天使の翼


そよ風に靡く琥珀色の髪は、心を捉える美しき鎖。
その唇の紡ぐ言葉は、心を惑わす妖しの呪文。
見つめていると、その朗らかな笑顔で心を奪う。

その少女は天使。

一所に留まることを知らないかのように、聖地を駆けゆく。
人には見えぬ翼で、自分のもとから飛び立っていく。
捕まえておこうとしても、腕から擦り抜けてしまう。

そして、青年は自らの知らぬうちに、その天使の虜となっていた。


「天使が堕ちて悪魔となったというなら…
小悪魔ってのは言い得て妙って気もするね」

苦笑しながら、セイランは学芸館の窓から
自分を翻弄している天使を見つめていた。
手を伸ばしたらとどく距離にいるのに、
触れてしまったらそのまま溶けて消えてゆきそうで、
今日もまた、何も言えず、触れることすら叶わず。


「見てるだけってのは…我ながら、らしくない。
…君のせいだよ、アンジェリーク」

アンジェリークに想いを寄せたのはいつからだったのか、
セイラン自身にもわからなくなっていた。
気がつけば瞳はアンジェリークを追っている。
扉を叩く音に心を弾ませている。
自分を見つめる瞳に、頬を染めてしまう。
それはまるで、恋を知った乙女のように。

「…まったく…!どっちが少女なんだか…っ!」
セイランは自分に呆れ返りながら、
次の学習のために教材を整理し始める。
それはアンジェリークのため。女王となるための、学習のため。
アンジェリークが自分の元へ訪れるたび、自分の手で女王へと押し上げている。
自分の望みと矛盾するとわかっているのに。
…だけど、アンジェリークが望むから。
アンジェリークが女王への路を選んでいるから。
だけど…。


まだ、朝靄の晴れぬ聖地。
そんな早朝のアンジェリークの部屋に、ノックの音が響く。
寝ぼけ眼で扉を開けたアンジェリークの前に、瑠璃色の髪の青年が立っていた。
「…セイラン様。何か御用ですか?」
淡々としたアンジェリークの態度。
驚くでもなく、喜ぶでもなく、…嫌がるでもなく。
『君にとって、僕は特別な存在にはなり得ないのかな』
そんな失望の溜め息をセイランはすんでのところで飲み込む。
「…今日は、課外授業をしようと思ってね。
どう、時間があるなら、森の湖までいかない?」
突然やってきての申し出に流石にアンジェリークも即答できない。
「…こんな朝早くからですか?」
「こんな朝早くから」
「…わかりました」
もはや何を言っても堪えないと判断したのか、
アンジェリークは着替えを済ませると素直にセイランについていった。


「わぁ…綺麗…」
アンジェリークは湖の情景に言葉を失う。
煌く水面に朝靄が薄くかかって、湖を幻想的に彩っている。
「君に見せたかったんだ。
晴れた早朝のほんの一時しか見られないけど、
来た甲斐はあっただろ」
「ええ…。まるで天上の世界みたい…」
セイランは情景に見惚れているアンジェリークを見詰めている。
朝靄と、煌く水面との中に佇むアンジェリークは、
そこにいるだけで神秘的な魅力を醸し出す。
「眩しいよ…君は天上人のようだね」
その呟きはアンジェリークには届かないほどの小さな囁き。

そして、また今日も見つめるだけで時が過ぎ去ろうとしている。


君は何故女王候補なんだろう。
僕は何故教官なんだろう。
ただの男と女としてでは、一生逢うこともなかったのだろうか。
それは神の決めた運命のように?

「ねぇ、アンジェリーク。
運命ってどう思う?…信じてる?」

突然のセイランの質問にアンジェリークは戸惑う。
が、それも一瞬のこと。
アンジェリークはセイランを見据えて、返事を返した。
「『運命』なんて言葉は嫌いです」

セイランはその台詞に面食らう。
「人生の全てを『運命』の一言で片づける人がいますけど、
私はそんなの絶対に嫌。
周りに流されてても、我が侭を通しても、
今までの分岐点で人生を選択してきたのは自分の意志です。
誰を恨みようもない、己自身です。
自分で決めた人生だから生きる価値もあるし
どっかの誰かの決めた『運命』なんかに人生左右されたくありません。
だから『運命』なんて言葉、信じないし、嫌いです」


「朝靄…晴れちゃいましたね」
アンジェリークに話し掛けられて、セイランは我に返る。
「…ん、そうだね。…じゃ、帰ろうか」

アンジェリークはセイランを拒絶したわけではない。
だが、セイランはその台詞に呪縛のように口を封じられてしまった気がした。


今日もまた、想いを伝えられないままに時は過ぎ行く。
それは、拒絶されて、傍にすらいることができなくなるのが恐いから。
その笑顔が、自分の言葉で曇るのを、見たくないから。

自分がこんなに臆病だったと、初めて知った。
想いを告げる勇気も覚悟もなく、
かといって、諦めて離れることもできない。
ずるずると気持ちを引き摺ったまま、時だけが無為に過ぎ去っていく。

だが、セイランの葛藤をよそに新宇宙は着実に発展を続けている。
育成はアンジェリークが僅かにリードしていた。
新宇宙に惑星が満ち、試験が終わるのも時間の問題だった。


「…あと、一つ…ううん、二つかな…」
視察を終え、王立研究院から出てきたアンジェリークは、
新宇宙が満ちるまでの惑星の数を数えていた。
指を折りながら、ふうっと溜め息をつくと、誰にともなく呟いた。
「学芸館…行かなくちゃね…」


「セイラン様、学習お願いします」
「…うん。じゃ、始めようか…」
セイランは学習の間、アンジェリークの姿を辛そうに見つめていた。
残された時間はもう幾らもないのに、
今日もまた、言い出せないで時を過ごすのか。

だが、アンジェリークの去り際の一言がセイランに火をつけた。

「明日…育成が終われば、試験も終わると思います。
今まで、御教授ありがとうございました」
そう言って頭を下げるとアンジェリークは背を向けた。


明日、全てが終わってしまう。
もう二度と手の届かない処に行ってしまう。
遠くからその笑顔を見つめることも、
鈴の音のような優しい声を聞くことも、
最早永遠に叶わぬ場所へ。
アンジェリークがこの部屋を出た瞬間から、
二人を繋ぐ接点が消え去ってしまう。


考えるよりも先に、身体が動いていた。

「…あの、セイラン様…?」
「何さ」
「…手…離していただけますか」
「嫌だ」

セイランはアンジェリークの右手を強く握って離さない。
アンジェリークが言い募ろうとするよりも早く、
セイランはアンジェリークを自分の方へと引き寄せて、きつく抱きしめる。
そして、抱きしめたその体勢のまま、傍の机に押し倒す。
首筋を這うセイランの口唇に、アンジェリークは身体を強張らせる。

「やっ…セ…セイラン様…っ!」
「いやだ…っ!いやだ、いやだ!」

セイランは、アンジェリークを抱きしめたまま、苦しそうな叫びを漏らす。
アンジェリークは、抱きしめるセイランの腕が微かに震えているのに気がついた。
そして、セイランの瞳にうっすらと涙が滲んでいることにも。

「…僕は…君を失うために生まれてきたわけじゃないんだ…っ!」

それは血を吐くように絞り出された。

「…好きだ。…愛してる…っ!」

今まで言い出せなかった言葉。
失望はしても、絶望はしたくなかったから。
見えぬ結果に怯えて、いつも飲み込んでいた言葉。
だが、今伝えなければ、最早伝える機会は二度とない。


部屋を静寂が支配する。
それはほんの数秒のことだったのだろうが、
セイランには数時間にも感じられた。

アンジェリークの顔を正視できないまま、セイランは身体を起こした。
その瞬間、セイランの頬にふわっとアンジェリークの手が触れた。

「…やっと…言ってくださいましたね…嬉しい…」

アンジェリークは穏やかな笑顔でセイランを見つめている。
セイランは優しくアンジェリークを抱きしめる。
そして、アンジェリークの言葉の意味に、不意に思い当たる。
「…ひょっとして…気づいてた?」

「ずっと…セイラン様を見ていましたから…。
セイラン様が私を見つめてくださる、ずぅっと前から…」
アンジェリークはほんの少し遠回りな表現でその問いに答えた。
「私は運命は信じていませんけど、奇蹟は信じてます。
二人がここで逢ったのは、偶然。でも、二人が想い合えたのは…、
…それは奇蹟だって…思ってます」


「僕の気持ちを知ってて…ずっと黙ってたの?」
セイランは憮然とした表情でアンジェリークを凝視する。
アンジェリークは拗ねたように顔をそむけた。
「…悔しかったんですもの。
私だけ、苦しい想いでセイラン様を見つめているのが…。
だから、自分からは言わないって、決めてたんです。
結構大変だったんですよ?
感情出さないようにセイラン様と向き合うの」

「…ちょっと許せないね。お仕置きが必要かな」
「…え…ど…どんな…ですか?」
セイランはあからさまに怯えるアンジェリークを楽しそうに眺めていた。
「そうだね…。たとえばこんな」
言うが早いか、アンジェリークを組み敷いた体勢のまま、その口唇を重ねた。
啄ばむようなキスのほんの隙間にセイランは言葉を滑らす。
「…もう、絶対に離れてなんかあげない。
君が嫌だって言っても、君が僕を嫌いになっても、
泣いて叫んだって、僕から離さない」
アンジェリークは返事の代わりに、
両腕をセイランの首にまわしてぎゅっと抱き着いた。

長いような短いようなキスの後で、セイランはアンジェリークに問い掛けた。
「今日、僕がここで想いを言わなかったらどうするつもりだったのさ」
アンジェリークは悪戯っ子のように笑った。
「言ったでしょう?私は運命なんて信じない。
だから『こうなったのは運命』なんて思いません。
女王の座蹴ってでも、ここに来てました」


「…まいったね。降参だよ。
多分一生…君には敵わない」

セイランはアンジェリークを見つめる。
アンジェリークもまた。
二人だけの時間が静かに流れていく。

「僕のこと…好き?」
「好き」
「…愛してる?」
「愛してます」
「僕も…愛してる…」


それは誓いの言葉。
互いの傍を離れぬという誓約の言葉。


そして天使は翼を捨てた。

fin.


前回の話に入れたくて、そのくせ入れ忘れた言葉をこの話で使いました。
そのせいか、またセイランが前の話に輪をかけて女々しくなりました。
なんか予定外に泣いたし。だぁもうっ!セイランてめぇ、もちっとしゃきっとせんかい!
セイランが情けなくなったその反動か、アンジェはめちゃしっかりしてしまったような気がします。
作中にも書きましたけど、ほんと、どっちが女の子なんだか。
書いてて「だぁっ!アンジェに『俺の胸で泣きな』とか言わせたろか!」と本気で考えました(笑)。
セイランてば、糸が切れると極端から極端へ走るし。いきなし押し倒すなって。