宵月夜



夕刻に昇った月は、巽の方角に朧気に光を放っている。
宵闇に、淡い灯火が天に掲げられている。

宵月夜には、時折月を愛でたくなる。



一人、静かに月を眺めていると、ふっと日々の些末事が胸を過ぎる。

何故、あんなことを言ってしまったのだろう。

『何故、天はわたくしにこのような運命を与えたもうたのでしょう』

言うつもりはなかった。あんな弱音。
神子様にお仕えし、龍の宝玉を護る星の一族の末裔としてあるまじき失態。
同じく神子様にお仕えしてる八葉の前でとはいえ…。


「何故──言ってしまったのでしょう…」

わたくしの声は、宵闇に溶けて、誰に届くこともなく消えていく。



部屋には、微かに侍従の香の残り香。
夕刻まで取り留めもなく言葉を交わした人の言葉を不意に思い出す。

『私たちには、あなたが必要だ。あなたがいるから、惑わずにいられる』

違う。わたくしはそんな立派な人間ではない。
この身に流れる星の一族の血も、永い年月の間に力は失われ、
わたくしに残る力はわずかに占術を行える程度のもの。
占術ならば他にも適任者はいる。

御仏に仕え、僧籍に身を置かれる永泉様や、
稀代の陰陽師であられる安倍晴明様の弟子である泰明殿。
八葉の役目に連なるものに限らなければ、
力在る占術師などは大内裏にも多く詰めているだろう。

わたくしでなければならぬ理由など…ないのだ。
わたくしが「星の一族」であるという、
その一点のみで任されているにすぎないのに。


ああ、こうして考えていても詮無いこと。
わたくしは、今のこのつとめを嫌ってるわけではないのだ。
むしろ、あの神子様にお仕えできることを至福の喜びと感じている。

ただ…自分の力不足が悔しくて。


だからこそ、あんな弱音を友雅殿に吐露してしまった己がとても恥ずかしい。
どうして?言うつもりもなかったことなのに、どうしてあの方には言ってしまったの?

──どうして、あの方には、弱音が言えたの?




「藤姫、藤姫、いる?」

わたくしを呼ぶ声に続いて、こちらへ歩いてくる、軽やかな足音。
物思いに耽っていたわたくしは、慌てて神子様をお迎えする。

「神子様、ご用があるなら女房にお申し付けくだされば、
わたくしの方から出向きましたのに」

「だって、そんな風に呼びつけるのって、どうしても慣れないんだもん。
…あ、ひょっとして、急に来ちゃって迷惑だったかな…」

「いえ、とんでもございません。
わたくし、神子様においでいただけて、嬉しいですわ」

神子様はわたくしの隣に腰を下ろす。


「ねぇ…藤姫。藤姫は、好きな人…いる?」

突然のその質問に、わたくしは一瞬言葉を返すことができなかった。


「わたくしの…想い人?そんな方は…」

いない、と続けようとして、言葉が途切れた。
脳裏に、ふっとある人の面影がよぎったから。

庭を風が吹き抜け、花の香が仄かに香った。
花橘の花が、宵の庭を彩っている。
わたくしは頭を降って、その人物のことを意識から追い払う。

「どう…なされたんですの?そのようなことをお聞きになるなんて」

問いかけに、問いかけで返す。

神子様は、頬を赤らめて、膝を抱えた格好で俯かれた。
言い難そうにされていたが、意を決したように顔を上げると、
ぽつりぽつりと、話され始めた。

「ん…あの…ね。ある人から…好き…って、言われたんだ」

神子様の頬が、薄く紅をさしたように淡く染まる。

「いつもそばにいたから、そんなこと、考えたことなくて…。
その人のこと大切だけど、凄く大切だけど、「好き」なのかわからないの…」


『いつもそばにいて』
『大切だけど』
『好きなのかわからない』

ぼんやりと、神子様の想いが、わたくしにもわかるような気がした。
…わたくしも、そんな想いで、あの方を見ているのかも知れない。


「神子様、急いで答えを出さなくてもよろしいのでは?
今はその方をお慕いしてるかおわかりにならなくても、
刻をおけば自ずと答えは見えてくるものですわ。
そのときに、その方にお応えなさいませ」


わたくしは、半分自分自身に向かってこの言葉を口にした。
そう、急くことはない。急いても答えは余計に見つからぬもの。

「想いは、ゆっくりと育つものですわ。
今はその方を「大切に想っている」…と、そのお心を大事になさいませ。
神子様のお心を、神子様ご自身が欺かないかぎり、
必ず、答えを見つけられるはずですわ」

「藤姫…」

「きっと、天真殿はそれまで待ってくださいますわ」

にっこりと、付け加えた。

「そうだね、ありがとう藤姫…。…って、あれ?
私、相手が天真君だって、言ったっけ?」

「いいえ?」


神子殿は、みるみる真っ赤にお顔を染め上げられた。

「ふ、藤姫ったら…!」

くすくすと笑みを零してしまったわたくしに、
神子様も笑いながら、じゃれつくように軽くわたくしを抱きしめられた。



「藤姫…、私、藤姫がいてくれてよかった」

「神子様?」

「八葉のみんなも、お屋敷のみんなも、いい人たちばっかりだけど、
こういう相談なんて、できないもん。
心を開いて話せる女の子って、今の私には藤姫だけだよ。
私、藤姫がいなかったら、今頃ダメになってたと思う。
だから…ほんとうにありがとう」


そのときのわたくしは、いったいどんな表情をしていただろう。
わたくしの心に立ちこめていた暗雲が、さぁっと晴れ渡ったような、
暗闇に突然目映い月光が射し込んだような…。


『私たちには貴女が必要だし、神子殿にしてもまた然りだ』

友雅殿の言葉が、思い出される。

わたくしは、神子様に必要とされていた。
嬉しい。ただ、嬉しかった。
ぽろぽろと、涙が零れだした。

「藤姫?藤姫、どうしたの?何故泣いてるの?
私、変なこと言っちゃった?」

神子様の声が優しく耳に響く。
わたくしは頭を振って神子様に縋り付いた。

「いいえ、いいえ!わたくし、嬉しいんです!
神子様にお仕えできて、幸せですわ…!」



『私たちには、貴女が必要だ──』

嗚呼、貴方もそう思っていてくださいますでしょうか。


わたくしの問いに答えるものはない。

ただ、月明かりに照らされた花橘が、
さわさわと音をたてて葉を揺らした。

橘藤創作、第二弾。…っていうか、前回の話の続編ですね。藤姫サイドのお話です。
LaLaにこの二人のお話が載っていたのに感化されて、続編をUPすることにしました。
なにやら月夜が続いております。いっそ「月夜見」シリーズと銘打ってしまうかな?(笑)
でも何だか藤姫があまり上手く描写出来ませんでした。恋に悩むか使命に悩むか、
どっちかにせーよ、と書いてて突っ込んだ。

もう少し、友雅の台詞を効果的に活かしてやりたかったです。

まだこの続編は書く予定です。このままですと尻切れトンボですしね。
しかし、前回で挑発された天真は、その日のお出かけのどっかで告白しちゃったんですね(笑)。