ばれんたいん
「アシュヴィン……アシュヴィン」
朝日の降り注ぐ寝台の上で、やわらかな声がアシュヴィンを眠りから呼び起こす。
おぼろながらもだんだんと晴れてくる意識。
まるで条件反射のように顔を隣にめぐらせばいつもは寝台に横たわったままの姿を目にする千尋が珍しく彼より早く起きていて、掛布を身体に巻きつけて肌を隠した状態で起き上がり、アシュヴィンを見下ろすようにして優しく微笑んでいる。
「おはよう、アシュヴィン」
目を細めて微笑むその表情は慈愛に満ちて、差し込む朝日が千尋の稲穂の髪をきらきらと輝かせ、掛布に隠れきれていない白い素肌も光を纏う。
まるで千尋自身が淡い光を放っているようにも錯覚するその情景は、ため息がでるほどに美しい。
アシュヴィン自身も寝台の上に身を起こすと視線の高さが逆転し、今度はアシュヴィンが千尋を見下ろす形になる。
昨夜に解かれたまま乱れた長い髪をかき上げて無造作に背中に流す。
「ずいぶんと早いな?」
「ふふ、今日は特別な日だから」
笑って答える千尋の言葉に、心当たりのないアシュヴィンは首をかしげる。
困惑する夫の様子に、くすりと笑って千尋は少しだけ種明かしをする。
「私のいた、向こうの世界ではね。今日は特別な意味のある日だったのよ」
説明を受ければ、ああ、と納得したようにアシュヴィンは肩をすくめた。
多感な時期を異世界で過ごしたという千尋は、時折こうやって異世界の風習を持ち込みたがった。
もともと目新しいものは楽しむ質でもあったアシュヴィンは意図にそぐわぬものでない限り千尋の要望にも最大限応えようとしてくれたし、千尋もそのあたりは心得て、こちらと相容れないようなものを無理に持ち込むことはしなかった。
見知らぬ土地の見知らぬ風習の真似事をするのもなかなかに興を誘い、今では次に何を提案してくるかとアシュヴィンも少し楽しみにしている節がある。
「……だが、今回は何も聞いていないぞ?」
準備や根回しのために、常ならば早々に相談を持ちかけられる。
当日になるまで何も言われないなど今までになかったことだ。
「だって、内緒にしてたもん」
「なんだと?」
さらりと返された疎外の言葉に僅かに気色ばむが、千尋が笑顔で顔を近づけたものだから、不満は形になる前に霧散する。
「ね、アシュヴィン。食べてもらいたいものがあるの」
眩い朝の陽光に包まれて愛しい女が掛布を巻きつけただけの姿で薄紅の可愛らしい唇が「食べて」と告げる。
誘惑しているとしか思えない取り合わせに衝動的に目の前の白い肌に食いつきたくなるのを、理性を総動員して堪える。
「……何をだ?」
努めて平静な声になるようにと自制して返した言葉に、千尋は嬉しげに笑った。
掛布を身にまとったままふわりと寝台から降りた千尋は、ややあって上質の絹に包まれ、赤い紐で括られた小さな袋をその手に乗せて戻ってくる。
「これ」
促されて紐をほどいて包みを開ければ、甘い香りが鼻腔を突く。
指でつまみあげてみれば、小さく固められたそれは丸でも三角でもない変わった形状をしていた。
「これは……糖菓子か?」
「うん、ハートの形にするの、苦労したのよ」
その言葉からすると、この形状は歪なのではなくこれが正しい形のようだ。
あいにくと甘いものは好んでは食べないうえに、起き抜けに糖菓子というのも困惑するが、千尋の様子を察するに今日という日とこの菓子には密接なつながりがあるように思える。
しかも千尋が手ずから作ったものだというのならば、多少の苦手意識には蓋をして食うかと覚悟を決めた矢先に、千尋が戸惑うように顔を伏せた。
「……あ、甘いの苦手だった?……やっぱり、無理して食べなくても」
「いや、食べるさ。お前が俺のために作ってくれたんだろう?」
言って、ぽいと口の中に放り込んだ。
小さく堅いそれを口の中で転がせば、案の定、口の中に甘い味が広がる。
一粒を食べきって千尋を見れば、ぱあっと輝かんばかりの嬉しそうな笑顔を見せている。
「それで?特別な意味とやらと、この菓子はどう繋がるんだ?」
問えば千尋は今更のように頬を染めて上目づかいでちらりとこちらを見やる。
もじもじと恥じらいながら告げられた「ばれんたいん」とやらの概要に、アシュヴィンは相好を崩す。
真っ赤になって逃げ出そうとする妃の華奢な身体を捉えて抱き締め、上機嫌で頬を擦り寄せた。
「つまり我が奥方殿は、俺に愛の告白をしてくれたということか」
改めてはっきりと言葉にされて千尋は顔から火が出るほど恥ずかしいが、まさかここで「違う」と否定することもできず、せめてアシュヴィンの腕から逃れようとばたばたと暴れるが、アシュヴィンはむしろ仔犬が戯れるように千尋の抵抗を受け流してしまう。
「甘いものは苦手だが、こういった甘さなら大歓迎だな」
その言葉に、千尋はぴたりと抵抗をやめる。
何事かと思って腕の中の妃の様子をうかがってみれば、困惑するように眉根を寄せている。
「……やっぱり、甘いもの苦手だったのね」
ぽつりと申し訳なさげに零された言葉に、アシュヴィンはふっと笑い飛ばす。
「なんだそんなことか。気にするな。苦手と言っても食えんほどではない」
でも、と反論しようとして、千尋は口を噤んだ。
そして、アシュヴィンの顔と、千尋を抱きしめながらも未だアシュヴィンの掌の中にある菓子を何度か交互に見やる。
そしておもむろにすっとその白く細い腕をのばすと、アシュヴィンの掌の包みから糖菓子を摘まんだ。
「アシュヴィン」
夫の名を呼んで自分のほうに顔を向けさせると、千尋は指でつまんだその糖菓子を自分の口に含んだ。そして。
「――――!!」
ころり、という小さな音とともにアシュヴィンの口の中に、先ほどとは比べ物にならない甘い味が広がった。
そっと唇を離した千尋は、してやったりと言わんばかりの小憎らしいほどに愛らしい笑顔を浮かべる。
「……これなら、食べやすい?」
くすくすと悪戯が成功した子供のような笑顔を浮かべる小悪魔のような妃に、アシュヴィンは自制の糸が音をたてて切れる音を確かに聞いた気がした。
―――これは、絶対に千尋が悪い。
「―――きゃ!?」
どさり、と突然身体を反転させられて、千尋の身体が寝台に沈む。
抗議の言葉を紡ぐ前に、悪戯な唇を自らのそれで塞ぎ、息苦しさにぽかぽかと腕を叩くまで味わい続けた。
腕を叩く抗議にようやく解放をすると、視界に映る濡れた唇と、ほんのり色づいた白い柔肌が、ふたたび妖しくアシュヴィンを誘う。
千尋を組み敷いた姿勢のまま、つっと唇を指で撫でる。
「ああ、くせになる甘さだな。いくらでも食べられそうだ」
濡れた唇は糖菓子のように甘く。
白く柔らかな双丘を描く胸は水蜜桃のように瑞々しく。
陶酔したようなまなざしを浮かべ、アシュヴィンは誘われるままに目の前の果実を食んだ。
「甘いものが苦手という言葉は撤回しよう。―――これほどに俺を溺れさせるものはない」
千尋という果実を貪欲なまでにむさぼりながら、アシュヴィンは甘く囁いた。
チョコレートは無理そうなので、糖菓子で。たぶん完成まではリブとかカリガネとかを盛大に巻き込んだものと思われます。
しかしそれにしても。あんたら、朝っぱらから裸で何やっとるねん。