伝うべきは
かつ、かつ、と石造りの廊下を力強く踏みしめる音が、夜の根宮に響く。
常にぴんと伸ばした背は彼の整った容姿をさらに勇ましく見せる。
腰に佩かれた剣には常に手が添えられ、一分の隙も見せない。
その隙のない雄姿は、見る者に覇気と威厳を感じさせる。
若き皇アシュヴィンは、今この常世の国の民の尊崇を一身に集めている至高の存在である。
とはいえ、華々しい地位とは裏腹に、抱えている課題は山積みだ。
日毎執務に忙殺される日々を送っている。
今日とて延びに延びた仕事を終えて、遅い帰還を果たすべく扉に手をかけた。
「―――陛下!」
その瞬間、まるで計ったかのように彼を呼びとめる声に振り向く。
足早に駆けてくる臣下の腕には竹簡が幾つも抱えられ、その表情は固い。
それはまたしても火急の案件が持ち上がったことを彼に察させた。
―――またか。
溜息をひとつついて、諦めの表情で首をゆっくりと横に振った。
国土は、いまだ落ち着いているとは言えない。
中つ国をも交え神に弓引いた果ても知れぬあの戦が終わってから、幾らも経っていないのだ。
復興の兆しは見え始めているものの、まだまだ終わりは見えない。
安寧に身を浸せる日は、まだ遠い未来の話のようだ。
彼は扉にかけていた手を離し、再び執務室へと足を向けた。
今宵も、夜明け近い時刻の就寝となりそうだった。
ふと執務室へ戻る道すがら夜空を見あげると、星の海には赤い月が浮かんでいる。
昔の彼にとってはただの月であったが、今の彼にとっては少しだけ違う意味を持っている。
「――――……千尋」
意図せずその名が口からぽろりと零れ出た。
赤い月が浮かぶ夜に出会った姫―――今の彼の妃は、今宵もひとり、夫の訪れを待ち続けているのだろうか。
月を見れば出逢いを、
星を見れば死別を覚悟した岩砦の夜を、
太陽を見れば輝く陽光のような髪を、
空を見上げれば蒼穹のような澄んだ瞳を。
見るものすべてが愛しい女性に連なり思い起こさせる。
その存在は、自身にとってすでになくてはならないものになっている。
逢いたくてたまらない。
けれど現実は無慈悲に二人の距離を引き離す。
陛下、と再度呼ばれた声にああ、と気のない返事を返して、アシュヴィンは再び廊下にその足音を響き渡らせた。
その夜ようやく執務から解放されることが叶ったのは、もう東の空が白みだしたころ。
一日の終わりではなくもはや一日の始まりと言っていい時刻だ。
根宮の一部では、早くに仕事を開始するものたちが活動を開始している。
最低限の仮眠をとるために、やや重くなった足を寝室に向ける。
―――自室に連なった自分の寝室ではなく、妃である千尋の眠る、皇妃の寝室へ。
後宮の最奥にあるその部屋で、アシュヴィンは細心の注意を払って音を立てぬよう静かに扉を開いた。
むろん彼自身の地位を考えれば無遠慮に踏み込んだところで咎めることができる者がいようはずもないが、礼節というよりは、部屋の主に対する慈しみに由るものだ。
皇妃の寝室。当然、部屋に中央には寝台が据えられている。
地位に相応しいものをと用意されていたそれは、豪奢で大きく……ひとりで使うには、広さを持て余すのか、部屋の主―――千尋は、広い寝台の端に、身を縮めるようにして眠っていた。
その姿を視界に収めると、途端に心にじんわりとあたたかいものが広がった。
そば近くに寄れば、静かな寝息が聞こえる。
寝台に腰かけるとギシリと軋んだが、眠り姫はいまだ夢の世界の住人だ。
眠りを妨げはしないかとほんの一瞬躊躇ったが、その頬に掌を触れさせてみた。
さらり、と金の髪が指先に絡むように滑り落ちる。
起こしてしまうことを懸念したが、触れたところで眠りが浅くなる様子すら見せない。
月明かりのみでは判然とはしないが、気のせいでなければ少しだけ、彼女の肌の白さが増した気がする。
……いや、顔色が優れない、と表現するべきなのだろうか。
―――疲労しているのだろう。無理もない。
先刻までは、千尋の顔が見たくてたまらなかった。
顔を見ることが叶えば触れたくなって、衝動に負けて触れた今は……とても、声が聞きたくなった。
際限なくあれもこれもと求める自分に、苦笑がこぼれるほどだ。
―――そういえば、しばらく声も聞いていないな。
思い返せばここしばらく、陽のあるうちに顔を合わせることが叶ったことなどなく、かろうじて一日の終わりに彼女の寝顔を見れればよいほうだ。
彼女とて忙しく、どうかすれば顔も見れずに数日にわたってすれ違いが続く日すらもある。
自分はいい。
どんなに忙殺されようと、常世は故国。国のために奔走することに苦は感じない。
自分は常世のために生きるのだと幼い時分から決めていたことが現実となっているだけだ。
だが、千尋にとってはどうだろう。
生まれ育ったわけでもない国。
文化も風習も風土も。自身を取り囲む顔ぶれさえも馴染みのない異国。
それもほんの少し前までは剣を切り交わす敵であった国に、彼女はひとり、その身を置いている。
彼女の支えとなるべき夫である自分は、ろくに彼女に逢うことすら叶っていない。
心が弱らぬ、はずもない。
愛おしくて、離したくなどなくて、この国に繋ぎとめている。
だが本当に彼女のためを思うならば、それは忌避すべきことなのだろうか。
小鳥を鳥籠の中に押し込めて、独り善がりに愛でていることと変わらぬのではないのか。
鳥の居場所が大空であるように、獣が草原を駆けるように、彼女にとってのあるべき姿を奪ってはいないか。
「―――……千尋……」
唇から零れた声は、思いのほか、静かな室内に響いた。
頬に触れても起きなかったというのに、己が名を呼ぶ声にはぴくりと反応し、千尋が微かな身じろぎとともに、ゆっくりとその瞼を開いた。
虚ろにゆれる瞳が焦点を結び、その瞳にアシュヴィンの姿を映す。
途端、花が咲き綻ぶように満面の笑顔を浮かべた千尋に、起こしてしまった罪悪感はどこかに吹っ飛んでしまった。
アシュヴィン、と名を呼ぶが早いか飛び起きて、腕を首に絡めて抱きついてきた愛しい妃に、誰が抱きしめ返す以外の選択肢をとれるだろうか。
抱きしめた身体は、やはり少し細く感じた。
己がために千尋が無理をしているのではないかという疑念が、再び身を苛んだ。
けれど、今となっては千尋を失うことは、身を切られるよりつらいことだ。
その自覚がある今では、彼女に無理を強いているとわかっていても、手放すことなどできはしない。
「……すまない」
千尋は怪訝そうに顔を見上げる。
彼女にとっては脈絡もない唐突な謝罪であろうから無理もない。
白くすべらかな頬に唇を落とすと、千尋はくすぐったそうに腕の中で身をよじった。
「異国の地で、お前がつらくないはずはないのにな。
なのに俺はお前を離せない。……帰してやれない。
その上、傍にいてやることすらろくにできていない。……すまない」
「アシュヴィン……」
千尋の両の手が、アシュヴィンの顔にのびる。
小さな掌がアシュヴィンの頬を包むように触れた。
「ばか」
次の瞬間、むにっと両頬を引っ張られた。
「―――っ、千尋!」
この流れでそれはありか、と睨めつけると、腕の中の奥方は、つん、と顔を背けた。
「だって、アシュヴィンが馬鹿なんだもの。
………アシュヴィンは、私に謝らなきゃいけないようなこと、してないでしょ」
「……だが、俺はお前にいらぬ苦労を強いてはいないか」
「苦労だとかつらいかとかなんて、私が決めるわ。
……それは、時には心細くなる時もあるよ。
たまには、つらいことだってある」
わかってはいたつもりだが、実際に告げられた千尋の言葉が、胸にちくりと痛みを生む。
だけどね、と千尋は言葉を継いだ。
「そんなの、全部わかってアシュヴィンと一緒に生きるって決めたんだもの。……あの、岩砦の夜から」
その言葉に、アシュヴィンははっと目を瞠る。
それに、と千尋がぎゅっとアシュヴィンの服の胸元を握る。
「アシュヴィンがいるから」
「……千尋」
「アシュヴィンが生まれたこの国が好き。
少しでもアシュヴィンの力になれれば嬉しい。
なにより、アシュヴィンに愛されて、アシュヴィンの傍にいられることが幸せだから……」
頬を染めて胸元に顔をうずめる千尋に、どうしようもなく愛しさがあふれて抱きしめる腕に力を込めた。
「……でも、嬉しい。
アシュヴィンが私のこと慮ってくれたのはわかるから。
馬鹿って言って、ごめんなさい」
「いや、確かに俺が馬鹿だったんだ。どうやら、心が弱っていたのは俺のほうだったらしい」
我にかえってみれば、らしくないことを考えたと思う。
いまさらそんなことで揺らぐほど、自分たちの絆は浅いものではなかったろうに。
そうだ、今自分が口にするべきは謝罪ではなく。
「千尋」
再度のよびかけに、顔をあげた瞬間、掠めるように唇を奪った。
「ありがとう」
傍にいてくれて。
共に歩む道を選んでくれて。
―――愛してくれて。
幾重にも重なる想いを全てこめて、もう一度唇を重ねた。
千尋が足りなくってネガティブになってるアシュヴィンさん。
この後、がっつり千尋成分を補給してピッカピカになります。充電。