対岸の姫




鎌倉を抜けて、幾日たったか。
山越えを続ける一党は、紀伊方面を目指していた。

峠を越え、麓近くの寂れた山里で、親切な里の住人の好意で
一夜の宿を借り、ようやく人心地ついたその夜のこと。


それを望美が見たのは、偶然だった。
旅の疲れから皆も早々に寝静まった夜半、たまたま望美が手水を借りて戻ってきたとき、
将臣が九郎を伴って、宿から離れていくのを見かけた。


「……九郎、さん?……将臣くんと、どこへ……」


離ればなれになって、生き別れることも覚悟した九郎。
その彼が自分に何も言わずに宿を離れていくのを見て、
望美が不安になったのは、無理からぬことかも知れない。

望美を捨ててどこかへ行くとは微塵も思ってはいないけれど、
九郎と将臣との間には、八葉であることとは別の確執もあったのだから。


(そりゃ将臣くんは平家の還内府だったけど……。
でもまさか、もう一度決着つけようなんて考えたりは……)

あり得ないと分かっていても、不安になる心はエスカレートの一途を辿る。

(――ああもう!どうしても気になるよ!九郎さん、将臣くん、ごめん!)

もともと、行動派の望美はうだうだと悩むだけなど性に合わないのだ。
心の中で手を合わせ、望美は二人の後を追って宿を抜け出した。




街灯もないこの時代、夜道の照らすは月明かりのみだ。
だがその夜はあいにくの曇り空で、一度見失ってしまうともう追いかけるのは不可能に近い。


「たしか、こっちに……」

小さな山里とは言え、集落はそれなりの広さがある。
油断すると闇にとけ込みそうな人影を追っていた望美は、
古ぼけた民家の裏手にある小さな雑木林に伸びた道を、自分の記憶を頼りに入り込んでいった。


雑木林を切り開いている小さなその道を、どのくらい進んだか望美自身も分からなくなるころ、
月を翳らせていた雲が吹き払われ、雑木林にも灯りが差し込む。
月影に照らされたその先に、二人が佇んでいるのを見かけ、望美はほっと安堵した。


望美は、足音を殺して、二人のいる方へと歩を進めた。
かろうじて声が聞こえる距離まで近付いたとき、交わされている二人の会話に、望美の足は止まった。






「……九郎、お前にこれを渡しておく」

そう言って将臣は懐を探り、布にくるまれた小さな包みを差し出した。
九郎の目の前で布はとかれ、そこから出てきたのは――女物の螺鈿細工の櫛。

造りこそ見事なものだが、幾筋かの細い傷が残る、どこか古びた様子の否めないそれ。
男に――それも武将に渡すものとしては、不釣り合いなことこの上なかった。
案の定、九郎もその柳眉を顰める。

「……俺にこんなものを渡してどうするんだ?
望美や朔殿にやったほうが、まだいいんじゃないのか」

「馬鹿野郎。望美にやれるもんなら渡してるぜ。お前じゃなきゃ意味がねえんだよ。
誤解の無いよう言っとくが、俺からじゃない。――三条殿からの預かりもんだ」

将臣の口から出た名前に、九郎の表情が変わる。

「――三条殿、か……」

どこか懐かしいものを思うような表情で、九郎はその名を口の端に乗せた。





「俺がお前達の助勢に行くと知って、託されたんだ。
落ち延びた身には分不相応なものだから、お前に委ねて欲しいと言われてな」

「――……そうか。彼女からとなれば、それは……受け取らねばなるまいな」


神妙な顔で、櫛を受け取った九郎に、望美の胸はちくりと痛んだ。

(――『彼女』って言ったよね、今……。……平家の女の人からの、贈り物なの……?)


九郎は受け取った櫛を丁寧に布でくるみなおし、大事そうに懐にしまい込んだ。

「……三条殿は、息災か」

「ああ。なかなか気丈な姫さんだからな。元気でやってるさ」



将臣の答えに一度は綻ばせかけた口元をきゅっと引き締め、九郎は己の髪を乱暴に掻く。

「まったく、なんて不謹慎なんだ俺は。……平家を追いつめた張本人は、この俺だというのに。
俺が彼女の安否を気遣うなど、噴飯ものだな」

「別に良いんじゃねぇのか。もうお前は、源氏を捨てたんだろ?
立場を言うなら、平家を率いてた俺だって、源氏の元総大将に加勢に来てるんだしな。
それに……言ってたぜ。当の本人がな」


――平家の姫として生くるのが、わたくしのさだめ。われらは共にさだめに従ったのみ。
――今こうして生きているも、あの方のご温情あってのこと。何を怨みに思うことがありましょう。



「――そうか。そう言って……くれたか」

九郎が、ふわりと笑んだ。

その懐に入れた者には――信頼した者には惜しみなく与えられるその微笑みが、
今この場にいない、望美の知らぬ女性に向けられたものなのか、と思うと、
望美の心は穏やかではいられなかった。




「――将臣。頼めた義理ではないかもしれないが、俺からも言伝を頼む。
生きる道は分かたれたが、この九郎、けして貴女を忘れることはない、と」



(――ッ!)

望美の胸が、ずきんと痛む。

(ダメ……もう、堪えられない…っ)


その場から逃げ出そうと、足を退かせる。
だがその拍子に、落ちていた小枝をパキッと踏み折ってしまった。

「――っ」

夜の静けさの中、それは思いの外響き、将臣と九郎は音がしたほうを振り仰ぐ。


「……望美?お前、いつから――」

「――ごめんなさいっ!」

いたたまれなくなって、望美はその場から走って逃げ出した。



呆然とその後ろ姿を見送る形になった九郎の後ろ頭を、将臣がはたく。

「おい九郎!なに茫然自失してやがる、追いかけろ!
――あの馬鹿、今の俺たちの会話、まず間違いなく誤解したぞ」

将臣の叱咤で我に返った九郎は、礼もそこそこに、慌てて望美を追いかけていった。



「――まったく、世話の焼ける奴らだぜ」

望美と九郎を見送った将臣は、苦笑を零しながら溜息をつく。

あれが本当に自分たちを追いつめた相手だなどと、自ら切り結んでいなければ、信じられないところだ。

己の相方と、神子。トップとして戦に関わるには、情に篤すぎた二人。
不器用で、恋に不慣れな……微笑ましい二人。

浮かべていた苦笑は、将臣自身も気づかぬうちに、本当の笑みへと変わっていた。






望美は、ただがむしゃらに走っていた。
来た道がどうだったなどはまるで頭になく、ただあの場から逃げ出したかったのだ。

これは理不尽な感情だ。自分でもそう分かっている。
九郎の過去に何があったとしても、自分が責める権利はない。
だが、九郎が自分以外の女性に微笑みを向けるのが、たまらなく嫌だった。


「まて、望美!」

背後からは、自分の名を呼びながら追いかけてくる九郎の声。
いつもは一番大好きな声だけれど、今だけはその声に捕まるわけにはいかなかった。
けれど、戦慣れした男の人の足は、やはり速い。
道なりに走っていては、追いつかれる。
そう判断した望美は、道を外れ、林の中に逃げ込んだ。

――結果として、それがまずかった。

人に踏みならされていない地面は起伏が激しく、また夜露に濡れ、滑りやすくなっていた。
そこは戦場以上に、走り慣れない女の足で安易に抜けられる場所ではなかった。
いくらも進まないうちに、苔生した根瘤に足を取られる。

「きゃぁっ!!」

とっさに身を庇ったものの、転倒は免れず、望美はいくらかの擦り傷を負うハメになった。


それでもすぐに起きあがろうとしたが、ぐっ、と頭を引っ張られる感覚に後ろを向くと、
背の低い木の枝に、望美の長い髪がからまってしまっている。

――もう……踏んだり蹴ったりだな…。

泣きそうになるのをなんとかこらえ、望美は枝に絡まった髪を解こうとするが、
引っ掛かっているのが己の髪なだけに、視界が確保しづらくなかなか上手くいかなかった。



「――望美!」

「……九郎…さん…」

ややあって漸く追いついてきた九郎が、望美の惨状を目にする。
その様子に大体の事情を察すると、九郎は肩をすくめながら、苦笑を零した。

「――やってやる。じっとしてろ」

言うなり、望美の返事も待たず、九郎は絡んだ髪を解きにかかる。



(わ……九郎さんの横顔、こんなに近くでじっくり見るの初めてかも……)

じっとしてろ、と言われて大人しくしているが、逆に動きが敏感に分かってしまう。
今までになく近くにある九郎の顔に、時折首筋に微かに触れる九郎の手に、
望美は叫び出したくなるのを必死に堪えていた。


「――お前、なんで逃げ出したんだ」

指は髪を解き続けながら、九郎は望美に問いかける。
望美はびくっと身をすくませるが、この状況では逃げようもない。
せめてもの抗いに九郎から視線を逸らす。

「だ……だって、九郎さんが……女の人からの贈り物受け取ってたから……」





絡まった髪の最後の一筋を解き追えると、九郎は望美へと向き直る。
今その顔を真正面から見る勇気のでない望美には、
彼がどんな表情を浮かべているかを窺い知ることは叶わなかった。


「……ごめんなさい……わかってるんです。私にも。
九郎さんにだって、今までに好きな人の一人や二人、いて当然なんだって。
私が、感情の整理が追いつかないだけだから…っ、
だから…っ、今は放っておいて…ほし……っ」

その言葉は途中で遮られた。
九郎が望美の手首を掴み、無理矢理自分へと振り向かせたからだ。

「――なにがわかってるって言うんだ!」

怒鳴るようにたたきつけられた言葉は、怒り半分、哀しみ半分で、
望美の手首を掴む手にも、痛いほどに強い力がこもっている。

「後も先もない!俺には、お前だけなのに……っ!」

九郎は望美の後ろ髪へ乱暴にもう片方の手を滑らせると、頭の後ろを押さえるように掴み、
勢いに任せて望美の顔を引き寄せ、唇を合わせた。


「……んっ……」


突然の、そして初めての口付けに、思考を奪われる。
角度を変え、何度も交わされる口付けに、望美は翻弄されるばかりだった。




ようやく唇を解放された望美は、はあっと息を吸い込み、力を無くして九郎の胸にもたれかかる。
柔らかな唇を思うさま堪能した九郎は、先程までの激昂が嘘のように、上機嫌で望美の髪を撫でていた。


「ああ……髪が乱れてしまったな」

半分は木に絡まったせいだが、もう半分は九郎の今の行動のせいなんじゃなかろうかとも思ったが、
それをつっこめるだけの気力は、今の望美には残っていなかった。

ぼんやりと九郎に身を委ねていた望美だったが、しばらくして髪を何かが通り抜けていく感覚に我に返る。
指を通しているのとは違う感覚のそれに意識を向けると、
九郎は先程の螺鈿の櫛で、たどたどしいながらも優しく望美の髪を梳いていた。


「――っ!?く、九郎さん、その櫛ッ!」

詰め寄る望美の言葉は何処吹く風と、九郎は涼しい顔で櫛を滑らせていく。

「櫛はこう使うものだろうが」

「そーですけどっ!でもそれは別の女性からもらったものなんでしょう!?」

九郎の気持ちは先程いやというほど示されたけれど、それとこれとは話が別だ。
女からもらった櫛で、別の女の髪を梳く、その感覚が望美には信じられなかった。

望美の表情からそれを察したか、九郎は櫛を動かす手を止める。


「お前……まだ誤解しているだろう」


さらり、と櫛を通しきると、九郎は再び櫛を布に包んで懐にしまう。
九郎は着物の上からその布包みに手を当てる。

「この櫛を俺によこした女性は――俺の妹だ」



告げられた言葉に、望美はぱちくりと瞬きをくり返す。

「……妹……?え……だって、将臣くんとの話じゃ、平家の姫だって……」

「そうだ。三条殿は……清盛の娘だからな」

九郎は言いよどみながらも、少しずつ、事情を口にしていった。

生まれたばかりの乳飲み子だった自分と兄弟を連れた母、常磐。
彼女が、己の母親と息子の助命嘆願のために当時六波羅殿と呼ばれていた清盛の愛人になり、
そして生まれた子供が、廊御方――三条殿なのだと。

生まれてから、そう時をおかずに里子に出された妹。
当時まだ2歳か3歳かといった年頃だった九郎には、赤子の面差しさえ覚えてはいない。


「けれど――妹は妹だ。忘れたわけではない」



望美は何も言えずに九郎を見つめていた。

父の思い出もなく、母とは幼き頃に離され、肉親の愛情とは縁薄く生きてきた九郎。
慕った兄にはその才覚を疎まれ、最後には源氏を捨てた。
そしてその影で、再びまみえることもなく、血を分けた妹との訣別をしていたのを初めて知った。


(私……なんにも知らなかったんだ……)

今まで望美の知らないところでも、血の葛藤を抱えていたのか。
彼が苦しんでいることなど、知りもしないで、この人の、大きな腕と背中に守られて。




哀れんではいけない。
それはこの道を選んだ彼の決意を汚すことになるから。

――なら、私がこのひとのためにできることは。


望美は、九郎の首に腕を廻し、ぎゅっと抱きついた。

「私が……九郎さんの家族になるから。
これからは、私がずっとずっと、九郎さんの傍にいるよ」


「………………馬鹿。求婚は、男からするものだ」

些か長い沈黙を挟んで、九郎がきゅうっと望美を抱きしめ返した。
首に抱きついたその姿勢では、九郎の顔は望美からは見えなかったけれど、
耳どころか首まで真っ赤にしている九郎の表情は想像に難くなかった。



「………望美、俺の妻となってくれ」

「――はい、九郎さん」





「もう、方便だとか芝居だとか言わせないよ。取り消しきかないからね」

「その言葉、そっくり返す」


なんだか可笑しくてくすくすと笑いながら、二人はもう一度顔を近づけ合う。

ひとときだけ吹き払われていた雲はふたたび月を翳らせ、
二人の密やかな逢瀬のような時間を、宵闇の中にとけ込ませていった。


100のお題No.28、「向こうから見たこっち」。お題部分少ないですが、三条殿から見た九郎?

一度はやってみたかった、歴史詳しい人には全然意外でも何でもない三条殿ネタ。
九郎も、敵味方に血縁の多い人ですよね。単なる姻戚でないぶん、ある意味ヒノエ以上?
源氏はもちろん、平家にも熊野にも血縁いますから。もち熊野の血縁とはヒノエとその母です。

三条殿(廊御方)は、史実でも義経の異父妹です。
大河ドラマでは「能子」となっていましたが、大河ページ以外で彼女の名を見つけられなかったので、
「能子」は用いず、三条殿で通しました。なんか情報入ったら書き直します。

年齢についてですが、遙かでは九郎の年齢違うし、大河では7歳違いなのでややこしかったので、
2,3歳離れているというのは、史実からもってきました。