忘れ得ぬ季節



鮮明に、記憶に残る風景がある。


そのときにはなんとも思わなかったことが、
三十余年の年月を経てもなお、忘れがたい情景がある。




ソロイがふと顔を上げると、部屋の片隅の花瓶に活けられた紅い花に視線がとまる。

神殿きっての堅物の部屋に花、という取り合わせに、
違和感を覚える者もいないではないが、当の本人は楽しげに花を見る。

――花との組み合わせより、そのソロイの様子に凍り付く者も多いがそれは余談である。




コンコン、とノックの音が響き、返事も待たずに扉が開かれる。

「邪魔するぞ、ソロイ殿」

「――葵殿」


かつて主君であったプルートや、騎士院一の態度のでかさを誇るアークですら、
彼の執務室を訪れるのは少なからず緊張をともなうものなのだが、
アロランディアで、唯一無遠慮にそれを成し遂げてしまうのが、
たったいま、執務室を訪れた彼女だった。

「御用がおありなら私の方から出向きます、と常日頃申しておりますが」

「ああ、構わぬ構わぬ。もののついでじゃ、気にするな」

葵は、議長としてアロランディアを導く立場となった今も、
かつてと変わらぬ気安さで、友人知人を訪ねる。
居丈高にならず、自分には厳しく、他人には優しいその人となりが、
彼女を知るものに好感を抱かせる。

もっとも、それはときに男をやきもきさせる一因ともなるが。



「――それで、わざわざ私のところへいらしたのは、いったいどういうご用件で?」

葵もソロイも、公私の別をきっちりとつける性質をしている。
日の高いうちに訪れた用件が仕事の話以外であったことは、滅多にない。
それゆえに、ソロイの返答も堅苦しく構えたものになるのは致し方ないところだ。

「……うむ、実は相談というか……聞きたい事があってな」

葵にしては珍しく歯切れの悪い物言いに、ソロイが軽く眉を顰めると、
その対応に気を悪くした様子もなく、葵は手にした書類をソロイに向けた。

「公式に私をアロランディアの民として登録せねばならない、とプルートに打診を受けての」

「……ああ、そうでしたね」

手のひらに星があったからこそ星の娘候補として騎士院に保護されはしたものの、
そうでなければ本来の葵はこの国では、不法入国者扱いになってもよかったものだ。
騎士院預かりとして特別措置の形で生活を保証されていたが、
彼女の最終的な身の振り方は、選定結果次第、というあやふやなものだった。

紆余曲折のはてに、この国を統べる立場となってしまったが、
そうなるとなおさら身元不明にしておくわけにもいかない。
それならば正式にアロランディアの民としての戸籍を設けようという話は、確かに交わされていた。

「それが、何か問題でも?」

「問題というか……生年月日とやらが……」

「………ああ、なるほど……」

葵のいた世界では、個人の誕生日という概念はない。
年が明けると一律に年齢を一歳加える。
アロランディアとは習慣が違うために、自分の誕生日を知らなくても無理はない。


「それで、おぬしなら……と思うてな」

ソロイに――かつての彼女の式に――訊きに来たのだ、と言った。
ソロイは葵が手にしている書類を受けとると、ざっと目を走らせる。

「――こことあちらでは暦自体が違いますから、正確な月日は分かりませんが、
ある程度の差違はあってもおおよその時期は割り出せます。
それでよろしければ、後は私が手配致しましょう」

「うむ、それで構わぬ。宜しく頼む、ソロイ殿。
では私は執務に戻るとしよう」




葵が退出した後に、ソロイは再び部屋の片隅に視線を投げる。
片隅に置かれた花瓶には、相変わらず紅い花が存在感を放ってそこにある。




――鮮明に、記憶に残る風景がある。

そのときにはなんとも思わなかったことが、
三十余年の年月を経てもなお、忘れがたい情景がある。


瞳を閉じると、今も思い出せる。


――紅丸、お前がこの子に名を付けよ。


女性の腕の中、すやすやと眠る嬰児。


――おそらく、私の跡目はこの子が継ぐこととなろう。


並み居る姉や兄を差し置いて、母親にそう言わしめた、強い力を持った赤子。


――きっと、お前が護る事になる。……だから、お前が名付けよ。紅丸。


日野平の屋敷にある、ひときわ高い木の枝に腰を下ろした紅い式に、
赤子を抱いてそう言ったのは、先代の巫女。

そのときにはばかばかしいと思ったが、
ふいに女の腕の赤子が顔を上げ、紅丸と視線があった。
数瞬の沈黙のあと、母の腕の中でにぱぁっと紅い式に笑いかけたその赤子。
邪気なく妖に向けたその笑顔に、たまには酔狂をしてもよいか、と気まぐれを起こす。


紅丸は木の上で視線を巡らせると、雨露に濡れて輝いた花に目を留める。
咲き終わるころには梅雨が明けると言われる、紅い花。


『――葵――は、どうじゃ』



女は、嬉しそうに笑う。

――良い名よの。よし、今日からこの子は葵じゃ。





……懐かしい、記憶。

ソロイは閉じていた瞳を開くと執務机の羽根ペンを手に取る。

ちらり、と部屋の片隅の花瓶の視線をやると、
葵から受けとった書類に、さらさら、と日付を書き込んだ。





後日、正式に整えられた書類を受けとった葵は、
ソロイが記した日付を見て、くすりと笑みを零した。
年こそ17年前だが、月日には覚えがあった。


「……私があの花をあやつの部屋に持っていった日ではないか」




ソロイの執務室の片隅で、送り主と同じ名を持つ紅い花は、
初夏の日差しの中、今も穏やかに花をつけている――

100のお題、�bT8、「シーズン」でした。
実はこれは葵さんアンソロ企画で書いた「花葵」という話の続編です。
一応これ単品でも読めるようになっていますが、「花葵」も読んで頂けると、3割増しくらいで楽しめるかも。
……ていうかこれ単品だと甘さが殆どないんだけどね(笑)

紅丸が葵の名付け親だったりして、というお話です。……あり得ない話じゃないよな。と。
まぁ名前はともかく、葵が生まれたのって、やっぱり初夏だと思うんですよ。葵…一般にはタチアオイと呼ばれるあの花は、梅雨葵という別名も持ってるんで。
花の名前を持っている人って、高確率で、その花が咲いてるときに生まれてるでしょ?