VOW〜誓約〜


星の光とあざやかな月明かり、
そして静寂だけが世界を支配しているような静かな夜。

窓を開け、桟に腰掛けて、セイランはただ、瑠璃色に染まる空を見ていた。
いつもならこんな夜は詩の一つや二つ思いつくのだが、
今セイランの心を占めるのは一人の少女のことだけ。
琥珀色の髪を靡かせて、セイランに向けていた、少女の笑顔だけ。

想いを伝え合ったわけではなかった。
だが、好意以上の感情を持っていることをお互いが感じ取っていた。
だが、それが今こんなに自分を苦しめる結果になるとは思ってもいなかった。

「アンジェリーク…」

セイランは応えのあるはずのない何度目かの呼びかけを、
夜の澄んだ大気に囁きかける。
そこに少女の姿を見いだそうとするかのように。



「セイラン様…私、あの人と生きていくことに決めました」
「…レイチェル…?」
いつものように学習に来ていた蜂蜜色の肌の少女が、
セイランにむかってそんなことを言い出したのはたったの2日前のこと。

もう一人の女王候補。アンジェリークの、大切な親友。
そのレイチェルが候補を降りるという。
それが何を意味するか。
…アンジェリークの女王就任だ。
すなわち、アンジェリークがセイランの手の届かぬところに行くということ。


レイチェルは、形は学習や育成の依頼をとりながら、
一人一人守護聖や教官にそのことを報告に行くつもりらしい。
完全に女王候補としての立場を捨てて、一人の女性として生きることを決めたと。
それだけの覚悟があることを、人伝ではなく、己自身の意志と言葉で伝えてまわると。

ものの数日もしない内に、聖地中にレイチェルの候補辞退が知れ渡るだろう。
そうなれば、アンジェリークの女王就任は確実なものとなる。

『僕に何が言えただろう。
君に想いを伝えなかったことを、
あの時ほど後悔したことはなかった』

そして、セイランは今日、王立研究院に向かうアンジェリークの姿を見かけた。
アンジェリークはアルフォンシアに会いに行ったらしく、
セイランが研究院にたどり着いたときには新宇宙に視察に行ってしまっていた。

次元の扉からアンジェリークの声が漏れる。
アルフォンシアに話しかけるアンジェリークの声にセイランは釘付けになった。

『…アルフォンシア、…ルーティスがいなくなるのが淋しい?
…大丈夫。私はあなたを独りにしたりしないから…』

セイランはその場で踵を返して研究院から逃げるように立ち去った。


「聴かなければよかった…っ!」
セイランは拳で窓の桟を叩きつけた。
拳は震えている。口唇をきつく噛んで、
暴れだしたい衝動を必死に堪えている。


アンジェリークは優しい少女だ。優しすぎる少女だ。
レイチェルが女性としての幸せを追うことを
誰よりも祝福したのはアンジェリークだろう。
そして、自分が一番慈しんだアルフォンシアが
孤独に哭くのを見過ごすことも、できるわけがない。

わかっていた。わかりきっていたこと。
己の幸せよりも、他人の幸せを何よりも大切にしてしまう少女なのだ。
わかって…いたはずなのに。

「アンジェリーク…アンジェリーク…っ!」

セイランは応えの返らぬ呼びかけをなおも続ける。
叫ぶのをやめたら、自分の存在が足下から崩れていきそうな錯覚に襲われる。
出口の見えない迷路から抜けだしたくて、セイランはアルコールに手を出した。
だが、今はそれすらも意識を手放すのに役立ちはしなかった。


セイランはふらりと夜の聖地を歩き出した。
何処に行くというあてがあるわけでもなかった。
ただじっとしていられずに部屋を飛び出してきた。
今はアンジェリークに逢うのが怖かった。
逢ってしまえば自分は何を言うか、何をするかわからない。
そう思っているのに、セイランは庭園に人影を見つけてしまった。
見紛うはずのない、琥珀色の髪を風に靡かせた、彼のたった一人の想い人を。

アンジェリークは噴水に片手を浸して、
ぼんやりと水飛沫と瑠璃色の夜空を見上げている。
口は微かに動きを見せる。
唄を歌っているようだったが、セイランの耳には届かなかった。

月明かりに浮かぶその姿はあまりに幻想的で、
セイランはただ呆然と立ちつくすだけだった。
そして、引き寄せられるように噴水の側へ歩き出す。
『あるいは、立ち去った方がいいのかもしれない』
理性はそう忠告するのに、足は歩みをやめようとしない。

アンジェリークはセイランが傍に来ても気付かずに、歌い続けていた。

「……可愛い子供たち、さあ、お眠りなさいな、
狂おしい月が目覚める前に…。
月が中天に昇ったら、白い光が降りるのよ…。
白い光は月の霊、月の悲しみ癒すため、
おまえの心を狩りにくるよ…。
白い光は月の精、空しく鋭いまなざしで、
おまえの心を狩りにくるよ…」

それはセイランも知っている唄。
ある地方の子守唄だった。
静かな旋律と、悲しげな詩が、心に漣をたてる。
白い光、それはアンジェリーク自身だろうか。
月の悲しみは月霊が癒すというなら、
狩られた者の悲しみは誰が癒す…?

セイランはアンジェリークにあわせて唄の続きを旋律にのせた。

『…それでも月は、悲しみのため、幾度も満ち欠けを繰り返し、
月霊は人々の魂を天へ召す……』

己の声に重なった別の声に反応し、
アンジェリークはやっとセイランの存在に気がついた。
振り向いたアンジェリークはセイランを見つめる。
だが、視線をしばらく合わせた後、再び視線を逸らし、夜空を眺め続けた。

その眼差しに漂うのは、先程の歌よりも深い、悲しみの色。

セイランはアンジェリークを見つめ続けたまま、その傍を離れない。
お互いに何も言わず、夜の静寂のなかでただ時が流れる。

長い沈黙を破ったのはアンジェリークの方だった。

「レイチェルのこと…お聞きになったでしょう…?」
セイランは口には出さず、ただ頷いた。
アンジェリークは視線はあわせなかったが、
セイランの動きはわかったらしい。

「…君は…女王になるつもりかい?」
答えはわかっているのに、何を訊いているのかとセイランは後悔した。


「…アルフォンシアは…私の子供のような、分身のような存在なんです。
ルーティスがいなくなったら、もう、あの子には私しか傍にいてあげられない…。
アルフォンシアが望むから…私はあの子の傍にいてあげたい…」

セイランは衝動的にアンジェリークを後ろからきつく抱きすくめる。
アンジェリークが苦しげな声をだすが、それでも腕の力は緩めない。
「そう言うって…、わかってたけど…っ!」
セイランはそれ以上言葉を続けることができずに、ただ抱きしめ続けていた。

「…ごめんなさい…セイラン様…ごめんなさい…」
謝罪の言葉なんて聴きたくなかった。

セイランは自分の中で何かが切れたような気がした。
理性の最後の堰が崩れ去った。
「え…ちょ、ちょっとセイラン様…や、やだっ!…んっ」
セイランはアンジェリークを無理矢理その場に組み敷くと、
アンジェリークの唇を奪った。
突然の乱暴なキスにアンジェリークは抵抗したが、
口の中に広がった味に、抵抗以外の反応をした。
「…セイラン様、お酒飲んでらっしゃるんですか…!」
「ああ、飲んでるよ。眠りにも誘ってくれない役立たずだけど、
理性の壁を破るのには役立ったみたいだね」

セイランはアンジェリークの瞳を見つめられない。
いつもはその自分を見据えるまっすぐな眼差しを心地よく思っていたのに、
なぜか今はその眼差しに耐え切れず、
セイランは再びアンジェリークの唇を塞ぐ。
深く、長く、甘く、優しく…悲しく。

今度は、アンジェリークはされるがままに口づけを受け止めていた。
セイランは唇を離すと訝しげにアンジェリークに問いかける。
「…どうして抵抗しないのさ。
拒まないなら、本気で僕のものにするよ」

アンジェリークはセイランを見つめ続ける。
深い、あまりにも深い哀しみをこめて。
「…それで、セイラン様の気が済むのでしたら…」

それは、拒絶の言葉。
自分と共に生きる事への。


アンジェリークの頬に一滴の雫が落ちる。
少女の流したものではない。
アンジェリークは驚きに目を瞠った。

目の前の青年が小さな嗚咽とともに涙を流している。

「…僕を…独りにしないでよ…アンジェリーク…」


セイランは流れる涙を隠そうともせず、ただアンジェリークを見つめる。


求める言葉はただ一つなのに。
求める人はただ一人なのに。

なぜそれすらも自分には許されないのか。


セイランの手がアンジェリークに触れようと伸ばされたが、
触れるか触れないかまで近づくと、びくっと躊躇するように止まった。
そのまま拳を握り締めると、唇を噛んで、
セイランは急に身体を起こしアンジェリークから離れた。

「…好きだよ。アンジェリーク。…愛してる」
遅すぎる告白だった。

「もっと早く伝えられていれば…僕らは…」
そこから先は言葉にできなかった。
肩を震わせて、爪が食い込むほど拳を握り締めていた。
涙を堪えようとするが、己の意志とは裏腹に止めど無く溢れ出る。
セイランはアンジェリークに背を向けると、
アンジェリークをその場に一人残し、庭園から立ち去った。


アンジェリークはセイランの後ろ姿が見えなくなるまで
ずっとセイランを見つめていた。

愛しているのに。
愛されているのに。
応えられない。
いいえ、悲しくなんかない。
いいえ、泣きたくなんかない。
これは自分で決めたこと。
いいえ、いいえ、いいえ。
でも、どうして涙が溢れるの。

アンジェリークはその場で泣き崩れた。


セイランはレイチェルの候補辞退の噂が広まるのを、
感情のない目で傍観していた。

最早自分を待つのは、試験の終わりのみ。

そんなことを考えていたセイランの執務室にレイチェルが訪ねてきた。
「セイラン様っ、お話があります!お時間いいですか!」
そうは言ったものの、レイチェルは
セイランの返事を待たず、突然腕を振り上げた。
執務室に高い音が響いた。


アンジェリークはセイランに逢うのが怖くて、ほとんど出歩かなくなっていた。
そんなアンジェリークの部屋に突然ノックの音が響いた。
一瞬無視しようかと思ったが、2度3度と続くので、
しかたなくアンジェリークは部屋のドアを開けた。
そして目の前に立つ人物を認識すると、その場で硬直した。

「セ…セイラン様…」

「行くよ、アンジェリーク」
セイランはそれだけ言うと、アンジェリークの腕を掴んで部屋から連れ出した。

無理矢理引っぱり出されたアンジェリークは、
混乱しながらも、やっとのことで言葉を紡ぎ出す。
「ちょ、ちょっと…!セイラン様っ!い…行くって…いったい何処へ…」
セイランは突然歩みを止めた。
アンジェリークはセイランの背中に顔をぶつけることになった。
「決まってる。女王陛下のところ」
セイランは事も無げにそう言った。

「…え。…え?…ええええぇっ!!」
予想もしていなかったその台詞にアンジェリークはさらに混乱した。
「ない前例は、作ればいいんだ」
それだけ言うと、再びセイランはアンジェリークの腕を掴んだまま歩き出した。

されるがままに連れて行かれるアンジェリークには、
いったい何が起ころうとしているのか、考える余裕もなかった。


「この宇宙で培った名声も地位も捨てると?
…セイラン、貴方はそれでいいのね…?後悔はしない?」
「もちろん。彼女がいない世界じゃ僕は死んだも同じですから。
だけどアンジェリークは女王になると決めている。
なら、僕がとるべき路はひとつ。
何処にも後悔の入る余地はありませんよ」

「…そう。わかりました。それではセイラン。
貴方に新宇宙の女王アンジェリークの補佐役として、
新宇宙の発展にその生涯を捧げることを命じます」
「慎んで拝命いたします。女王陛下」


「ちょっと!セイラン様!いきなりなんてこと言い出されるんですか!」
アンジェリークがやっと事態を把握したのは、
謁見の間から退室した後のこと。

「聞いたとおり、そのままさ。僕は君と一緒に新宇宙へ行く。
君と共にいるにはそれしかないからね。それとも何か異議でもあるの?」

「新宇宙へ行くってどういうことか、わかってらっしゃるんですか!?
もしかすると、一生この故郷の宇宙に戻ってこれないかもしれないんですよ!?」

セイランは溜め息を一つ吐くと、
その瑠璃色の髪をくしゃっとかき混ぜて、言葉を紡ぐ。
「女王陛下にも言ったけどね。
僕が一番大切に思っているのは君だ。
僕がいつも傍にいたいと望むのは君だけだ。
だから、君のいないこの宇宙に残ったって、僕には何の意味も、価値もない。
セイランという名前の人形にただ心臓が動いてるだけさ。
幸か不幸か、僕には身寄りも何もないし、君以外に「会いたい人」なんていない。
それに『芸術家セイラン』の名は、僕にとって執着するに価するものじゃない。
僕という生ける屍を造りたくないなら、新宇宙への同行を認めてくれないかな」

その瑠璃の瞳に宿るのは揺るがない決意。

「…セイラン様…」
アンジェリークは大粒の涙を瞳にためて、セイランの胸に飛び込んだ。

「…やっと、手に入れた。僕の大切なアンジェリーク…」
セイランは自分の胸で泣く少女の顎に手を添えて上を向かせると、唇を重ねた。
それは悲しみに満ちたキスではなく、
希望に満ちたキス。幸せなキス。
「…愛してる…」


アンジェリークは、セイランの左の頬が赤くなっているのに気がついた。
紅潮ではない。…軽くではあるが、腫れているのだ。

「…セイラン様、どうなさったんですか、この頬」
セイランは苦笑すると、廊下の奥に視線を向けた。
「運命の女神に喝を入れられたのさ」
セイランのその視線の先には、その『運命の女神』が決まり悪そうに佇んでいた。

「…あんまりセイラン様が情けないから、
『破壊があって初めて創造がある』ってのが
セイラン様の持論でしょ、って言っただけよ」
「出会い頭に引っ叩いた後にね」
セイランはくすくすと妙に楽しそうに左頬を擦る。

レイチェルはかっと頬を紅潮させて声を荒げた。
「あったりまえです!私はアンジェを泣かすために
女王候補降りたわけじゃないんですからね!当然の罰です!
今度アンジェ泣かしたら、新宇宙だろうが異次元だろうが追っかけて、
アンジェ取り返しに行きますからねっ!
アンジェを泣かす人に、アンジェを幸せにする権利はないんだから!」
恥ずかしいのか腹立たしいのか、微妙な表情を見せて、レイチェルは走り去った。

走り去るレイチェルを呆然と見つめていたアンジェリークに、セイランは語り掛けた。
「レイチェルはね、こう言ったんだよ、アンジェリーク。
『私が女王候補を降りるのはあの人がそう望んだから。
そして私もそれを受け入れたいと思ったから。
でも、女王が恋人持っちゃいけないなんて、これっぱかしも思ってません。
セイラン様は違うんですか、私の見込み違いですか、
アンジェリークを独りにできるような人だったんですか』ってね。
僕もまだまだだね。自分の生徒に正しい答えに導いてもらったよ」

「レイチェルが…。…待って!レイチェル!!」
アンジェリークはレイチェルを追いかけて宮殿の廊下を駆け出した。
取り残されたセイランは自嘲気味に呟いた。
「…置いてかれちゃったか。まあいい。お礼代わりだよ、レイチェル。
明日からは絶対離さないからね、アンジェリーク」


レイチェルは照れたように頭を掻くと、苦笑した。
「…ゴメンね、アンジェ。勝手なことして。
でも、こないだ夜に泣き腫らした目で帰ってきたでしょ?
…無性に腹が立って、いてもたってもいられなくって」
アンジェリークはかぶりを振って、レイチェルに抱きつく。
「ありがとう、レイチェル。…ほんとにありがとう…っ」

アンジェリークは自分の髪を纏めているリボンをほどくと、
レイチェルの髪を一房掬い上げ、軽く編み込んだ。
「あげる。…私が一番大切にしてたリボン。誓約の証に」
「誓約…?」
アンジェリークはレイチェルの瞳を見据えると、たった一言告げた。
「幸せになって」
レイチェルは返事のかわりに微笑みを返すと、
胸元のブローチをはずし、アンジェリークの襟に留める。
「あなたもね」


誓約は交わされた。けして破られることのない誓約が。
言葉の要らぬ二人は微笑みだけを交わして想い人のもとへ帰って行く。


愛して。愛されて。
そして共にいることができる、その幸せを、
己自身で護るために。


fin.


文中詩 「Primitive White」より『Lunatic White』
        草名竜人 様に 引用許可済

「セイランを泣かしたい」と、それだけで書き始めたのですが、これほど泣かせにくいとは思いませんでした。
素面じゃついに泣きませんでした。酒の力借りんと泣き顔ひとつ見せられんのかっ!ああもう、難儀なやっちゃ!
セイランとのハッピーエンドのはずですが、ラストでアンジェと一緒にいるのは何故かレイチェル。
はて、これは友情ものだったっけか?
しかし、個人的には気に入ってる話です。詩も使わせてもらったし。草名、ありがとね。
実はレイチェルのお相手は決めてあります。話がややこしくなるので作中では出しませんでしたが。
ヒントを出すなら、女王でも補佐官としてでも、新宇宙に行ってしまうと、同じ時間を歩めない立場の人、ということです。もう殆どバラしたよーなもんですね。