」との命令で「日本タイヤ」と社名を変更したのでありますが、戦後は昭和26年に社名を元の「ブリヂストンタイヤ」に戻すとともに、企業活動を見事に立て直しました。
   その理由は、
  1. 日本のタイヤ工場で唯一戦災を免れたこと、
  2. タイヤ製造設備を疎開させていたので生産再開がすぐにできたこと、
  3. 天然ゴムやコード等の原料在庫の手当てをしていたこと等であります。
   太平洋戦争中に他のタイヤ会社は横浜ゴム(グッドリッチ合併)・日本ダンロップ(中央ゴム)・東洋ゴムなどいずれも主力工場などを空襲で破壊されて、戦後復興が遅れたのであります。勿論これには経営者の見通しが的確であったことが第一に上げられます。
   占領軍によって財閥解体が行われ、さらに地方財閥にみても、昭和22年過度経済力集中排除法が実施され、この適用を避けるため、日本ゴムと日本タイヤ両方の社長をしていた正二郎さんはタイヤだけの社長となり、株式を徳次郎さんと等価交換してこの親子会社は完全分離しました。
   昭和26年には従来の木綿糸タイヤに代わって日本初のレーヨンタイヤを発売するとともに、グッドイヤーと技術提携して、昭和30年代前半には、業界のトップに立ちました。グッドイヤーとの提携については、太平洋戦争の初期に日本軍がアメリカを追い払ってシンガポールやマレーシヤを占領したときに、そこにあったグッドイヤーのタイヤ工場を任され、戦い破れて工場を返還したとき「来たときよりも美しく」と言う言葉がありますが、立派に整備して返したと言う因縁に基づくものでありました。
   技術提携については戦時中の技術の遅れを早く取り戻す為でしたが、グッドイヤー側は25%の出資をブリヂストンタイヤに要求したのであります。石橋正二郎さんは愛国心が国産タイヤ製造に踏み切った人ですから、この要求を断りました。しかし、石橋さんの人柄に惚れたグッドイヤーの会長が折れて提携契約に漕ぎ着けることができたのであります。
   さらに昭和36年にはフランスのデュボン社と提携して、ナイロンタイヤを発売してタイヤの耐用年数を伸ばして世界的なタイヤメーカーとしての地位を確立し、石橋正二郎社長は株式上場で長者番付日本一に輝いたのであります。
   昭和43年には、困難だったスチールラジアルタイヤの開発に成功して、ブリヂストンの技術的評価を世界に高めたのでした。そしてアメリカのデミング博士が提唱した、卓越した品質管理を社内を挙げて実施し、優れた業績を上げている企業に贈られる「デミング賞」を受賞いたしました。提案制度による提案は、年間5万件にも達し社内の意気は最高に上がったのであります。

レーヨンタイヤ



ナイロンタイヤ




月星地下タビのポスター








   ラジアルタイヤというのは、フランスのミシュラン社がスチールコードを使った特許の申請を1946年に行い、これでヨーロッパ市場占有率ナンバーワンになったのですが、ブリヂストンも採用しこれに続いて世界各地に伸びていったのであります。ところがアメリカでは、スチールラジアルタイヤ乗り心地が悪くスチールとゴムの接着性が良く無いので、客に歓迎されず一般化しないというマーケティング調査が方向を出していたのであります。しかもバイアスタイヤの生産設備に巨額の投資をしていたので新製品への転換が遅れました。
   このような背景の中で、ブリヂストンは昭和63年にはアメリカ第2位のタイヤメーカーの「ファイアストン・タイヤ・アンド・ラバー・カンパニー」を26億ドルで買収して名実ともに世界的なタイヤ会社として輝かしい発展を遂げました。思えば、50年前にファイアストンから「ブリヂストンは俺のところのストンと同じだから、商標権の侵害である」訴訟を起こされたことがありましたが、その会社がブリヂストンに買い取られるとは、当時に誰が想像をしたことがあったでしょうか。
   買収金額として26億ドル、さらに再建資金として14億ドル併せて日本円では4,500億円を注ぎ込みました。無借金経営のブリヂストンがこの時利子の付く金を3,000億円導入したのですが、今の決算ではほとんど返済を済ませています。ファイアストン買収後はゼネラルモーターが納品をストップしたり、労働争議がこじれてクリントン大統領までがBFS(ブリヂストン・ファイアストン)への非難声明を出すなど労使紛争は政治問題のまで発展しました。
   当初BFSは赤字の連続で「史上最大の買収失敗例」とまでマスコミから書かれましたが、しかしここで生産性の阻害要因を排除しなければ、世界での競争に打ち勝つことは出来ない。ついに2年半のおよぶ争議は解決されて、BFS経営は軌道に乗ったわけであります。
   現在ブリヂストングループとしては、世界23カ国、45工場でタイヤチユーブの生産をしています。その基本理念は石橋正二郎さんが掲げた「最高の品質で社会に貢献」であります。いまブリヂストンは売上高7650億円、経常利益は3期連続で最高利益を更新して1,000億円を計上し連結決算では、売上2兆3,000億円、経常利益は1670億円と言われているのであります。
   現在の世界の三大タイヤメーカーシェアは、第一第二にフランスのミシュラン、日本のブリヂストンで19%台、第3位にアメリカのグッドイヤー18%台と言われています。(業界推定)ブリヂストンは合併前は10%でフアィアストン加えることで17%となり、鼎立状態にありましたが、ここに来てファイアストン買収後のストも終結し業績に貢献したことから、頭一つ抜き出てシェア20%を目指した「世界一のタイヤメーカー」へ前進しています。ブリヂストンの発展は久留米の誇りでもあります。
   1998年にはF1グランプリに参入し、クッドイヤーを抑えてブリヂストンが優勝したのであります。

ファイアストンのポスター




商用タイヤ会社の生産高(2000年)





ブリヂストンの売り上げ高構成(2003年)


   








   アサヒコーポレーションは、平成10年3月31日の手形が落とせず突然に不渡りをだしてしまつたのであります。学童用のゴム靴では常にトップのシェアを誇り、700億円から800億円を売り上げていたわけでありますが、このような歴史の基盤の大きな企業が、世間に何の前触れもなく不渡りを出して債権者を慌てさせるというのは、興信所が言うように「前代未聞の破綻劇」なのでしょう。
   構造的な要因としては、
  1. 安い輸入品の急増
  2. 学童人口の減少
  3. 不況による消費不振
   があげられますが、ゴム靴は労働集約型産業の典型的なものであるため、東南アジア、特に中国からの輸入が増加し、平成9年では国産品6660万足に対し、輸入品7690万足と逆転してしまいました。学童の数も昭和55年には1182万人いたのが、平成8年には810万人に減少し、実に16年間で31.5%も減少したのです。
 
   しかし、アサヒの破綻は構造的な要因だけではないというのが、新聞や雑誌の見方です。三代目石橋徳次郎氏は昭和36年26歳で社長になり、36年有余の長きにわたって社長の座にあって経営をされたのです。
   このような大きな企業の場合、資金調達が難しくなると融資銀行に集まって貰い、会社が状況を説明し見通しが付けば、銀行が協調融資団を結成して対応する例が多いのであります。関連下請けや納品業者は久留米市内に120社、県内に220社、全国に300社、負債総額1300億円という社会的責任はとても重いものがあります。
   地元の協力もあって会社更生法申請手続きが開始され、再建に向かって成果が上がることを願っております。
   同じ構造的な要因がある月星化成の場合はどうでありましょうか。三代目倉田雲平氏が
   倉田泰蔵氏の後を受けて、昭和39年に社長就任しています。しかし昭和50年石油ショック後の採算不振で合理化を図ることになりまして、
  1. 三潴工場の閉鎖(組合の反対で撤回)
  2. 希望退職者募集1500名に対し1776名応募
  3. 転換社債の銀行引き受けを実施しました。
   また更に、昭和53年には、三潴工場・氏家工場の閉鎖、、希望退職者募集1,000名に対し1,171名応募、賃金8%ダウンと労働時間の延長を実施しました。
   三代目雲平社長はじめ総退陣がおこなわれ、役員社宅等も処分されて経営の合理化・リストラが粛々と実行されたのであります。
   取引先に迷惑が掛かることが少なくして企業再建がなされ、銀行支援の許に配当も復活しているのであります。平成16年には、銀行から出ていた社長も、社員から選出されて正常化されました。

アサヒCoのマーク


月星のマーク


ブリヂストンのマーク




時代とともに業態変遷



学童ゴム靴



筑後地区や佐賀県東部から、
多いときは2万人が通勤しました。(昭和38年)








   石橋正二郎さんは、昭和35年に社長を長男の石橋幹一郎氏に譲り、会長に就任するのでありますが、昭和42年には会長も辞めて、幹一郎氏も社長を他に求めて同族による経営から脱皮することを決心します。財界からはその余りのいさぎよさと先駆的な経営の近代化に、驚きの声を挙げたのであります。
   三代目徳次郎と同世代の幹一郎氏ですが、「企業は公器なり」の理念を掲げ、社長在籍十年間、ブリヂストンをグローバル企業に押し上げ、経営と資本の分離を進めたのであります。お見事としか言うしかありません。
   その後のブリヂストン前社長海崎洋一郎氏は、ファイアストン買収後のBFS(ブリヂストン・ファイアストン社)社長をされて苦心して収益企業に改革した人であります。幹一郎氏が後継社長に指名したのですが、海崎社長は次のように言っています。
   「今後、石橋家から取締役は出さない。取締役になるとそのうちに専務・副社長となっていく。世界的な企業だからもう世襲経営の規模ではない。しかし石橋家は大株主だから監査役として経営をチェックしてもらう」(日本経済新聞の記事)経営の民主化が社内に根付いています。
   数年前亡くなられた石橋幹一郎氏の遺産相続は1,600億円で1,000億の相続税が課せられました。遺族から久留米市へ5億円が寄贈されました。石橋家からの数々の地域支援を思う時誠にありがたいことであります。
   足袋作りから地下足袋開発、ゴム靴生産そして世界のタイやメーカーへと進んだ久留米商人の素晴らしい物語を述べてきましたが、その主役を果たした石橋正二郎さんの気持ちを伝えたいと思います。石橋さんは自分に何か取り柄があるとすれば、それは「時間・信用・独創」を大切にしたことであると、三点を挙げているのであります。
  1. 時間については、17歳で足袋の専業化を実施し、25歳で均一足袋の販売に大成功を収めて以来、新しいアイデアで新商品の開発を続けて来たのですから、計画・実行・成果の検討に時間が足りない思いが常にあり、タイムイズマネーで時間を有効に使うことを心掛けていたのであります。
  2. 信用については、事業をするには資金が必要ですが、その裏付けは信用であります。返済計画通りに銀行に資金を返すことには大変こだわりました。銀行に限らず自分の信用を大切にした人であります。
  3. 独創こそは、商業での成功の本であります。考えては実行しさらに細かく考えて業務を進めていますが、性格的にそれが得意で、いつもひとの先を考えて進んでいます。
   久留米はゴムの木が栽培されているのでもなく、またゴムを輸入する港が在るわけでもないのに、 「なぜ久留米にゴム工業があるのですか」と聞かれることがありますが、先人が作った足袋からゴムへの道を辿るとき、真心こそが商人の道であると感じるのでございます。
    石橋正二郎さんは、若いとき正月には大宰府天満宮に初詣に行くのでありますが、菅原道真の次の和歌を心に抱いていたのであります。
   「心だにまことの道に叶いなば、祈らずとても神や守らん」誠実の道を進めば、形式にこだわらなくても神の守りがある筈だ!数ある歌の中からこの歌を選んだことに、正二郎さんの合理主義の原点「最高の品質で社会に貢献」を読み取ることができます
    「良い品物を作れば誠は天に通じる」これが久留米商人の原点で、消費者ニーズを汲み取り、創意と工夫によって良い品物を世の中に提供していったのであります。
    足袋も靴も久留米絣も、創意と真心で久留米商人が全国を制覇して行ったのであります。
   足袋の行商から始まって世界のタイヤメーカーとして、輝く成長発展を遂げた久留米商人の話を次の世代に語り継ぐことは大切なことと思います。
   最後にチャールズ・ダーウィンの言葉をもって「久留米商人の栄光の歴史、久留米になぜゴム産業が発展したのか」を終わりとさせていただきます。




ブリヂストンのIC刷新




創業者石橋正二郎氏の大切な考え





ダーウィンの言葉にピッタリ


(参考資料)久留米ゴム3社の社名変遷



<参考文献>
・月星ゴム90年史
・ 私の歩み(石橋正二郎)
・石橋正二郎 ブリヂストンタイヤ刊
・理想と独創(石橋正二郎)
・ 我が人生の回想(石橋正二郎)
・回想記(石丸忠勇)
・日経私の履歴書(石橋正二郎)
・日本ゴム40年のあゆみ
・ブリヂストンタイヤ50年史
・月星化成社史
・創業者石橋正二郎
・久留米市史 他


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