潮騒にこと寄せて
―――すべては、海から。この、潮騒から。
夏の終わりにこの地に降り立ち、秋を慌ただしくがむしゃらに過ごし、探し続けた者との再会を冬に果たし―――そして、この国の者として、春を迎えた。
彼の者に請われてアロランディアに根を下ろすことを決めた葵は、夕焼けに染まった海辺のはずれで浜に転がる岩に腰を下ろし、潮騒に耳を傾けていた。
泳ぐには季節を外れていることと、ごろごろと転がっている岩の所為で、あまり人気もないその岩場に、ざざぁと寄せては返す波の音は、まるで楽の音のように耳に優しい。
不意に、ざくり、ざくりと背後に重く砂を踏み分ける音が聞こえ、葵の傍に長身の男が立つ。
男は気まずげに振り向いた葵の視線を受け、不機嫌そうに眉根を寄せた。
「…出かける際には行き先を明らかにしておくように、とあれほどお願いしたはずですが」
空は既に薄暗く、夕焼けの朱に染まった景色も少しずつ夜色になろうとしている。
葵はぐっ、と言葉に詰まった。
「……すまぬ。少しだけ、あと少しだけ、と、つい……な。
しかしわざわざ探しに来んでも、童ではあるまいし、迷子になったりはせんぞ」
どこかずれた葵の言葉に、男からふぅっと大きなため息が漏れる。
眉根を寄せると普段から凄みのある顔がさらに険しく見える。
男は目を瞑ると、途端にその姿がふっとぼやける。
彼がもう一度目を開けたときその姿は、水干を纏う、紅い髪の青年の姿をしていた。
「紅丸……」
葵は、青年の名を呼んだ。
―――アロランディアで、且つ先程の姿のときに通っている『ソロイ』という名ではなく、
あまりにも彼女の生に馴染んだ―――真実の名を。
「……ぬしは女としての自覚がなさすぎる」
ため息交じりの彼の言葉に、葵はきょとんとする。
「自覚ならあるぞ。男であったことなど一度もない」
「……ぬしの鈍さは今も昔も変わらぬな」
彼はこの国で葵の幼少の頃を知る、唯一の人物である。
それを知る者はこの国には一握りしかおらず、彼も十数年の間その記憶を封じ己自身の正体を忘れていたのだが。
紅丸は、意識せず纏う、しかも日々艶やかさを増す女としての色香を自覚しないかつての主に、いささか諦めを含んだため息を零す。
もっとも、葵を女としたのは紅丸本人ゆえに、彼にも責はあるといえばあるのだが。
「……とにかく、少しは自重しろ。
海の何が面白いのかは知らぬが、夜が更ければここも安全とは言えぬ」
ふふ、と笑って葵は海に視線を戻す。
「潮騒は、いつも何処も変わらぬからな。落ち着くのじゃ」
今は遙か遠い葵の生まれ故郷も、ここアロランディアも、常に潮騒に包まれた地であった。
故郷の海はときに厳しい冷たさを、アロランディアの海は常に優しい温かさを与えるが、生まれてこのかた、異境の地にあろうとも、潮騒を聴かぬ日はない。
「―――……帰りたいのか」
紅い髪の青年―――紅丸はぽつりとただそれだけを問う。
葵はただ首を横に振り、答えとする。
この生意気で、意地悪で、不躾で、それでいて不器用な男は、今までもそれを幾度も問うた。
普段は言葉にも表情にも、僅かな揺らぎすら見せないが、葵の数十倍もの歳月を生きてきたはずの彼が、このときばかりは心を揺らす。
だから葵は幾度でも答えてやる。ときには言葉で。ときには行動で。
「―――そうではない。今日潮騒を聴いておったのは、我らはとかく海や潮騒というものに縁が深いのだなと……不意にそう思い至ったからじゃ」
葵は岩場に腰を下ろしたまま、眼前の海を見つめる。
浜を朱に染めていた太陽は既に落ち、空は街と海とを藍に染め変えていく。
「私はこの国で幾度も現(うつつ)と紛う夢を見た。
まるで胡蝶の夢のようなその夢を見るときは、決まって波音が聞こえる。
……潮騒はそれを思い出させるのじゃ」
けして葵が知り得ぬはずのことも、その夢は見せる。
たとえば、傷ついた名もなき紅の魔物が、如何にして『紅丸』の名を名乗るに至ったかなども。
「思えば、おぬしと日野平との出会いも海の傍であったな。
―――初代の巫女は、おぬしにとって、少しは特別な巫女であったか?」
問うてはみたが、すぐに視線を伏せ、葵は答えを制した。
「―――……いや、答えぬでよい。詮無きことを訊いた」
葵がそれを制したことに、むしろ紅丸は不愉快そうに、声音を低くする。
「何故聞かぬで良い?……意に介さぬ程度ということか」
彼にしては珍しく食い下がる様子に、葵は意外な面持ちで紅丸を見返した。
「なんじゃ、こんな話を気にするなどおぬしらしくもない。
だいたい、おぬしが今の話の何を気にすると………」
言いかけて、言葉を途切れさせる。
声を荒げこそしないが、紅丸のその抑えたような声は、明らかに機嫌を損ねている。
揶揄や嘲笑、侮蔑は昔からしたが、あまり感情の起伏を表に出さない彼が僅かに表情を顰めて憮然としているのは、葵を呆然とさせるに足りた。
葵はぽかんと紅丸の顔を見返し、その言葉と態度を反芻して、ようやくひとつの結論に至る。
「……もしや……妬いてほしいわけか?」
憮然としたまま目を逸らす紅丸の仕草が、無言でそれを肯定する。
意外な反応に葵は思わずふふっと笑みを零した。
「素直なのだか、素直でないのだか……」
葵は海へと視線を戻し、苦笑を浮かべて、黒く艶やかな横髪を掻き上げた。
「……意に介さぬ、というわけではないのだがの」
潮風に吹かれて微かに湿り気を帯びながらも、指を離すとさらさらとこぼれ落ちていく自分の髪を見下ろし、葵はしばしの沈黙の後に口を開いた。
「―――邪推をしないわけではない。
ときには心の闇に囚われかける。人の身なれば、仕方のないことじゃ」
海から吹き付ける潮風は、海辺の人影を優しく撫でる。
長く豊かな葵の黒髪は、藍色に染まる海辺の空気に溶けるかのように、潮風に吹かれて風を象る。
「……だが信じたいと、いや、信じられると思える。
他ならぬ、おぬしがそう思わせてくれる」
「……葵」
葵は、故郷では呼ぶことのなかった名を呼ぶ傍らの男を見上げると、嬉しそうに柔らかく笑む。
「―――そう、それじゃ。おぬしが呼んでくれる、私の名。
それが、私の心を和らげてしまうのじゃ。
おぬしに自分の名を呼ばわれることが、このように心地よいことだとは、ついぞ知らなんだ」
葵は岩から腰を上げると海原へと歩を進め、裾が濡れるのも構わず打ち寄せる波に足を浸し、遙か遠く、夜の闇に溶けこむ水平線を見晴るかす。
日が高ければ朧気ながらも島影が見えるだろうが、今は深い藍色が広がるばかり。
すっと手を伸ばし、葵はその深い藍を指さした。
「日が落ちれば見えぬあの遠い島々までの距離をおぬしの生きた歳月に喩えれば、今私が立つこの距離が私の生きた歳月よ。
波打際より数歩の距離しか歩んでおらぬ者が、島の情景を判じられる道理があるまい?」
空は既に夜の領分。冴え渡る銀の月に照らされ、澄んだ海にぼんやりと、幻想的に葵の姿が浮かび上がる。
「おぬしにとって、より大切なのが初代か、私か。それは私には判じられぬ。
だが過去を理由に今を否定することは、私が感じる全てを否定すると同じこと。
おぬしの想いも、私自身の想いも、すべて否定すると同じことよ」
小さく波音を立てて葵は紅丸へと振り向く。
その表情は決意に満ちて、そしてどこまでも穏やかだ。
「昔日はどうあろうとも、おぬしが告げた言葉は真実だと感じたし、そして私がそれを信じたいと思うたのだから。
―――だから、おぬしが初代の巫女を想うておっても、それはそれでもよいのじゃ」
「―――ふん。それはよいが、勝手に結論を出し勝手に納得されたのでは、こちらとしても少々面白くはないな」
ふわりと紅丸の身体が宙を駈け、潮風の中を舞うように、波に足を濡らす葵の傍へと降りる。
その足先は、寄せる波にも触れずに、僅かばかり浮いている。
「―――最初の巫女か……」
紅丸は懐かしい、しかし戻りたいとは願わぬ、長き主従時代の過ぎ去った歳月の記憶をたぐり寄せる。
かつては請われても昔の事を語ることは皆無に近かった彼が、珍しく己から口を開こうとしていることに、葵は意外そうに紅丸を見上げた。
「……とは言え、恩義か忠義か、あるいは恋情であったか。我にももはやわからぬことだがな。
……それを思い出すには永い時が経ちすぎた。
……だが人としての生を知った今、あえて言うならあれは―――『母』であろうよ」
紅丸は、懐かしいものを思い出すように瞳を閉じる。
かつて紅丸は暗闇より生まれし魔でありながら、人の心で考えることを始めてしまった。
魔として永く生きようと、人としては幼子のようなもの。
そしてあの巫女はその魔に名を与え、居場所を与え、目的を与えて、一筋の光のしるべを示した。
―――幼子を導く、慈愛深き母のように。
「今思えば、だがな。
日野平と共に生きた幾百の歳月と、人としてソロイが生きたこの十数年があればこその答えだ。
ぬしらの遠き母は―――我にとっても母よ」
葵は、嬉しげに微笑んだ。
「ならば我ら日野平にとっても、おぬしは吾子のようなものであったかも知れぬな。
初代の―――いや、日野平を母と言うてくれるその言葉は嬉しいぞ。
日野平の総領十八代、おぬしを疎んじた者などおらぬのだから」
微笑む葵に、紅丸は己で言っておきながら憮然とする。
「ふん、初代一人でも多いくらいじゃ。そもそもぬしが我の母であられては困る」
己が仕えた日野平の一族。
初代の巫女は、日野平の名に恥じぬ巫女だった。
だが神ならぬ身の因果か、日野平の一族すべてが高潔ではありえなかった。
紅丸の契約が切れること、即ちそれは、式が敵となり、総領姫の命が危うくなること。
それを承知で―――つまりは死を期待して―――年端もいかぬ葵を総領姫の地位に据える、妬みに歪んだ一族と成り果てた。
強い力こそ持っていたものの、兄姉たちと長の座を争うには優しすぎた葵が総領姫として紅丸の前に現れたとき、紅丸は日野平が堕ちたことを悟った。
己に紅丸を継がせた日野平の一族の思惑を知りながら、あえてそれを使命として受け入れた葵。
紅き式が千体の契約を終えたとき、その爪先が彼女の血に染まることを期待している一族の醜さを知りながらなお、それでも人に仇為すものと戦う、健気な少女。
幾度妖に欺かれようとも、所詮は魔の言うことと切り捨てられずにその言を信じる、勇ましいくせに愚かなまでに純粋な少女。
澱んで濁りを見せていたあの時代の中にあって、まばゆいまでに美しい純白の魂をもつ葵。
彼女を護るのは、口には出さねども、それは確かに喜びだった。
永き時のうち、刀を継がれるまま、半ばは惰性で日野平に仕えていた彼が、
己が意志で『護る』と真実欲した少女。
―――欲した、女。
己の中でゆるゆると育つ愛おしさを自覚するのに、如何ほどの刻がいっただろうか。
紅丸の腕が、ふわりと背後から葵を抱きしめる。
「もう、ぬしは巫女ではない。
―――巫女としての言葉など要らぬ。我が求めるのは女としてのぬしの言葉よ」
葵は己を縛めるその腕にそっと自分の手を添えた。
抱かれて衣越しに触れ合う、血潮の通う証の温もりが心地良い。
紅丸の腕の中で自分の頬近くまで零れて流れる紅い髪を、白く細い指先に軽く絡める。
―――女としての言葉か。
それは葵の中ではっきりと形をとりだしている。
式が要るだけならば、紅丸に拘りはしない。
母なれば、いずれ子は離れるものだと割り切り、請われてもこの地に留まりはしないだろう。
葵は己の指に絡めとった紅く長い髪に、愛おしげに唇で触れた。
絡まりきらずに指先から零れる紅い髪が、潮風に吹かれる葵の黒髪と混ざり合う。
この者なくして生きるは耐え難いゆえに。
葵が愛しいと言ってくれたことに歓喜したゆえに。
―――あまりにも、彼が愛おしいがゆえに。
「心ならずも十数年の時を隔ててしまったことを、歯痒く思うたこともある。
だが、振り返ってみれば、それも私とおぬしには必要な時間であったのだろう」
それが互いの想いを浮き彫りにした。
十数年という歳月を隔てても変わらぬことを証したのだから。
魔の己を、過去を捨ててもなお消えずに燃ゆる恋の焔(ほむら)。
使命も、一族も断ち切る事になろうとも、それでもなお離れられぬ、断ちがたい甘美な絆。
故郷を遠く離れても、十余りの歳月を経ても、それでもなお巡り逢うは、宿縁か。
―――すべては、海から始まった。
紅丸の式としての生も。人としての生も。
ふたりの別離も。愛の始まりも。
「故郷を偲ぶ縁(よすが)が潮騒のみであろうとも、おぬしがいるから、私はここで生きるのじゃ」
「鈍い鈍いと思うておったが、それが聞ければ上出来よ。
―――もはや逃がしはせぬ。離しはせぬ。ぬしは我のもの。
……覚悟はよいな、葵」
故郷の海では紡げぬ調べも、この潮騒が奏でてくれる。
銀月の浮かぶ夜の海辺で、二つの影はしばしの間、離れていた時間を埋めるかのように寄り添っていた。
葵アンソロに寄稿したやつが未UPのままになってたのを発掘。
トリプルスターの発売前だったので、ちょこーっと設定に矛盾があります。