運命の夜
「―――悪い、少し……ひとりにしてくれないか。頭を整理したい」
気遣わしげな千尋の視線を感じながら、妃と側近に背を向け、自室へと閉じこもる。
ぱたん、と音をたてて扉が閉まると、部屋の中は外界の音から遮断され、静寂が降りる。
日も落ちかけたその時刻、部屋の中は薄暗い。
だが灯りを点ける気にはなれず、かろうじて窓から零れる残照の助けを借りて、部屋の片隅に据えられた寝台にたどり着く。
外套を脱ぐことすら億劫で、そのまま仰向けに寝台に身を投げ出す。
額に手の甲をあて、指の隙間越しに飾りも何もない簡素な天蓋を見上げる。
視線こそ上を向いているものの、その瞳は何も見つめていはいない。いや、視界に映らぬ何かを見ているのか。
重い瞼を閉じれば、部屋にこぼれるかすかな光すら遮断される。
それは、僅かな光明すら見いだせない現状にいっそ相応しかったかも知れない。
戦の情勢は芳しくはない。
籠城戦は、もちこたえれば情勢が変わる要因があってこそ、勝機があるものだ。
散り散りになった別動隊と連絡をとる手段もなく、回りはすべて敵ばかり。この状態では援軍も望めない。
ナーサティヤ率いる皇軍では、敵の弛みも期待できまい。
じりじりと、精神だけをすり減らす日々が待つ。おそらくは、このまま敗北への一途を辿るだろう。
降伏か死か。その決断をする日も、そう遠くない。
自身の身の処し方については、すでに覚悟ができている。
命惜しさに誇りを捨てることは矜持が許さない。
もとより叛徒の処分は死罪と決まっている。付き従ってくれた兵の助命と引き換えに、この首を差し出すことになるだろう。
皇に弓引いてでも常世を禍日神から解放すると誓ったあの日から、死は常に隣り合わせのものとして承知していた。
これが自身の力の及ぶ限界だったのだと思えば、至らぬこととなった現状にも、あきらめはつく。
だが、ひとつだけ、どうしても諦めきれないものがある。
「―――……千尋」
ぽつりとその名を口の端に乗せると、途端に胸の中に愛しさが溢れる。
次の瞬間、いとおしさに取って代わるのは、喪失への恐怖。
彼女の白い衣裳の胸元に矢が突き立ち赤い鮮血の花が咲く。
彼女の細い首筋に、銀色の斬撃が振り下ろされる。
ここ数夜は、束の間の眠りの狭間に見る夢にすらそれらを付きつけられ、ひどい寝汗とともに飛び起きる夜が続いている。
ただの悪夢ではなく、このままずるずると時を過ごせば現実となる。
その瞬間は、足音を立てて確実に近づいている。
このまま俺に付き従っていれば避けられぬ未来であるという事実は、臓腑を抉られるように苦しみを覚えさせる。
千尋のあの蒼い瞳が、光を失うことなど、あってはならない。
わかっている。
わかっているのだ。
自分がそう願うことは、己の我儘でしかないことは。
この戦に付き従ってくれた兵たちも、一人ひとりが誰かにとっての大切な人であり、心を故郷に残してきている。
己一人だけが愛しい者を生き延びさせたいと願うことなど、許されることではないだろう。
―――愛しい。
心の中でもう一度呟いてみて、この言葉がこれほどにしっくりすることに改めて戸惑いを覚える。
彼女に好意を抱いていた自覚はあった。
戦場で出会い鮮烈に印象付けられた美しい郎女。
敵と知りながらも近づかずにはいられず、ただひととき心の切れ端に触れて。
かなうことならば戦場で互いの命の奪いあいにならねばよいと僅かな本音を覗かせて。
そうして近づいておきながらも、すべてを捨てて彼女をとることなど出来ぬという自覚が、互いの間に線を引かせた。
そう、敵国の姫だと割り切っていたころは、この手で殺める事態となっても仕方ないと覚悟が出来たのに。
思わぬ成り行きで縁が結ばれて、諍いと本音の衝突を経て、不器用ながらも心の交流がはかれた今では、喪うことがこれほどに恐ろしい。
この想いは、いつから身を焦がすほどの恋になってしまったのだろう。
笹百合の谷でひととき互いの立場に見ぬふりをして、心の欠片に触れあったときか。
それとも、慈しみを向けてくれたことにも気付かず傷つけたことを、岩戸に閉じ籠った比売神に許しを乞うたあのときか。
もはや自分でもわからない。
美しく凛々しい郎女だと心惹かれただけのあのころに戻れたならば、手放すことができたのだろうか。
それとも互いの心の深淵までは踏み込まぬままの、形ばかりの飾り物の夫婦であれば、諸共に滅べと告げられたのだろうか。
己の婚姻すら政の道具として捉えていた。
だから、千尋の心の在り処が曖昧なままでも、結婚話は即断した。
常世の皇子として採りうる最良の策のひとつであったから、それに千尋の心が添わぬままでも構わぬと思った。
―――形ばかりでもあの娘を手に入れられるという、独り善がりな満足を覚えたのも、事実だが。
けれど、あの姫はそんな勝手な俺に、それでも精一杯の誠実を向けてくれた。
手を差し伸べて、その心を開いて、俺を迎え入れてくれた。
時が許すなら、本当の意味で心の絆を結び、想いを育み、添い遂げる存在であれるはずであったのに。
―――喪えない。
己のすべてを、常世のために捧げてきた。
それは今でも変わらない。
千尋に惹かれる自分を自覚しながらも中つ国と戦ったのも、互いの心を慮らず立場と政略のみで婚儀を進めたのも、すべてはそこに帰結する。
だが、今まさに終幕を迎えようとするにあたって、どうしても自分の心を偽れない。
ぐるぐると回る思考は、どんなに足掻いても最後はたったひとつにたどり着く。
―――千尋を、死なせたくない。
いくらかの逡巡を経て、決意は固まった。
静かに、閉じていた瞼を開く。
寝台から漸う身を起こせば、すでに日はとっぷりと暮れ、灯りをつけなかった部屋は闇に覆われている。
窓からは仄かに零れる月明かり。
窓辺に歩み寄りその空を見上げれば、随分と欠けた月が細々とした光を放ちながら夜空に昇っていた。
足元が不案内になるほど暗くはなく、けれど月影に姿を捉えられぬほどには月明かりは弱く、夜闇に紛れるにはお誂え向きだ。
ばさり、と外套を翻し、アシュヴィンは扉を押し開いた。
カツ、カツ、と廊下に足音が響く。
この戦に、もはや勝機はない。
ならば、抗う余力の残る今のうちしか、彼女を逃がすことは叶うまい。
常世の皇族として生を受けてより、生きるも死ぬもすべて常世でと定めた俺に、千尋が殉じる必要はない。
この地のほかに生きる場所もない俺とは違う。
千尋には、帰るべき故郷も、迎え入れる仲間もある。
心優しく慈しみに溢れ、それでいて誇りと気高さは失わぬ、亡国の姫。
逃げろと言ってやすやすと首を縦には振らぬだろう。
けれど、今は彼女の存在そのものが希望となる。
龍の姫。
神の子。
かつてはその大仰な呼び名を揶揄し、彼女を娶った今とて、その名に縋るわけではない。
だが、その呼び名に秘められたものは、人々の…残された世界の希望となりうる。
皮肉なことだ。
伝承なぞ恐るるに足らずと揶揄した俺自身が、その大義を楯に彼女を説こうと言うのだから。
千尋の部屋の前に立つまでに、迷いがなかったと言えば嘘になる。
けれど未練に揺れる心は、それでも決意を覆すまでには至らない。
この扉を叩いて、もしも千尋が眠っていたら、明日に持ち越そう。
けれど、千尋が起きていたら―――すべてを言い含めて、この地から解き放とう。
未だ未練たらしくそんなことを考える自分に気づいて、自嘲を零す。
そして扉を叩くべく拳を軽く上げると、部屋の中で、人の動く気配がする。
それは紛うかたなく、千尋の気配。
―――決まったな。
千尋の姿を見ることができるのは、今宵限り。
ひとつ大きく息を吸うと、覚悟を決めて、その扉を叩いた。
「―――まだ眠っていなかったのか?」
形式として扉をたたいたものの、返事を待たず、その扉を開ける。
この部屋に自由に入ることが許されるのは部屋の主のほかは己ひとり。
幽宮で錠の下ろされた部屋の扉の前で比売神の再臨を希ったことをふと思い出し、鍵を掛けていない扉は千尋が自身に心を許し始めた証だろうかと期待してしまう。
……もはや彼女の傍にいられる時間は、いくらも残されていないというのに。
「……アシュヴィン」
窓辺近くで外を囲む兵たちを鋭く見据えていた千尋が、その視線を訪問者に向ける。
その視線がみるみるやわらかくなっていくことに、こんな時でありながら、くすぐったいような嬉しさを感じる。
窮地にありながら未だ希望を捨てないその瞳。
その瞳に宿る光が、この世界を救う一縷の望みとなるだろう。
手放すことは身を切るような切なさを伴うが、それが彼女に生への道を約束するのであれば、自分の痛みなど何ほどのこともない。
偵察を口実に砦の外へと誘うと、しばし迷うような表情を浮かべて、それでも千尋は頷いた。
武骨な砦に露台などという気の利いたものはないが、それでも空に抜ける場所はいくらでもある。
自らの兵たちの人目を忍び黒麒麟を呼び出すとその背に跨り、千尋に手を伸ばす。
千尋は俺の顔と差し出された手との間を、何度も視線を往復させる。
躊躇いがちな千尋の仕草に焦れて、おずおずと伸ばされかけたその手をやや強引に掴んで黒麒麟の背に引っ張り上げた。
きゃあ、と愛らしい悲鳴を上げる千尋の身体をしっかりと腕で固定して、黒麒麟を空に舞い上がらせる。
彼女の白い装束が細々とした月明かりに浮かび上がらぬよう、華奢な身体ごと外套に包み込むように抱きしめた。
それだけのことに、ひどく心躍る自分がいる。
そして、これほどに彼女に近づいたのは、これが初めてなのだと思い当たる。
婚姻の儀式は交わしたとはいえ、自分たちの間には色めいたことはなにもなかった。
今がまさに戦のさなかであったことや、政略がらみと承知の上で互いが心の在り処を掴みかねていたということもある。
けれど、心を通い合わせてのちに、まったく機会がなかったわけではなかった。
それを意図的に避けていたのは、こうなることを恐れていたからだ。
一度でも契り交わせば、手放せなくなるとわかっていた。
彼女自身、情を交わせばそれが枷となり、生き延びるための選択肢を自ら捨てるだろう。
―――だから、戦が終わるまでは。
結果として、その悪い予感は的中しようとしている。
だから、これでよかったのだ。
初めて抱きしめた千尋のぬくもりは、戦でささくれだった心を癒すかのように優しく、あたたかい。
最初で最後となるであろう千尋との抱擁と、そこから伝わるぬくもり。
叶うなら、このぬくもりを、命尽きる最期のその一瞬まで忘れないでいたい。
心に湧き上がったその衝動に任せて、より強く彼女の身体を抱きしめた。
結局のところどこまでも身勝手であった俺は、だから気づくことができなかった。
自分にとって初めてということは、同時に千尋にとっても初めての触れ合いだということに。
縋るように俺の服を掴む手が、騎乗による不安定のためだけではない、ということに。
抱きしめた千尋の身体があたたかいのは、人肌以上の理由で彼女が身体を火照らせていたせいだ、ということに。
黄泉比良坂への道を示し、行け、と半ば命令のように伝えれば、千尋は驚愕に顔を強張らせる。
心にちくりと痛みがうまれるが、彼女の命と自己満足とを引き換えになどできない。
「頼むから、聞き入れてくれ。俺は、お前を死なせたくない」
諭すように言った言葉に、千尋は幾度も首を横に振った。
「私だって、アシュヴィンを死なせたくない!
ずるい……ずるいわ、アシュヴィン、自分だけ安心しようなんて……ずるい」
瞳はみるみる潤んで、大粒の涙が浮かぶ。
堪える暇もなく頬を伝い零れおちた涙は大地に弾け、瞬く間に土に染み込んでいく。
こうなることは想像がついただろうに、いざ目の前にすると千尋の涙はひどく俺を動揺させる。
「逃げるなら、アシュヴィンも一緒よ」
「馬鹿なことを言うな。砦に待つ兵たちを見捨てて逃げることなど……」
言いさして、その言葉の意味することに気づいて口を噤む。
追い討ちをかけるように千尋は涙を浮かべたその顔をキッと向けて、情けなくもその気迫に気圧される。
「私はあなたの妃よ。砦の兵は、私の兵でもある。なのに、私には彼らを見捨てて逃げろというの!?
馬鹿を言っているのはアシュヴィンのほうじゃないの!
共に生きるべき夫を見捨てて、従ってくれた兵たちを見捨てて、私にこの先をどう生きろと言うの!?」
「千尋……」
次の瞬間、縋るように胸元に飛び込んできた千尋の身体を、突き放すことができなかったのは、俺の弱さか。
「行けない……行けるわけないじゃない。お願い……ひとりで生き延びろなんて言わないで」
その白い腕が背に回され、優しく甘く絡め取られるように動けない俺の耳に、囁くように密やかに、けれど確かにその言葉はもたらされた。
「好き……好きよ、アシュヴィン。
私は……あなたと一緒にいたいの。あなたと一緒に、生きていきたいの……!」
―――ああ、降参だ。
手放せなくならぬよう慎重に重ねてきた配慮は、今すべてが水泡に帰してしまった。
だというのに、今俺の心に満ちるのは、どうしようもないほどの喜び。
縋りつく千尋の身体を、掻き抱くように抱き締めた。
そっと添えた手で千尋の顔を上げさせてその瞳を見つめれば、澄んだ空のような蒼は恋情に甘く揺れる。
吸い込まれるように、千尋に顔を近づけた。
千尋も、そっとその瞼を下ろす。
月影の射し照らす森の中で、二人の影も重なった。
「………共に、死ぬか?」
重ねた唇を少しだけ離して、吐息のかかるほどの距離で問えば、千尋は微笑んだ。
「死なないわ。生きるの。二人、一緒に」
その自信に満ちた言葉に、本当に未来は明るく拓けているような錯覚を覚えてしまう。
―――いや、千尋なら。
この類稀なる姫ならば、本当に未来をつかみとるかもしれない。
そう考えてしまった自分に、ふっと笑いがこみ上げてきて、もう一度唇を重ねた。
「……そうだな。俺たちはともに歩むと誓ったんだ。
共に生きて―――幸いを分かち合おう」
俺の言葉に眦に涙を浮かべながらも満面の笑顔を浮かべてくれた光の比売神は、とても美しかった。
千尋が傍にいるなら。
千尋が俺を愛してくれるなら。
奇跡を起こすことすら、たやすく思える。
―――もう、二度と離さない。離せない。
月影のさやけさの中、俺たちは再び手を取り合った。
今度は、共に同じ道を歩むために。
白麒麟さんなかなか出てけません(笑)
千尋を逃がすまでの葛藤をとにかく描写してみたかった。千尋の返答はとりあえずバッドED選択肢以外は全部網羅。いやどれも捨てがたくて(笑)
あと、この展開なら絶対キスまでいくだろう!という信念のもと、キスシーンを盛り込みました。
寝所が別だったりEDまでキスがお預けだったり、アシュヴィンは嫁取りまでしてるくせに必要以上にCEROを守りすぎだと思います!(ぉぃ)