月夜の縁




藤姫の姿が見えぬ、と知らされたのは、
左大臣家に所用で訪れていた折りのことであった。
藤姫にご機嫌伺いに、と東の対へと足を踏み入れたときに、
姫付きの女房が、声を潜めて話していたのを聞き咎めた。

…知らされたというより、問い正した、の方が正しいかも知れぬが。



『すぐに戻ります故、ご心配なきよう』

そんな書き置き一枚だけを文机に残し、邸の何処にも姿が見えぬらしい。



「屋敷は隅まで探したのだな。
…他に、何か手がかりになるようなことは?」

女房は困惑顔で考え込むが、ややあって、ぽんと手を打った。

「そういえば、お姿が見えなくなる直前に、お部屋の御簾の傍で、
『ここは月がよく見えませんね』とおっしゃっておいででした。
いつもと違ったご様子と言えばそれくらいで…」

「…月?…なるほど。
…姫の居所には、私に些か心当たりがないこともない。探してみよう。
それまで、お父君の左大臣殿のお耳には入れぬようにな。
騒ぎになって、姫のお心を痛めるのは忍びない」

心得ました、との女房の返事を背に受け、
私は左大臣家を後にし、牛車を南へ向かわせた。

「…神泉苑へ」




神泉苑は規模こそ比べ物にならぬが二条大路を挟み大内裏と隣り合っており
岸辺からは大内裏を臨むことができる。
もともと大内裏造営の際に設けられた禁苑だ。
帝のお声掛かりで今は下々にも開かれているが、
…我々にとっては、別の意味で関わり合いの深い場所となっている。


日は落ちたとはいえ、中空に輝く月灯りで人影程度は容易く判別できる。
そして、私の予想通り、泉の傍に
水面ではなく、中空を見上げている垂衣姿の女人がいた。
市女笠からたらされた��の垂衣から、藤色の髪と
東雲(しののめ)色の地に山吹色の花をあしらった模様の袿が透けて見える。

私は足音を殺すことはせず、出来うる限り自然にその傍らに歩み寄った。


「………やはり、ここにおいででしたか」

私の掛けた声に、はっと振り向いたその女性は、
紛うことなく、藤姫その人であった。



「…友…いえ、橘少将殿…」


藤姫の口から零れた呼称が、ふと心に掛かった。

「……少将殿、ですか。…藤姫からそう呼ばれるのは久方振りですね」

「…そう、でしたか?」

まだ姫が幼い頃から、藤姫が私を呼ぶときは『友雅殿』だった。
藤姫から『橘少将』と呼ばれた覚えがあるのは過去に二度きり。
どちらのときも感じたのは、どこか背伸びした藤姫の様子。
それは藤姫が私と初めて言葉を交わしたときと…

「私が、神子殿に初めてお目通りしたとき以来ですよ」

「まぁ…よく覚えておいでですね」




「女房が心配していましたよ。
夜も更けるというのに、女性の一人歩きなど、
とんでもないことをなさいますな」

「…探してくださったのですか?」

「折良く、左大臣殿を訪ねておりましたのでね」

「……………そうですか。
ほんのひとときのつもりが、時を忘れてしまったようですわ。
申し訳ございません……本当に」


藤姫は、微かに…ほんの微かに表情を曇らせ、
瞳をそらして謝罪の言葉を口にする。
私は多少の寂しさを覚えながら、首を横に振った。

「姫はご無事で私の前にいてくださる。それでよいのです。
…まだ戻られたくないのならば、お付き合いいたしますよ。
貴女おひとりを、ここに残して去るわけには参りません。
私も武官の端くれ。この非才なる身の全力を以て姫をお護りいたしましょう」

私は些か芝居がかった仕草で、礼をとった。



藤姫は、苦笑を浮かべると、再び中空を…月を見上げた。

「月と星を、見ておりました」

「…舘でも、ご覧になれるでしょうに」

「……一人で、見たかったのです。ここで。」

藤姫の衣に焚きしめられた香の香りが、
夜の泉を吹き抜ける風に乗って、私の元まで漂う。
月を見上げ月光を浴びる藤姫に……私は目を離せなくなる。
私は暫し見とれた自分を隠すように扇を口元に遣り、極力自然に振る舞った。

「では、私は邪魔をしてしまったようですね」

藤姫ははっと私の顔を見上げる。
そして俯きながら考え込むように瞳を閉じると、
微かに頬を染め、ふるふると顔を横に振った。

「……いいえ……いいえ、嬉しゅうございました。
見つけてくださったのが…貴方で…」



藤姫は、ふと顔を上げると首を傾げた。

「…でも、よくおわかりになられましたこと。
わたくし、ここに来るとは誰にも申し上げておりませんでしたのに」

私はその言葉に、ふふと笑いを零しながら、
手にしていた扇で月を指した。

「我らがともに仕えた斎王が訪れ、また還った場所ですからね。
屋敷に居られぬとなれば、貴女にとって、
此処以上に思い出深い場所はありますまい?」

藤姫は、ぽかんと私の顔を見上げていたが、ふっと微笑みを零した。




私は無言で薄衣の向こうへ腕を伸ばし、藤姫の瞳の端を指で拭う。
藤姫の瞳の端を拭った私の指に、真珠のように煌めく透明な雫が残る。


「……あ………」

「…藤姫。ひとりで、お泣きめさるな。
私とて非力非才の身ではありますが、
泣き場所に胸を貸すことくらいならば出来ますよ」

「…本当に、友雅殿には、いつも隠し事が出来ませんわ」



藤姫は己の被っている市女笠に手を遣ると、そっとその傘を降ろした。
薄衣越しにではなく、その素顔に月光を浴びる姿に、私は目を奪われる。
そして藤姫の視線は……変わらず月へと注がれていた。


「…友雅殿は、八葉としての最後の日を、覚えておいでですか?」

八葉としての最後の日。
鬼の一族との諍いの決着をここ神泉苑でつけた日のことだろう。
神子殿は龍神を喚び京の穢れを払い…そして天真の呼ぶ声に、戻ってきた。
龍神の神子としての役目を終えられた神子殿は、元の世界に戻られ、
そうして龍神の神子と八葉のつながりも、想い出の中にのみ在るものとなった。

神子とともにあるのが八葉とするならば、あの日が名実ともに最後の日だ。



「あの日の朝…父上の御前に呼び出されました。
…わたくしの婿がねを決めておくつもりだと」

「……」

ぎり…っと、たたんだ扇が軋みの音をあげた。
知らず知らずのうちに、扇を握る手に力がこもっていたようだ。
私のそんな様子には気づかぬ風情で、藤姫は空を仰いでいる。


月を見上げながら微笑むその姿が、今まで以上に大人びて見える。

「…わたくし、その日、初めて父上に逆らいました。
最初で最後の我が儘を…勘当覚悟で通したのです」

「………?」

「わたくし自身が慕う方をこそ、我が背の君と仰ぎたいと…。
ふふ…若輩者の小娘が何を言うかと、笑ってしまいますでしょう?
わたくしがお慕いする方が、わたくしを見てくださるはずなどないのに」


――迂闊にも、その時の私は気づいていなかった。

中空の月を見上げていた筈の藤姫の瞳が、
いつしか私を真っ直ぐと見据えていたことに。


「幼い身の抱く憧れかも知れない、一時の気の迷いかも知れないと、
何度わたくし自身を諫めたかわかりません。
…でも、芽吹いた想いは止めようもなく、
心には想いが根づいてしまっている。それがわかってしまうのです」

藤姫はそっと己の手を胸の前で祈るように合わせた。
私は、口を挟むことも出来ずに、ただ姫を見つめていた。


「…忘れられないのならば昇華させようと思いました。
愛されることを求めるのではなく、ただ穏やかに愛せれば、と。
その方にとっての導きの星になることが出来ればそれでよいと」

藤姫の瞳に、また雫が光る。
自らの頬に零れた雫を隠すように、藤姫は両の手で顔を覆う。


「…でも、それは叶いそうにありません。
そう決めた矢先に、友雅殿にお逢いしてしまうなんて。
友雅殿は…いつもわたくしの心を掻き乱しますわ」


――その言葉が何を意味するか。
それが分からぬ程、私も愚か者ではない。


白く細い両の手で顔を覆い、俯く藤姫の傍にまた一歩、足を進める。


「……わたくしの申し上げたことは、忘れてくださいますよう…。
月に惑わされた愚かな女の戯れ言と…どうか聞き流してくださいませ。
今宵のわたくしは、どうかしているのですわ…」


私は、俯いたままそう言い募る藤姫の前に、自らの手を差し伸べた。
はっと顔を見上げる藤姫の瞳に、己の視線を絡ませる。

――きっと、私は今までで一番優しい表情をしていることだろう。



「私の邸に、いらっしゃいませんか。…橘邸の、北の対へ」

「…え…?」

「貴方を北の方として望むには、私は分不相応かもしれない。
だがせめて、どうか忘れないでいて欲しいのです。
貴女を護りたいと望む者が…貴方を愛しいと思う者が、
今、ここにいるということを」



大きく目を瞠ると、藤姫はその瞳からぼろぼろと大粒の涙を零す。
私はその涙を幾度も指で拭いながら苦笑を浮かべた。


「…困りましたね。貴女の笑顔を護りたいのに、
どうやら、今あなたを泣かせてしまったのは、私らしい」

「哀しくて泣いているのではございません…。
左大臣家の姫としても、星の一族として生を受けた身としても、
自分の意に添う方と結ばれることはないと、覚悟しておりましたのに…。
……これは、月が見せる幻なのでしょうか…?」


「私の願いに『応』と答えてくださるのならば、
幻にはしないとお約束しますよ」

そして、私は今一度、藤姫に手を差し伸べる。

姫は、未だ涙は零しながら、それでも微笑みを浮かべて、
私の差し出した手に、そっと自分の手を重ねてくれた。



「――では、参りましょうか、姫」

「…はい」




中秋の、月の美しい晩のこと。
そうして、星の天女は、私の元へ舞い降りた。



月光に惑ったのだと天女は言った。
もしもそうなら、私は今宵の月に感謝をしよう。

それはきっと、淡き月光の結んだ縁(えにし)――――




なにやらシリーズ化してしまっていた友雅×藤姫創作、『月夜の章』、
ようやく最終章です。(いつの間にそんな章ができたんだ(笑))
つばささんに頂いた藤姫のイラストに想像を刺激され、
こういった結末と相成りました。――最終決戦すっとばしましたとも、ええ(笑)。
一応、最終決戦でも、エピソード考えていたんですけどね(笑)

一応、決戦直後でも、その数年後でも読めるような構成にしてあります。