小夜啼鳥




――――アシュ…ヴィン


か細く、小さなその声が、己の名を呼びながら、白い手を伸ばす。
急速に力を失っていくそれを掴もうとして―――目の前でぱたりと落ちる。

己の使う紅い剣の刀身が、明らかに違う赤に染まるのを見て――――言葉にならぬ咆哮を上げた。








「―――っ」

そこで、はっと瞠るように瞼が開かれた。


惑っていたのは数瞬のこと。覚醒した感覚はすぐさまに現実に馴染む。
見慣れた天蓋、見慣れた壁、住み慣れた己の部屋だ。
落ちていた眠りの淵から、けして快くはない感覚によって現に引き戻された。
身体はひどく寝汗をかいて、心の臓は未だばくばくと耳障りな音を立てている。
ちっと微かな舌打ちをしてしまってから腕に抱いた存在を思い起こし、その様子を窺う。
起こしてしまったかと危惧したが、すうすうと寝息を立てていることを確かめるとほぅっと息をついた。




眠る妃の姿は穏やかで、この腕の中では恐れるものは何もないとばかりに、安心しきった様子で身を預けている。
陽光の下では強い光を湛えて凛々しい瞳も、今は降ろされた瞼の奥。
この寝姿には、美しいというより愛らしいという表現が相応しいだろう。

愛しい女をこの腕に抱き、彼女も心ごとすべてを委ねてくれる。
常ならば、幸せに身を浸す情景だ。―――けれど。

起こさぬよう細心の注意を払いながら身を離し、寝台から身を下ろす。
寝台がギシリと鈍い音を幾度か立てるが、千尋はあどけない寝顔を浮かべたまま、その瞼を閉じている。






「…………ふぅ」

上着だけを羽織って、長椅子にやや乱暴に身を投げ出す。
額に手の甲を当てるようにして仰向けになり、長椅子の背に身を凭れさせた。

身体はぐったりと疲れて眠りを求めていたが、それとは裏腹に意識だけはいやに冴えていた。
とても再び穏やかな眠りの園に戻れるとは思えなかった。
無理にでも眠るならば寝酒のひとつも欲しいところだが、あいにくと部屋にあったものは昨夜のうちに乾してしまっていた。
求めれば宮に不寝番の者はいるだろうが、わざわざ彼らを呼びつけることすら億劫だった。



外はまだ、夜も明けやらぬ。
開け放されたままの窓からは、夜風が吹きこんでいた。


優しく肌を撫でる風は瑞々しく、ほのかに季節の薫りも運んでくる。
さわさわと、夜の風に吹かれた梢が優しい音色を奏でる。
遠くに聴こえる小夜啼鳥の声が、かすかにその旋律に彩りを添えていた。


遠い昔に失われ―――そして取り戻した、美しき常世の姿。

瞼を閉じてもなお色濃く感じ取ることのできるそれに、束の間その身を委ねた。




常世はかつての沃野を取り戻している。
けれど―――すべてが元通りでは、ない。



幼いころから、父として皇として、心からの畏敬の念をささげた獅子王の姿は、今も瞳を閉じれば瞼の裏に浮かぶのに。
だがもう、かつてのこの宮の主は禍日神と共に永き闇の彼方だ。





兄を斃し、父を斃し。
血族の血に塗れた手をなおも振りかざし、剣を振るい、禍日神を堕とした。

すべては、この緑なす常世の国のため。



この手の中に、常世の民数十万の命を抱えて、終りのない道を歩むのだ。

そうと決めて自ら選びとってきた道だ。
躊躇いも後悔もない。


―――けれど。

心に染みついたように巣食う不安が拭えない。


あれほどに敬愛した偉大なる父皇を、禍日神もろとも手に掛けたように。
同じ国の姿を求めていたはずの兄を、歩む道が違ったがゆえにこの手で打ち倒したように。

―――いつか、俺の手で千尋を殺める日が、来るのだろうか。






「…………千尋」


優しく、心清らな娘。
その身に稀な血を引く、高貴な姫。
凛とした瞳は未来を見据え、弓を引き戦場を駆け、勇ましく兵を率いる美しき戦女神。

―――この心を捉えて離さぬ、愛しい女。


彼女を想うとき、心に満ちる感情は『愛しい』、ただそれのみだ。


敵として相まみえていたころならば、相打つ覚悟もできた。
だというのに、戦の趨勢に流されるように縁が結ばれ、手に入らぬと諦めながらも欲した姫が妃の地位に据えられるという、数奇な運命が巡ってきた。
そして互いに心を通わせることの叶った今では、彼女を害することなど、考えたくもない。


だが、敬愛していた父ですら、禍神に心を闇に侵された。
それと同じようなことが、起きぬという保証があるだろうか。
いや、神の御業でなくとも。
国の頂点という、悪意も善意もすべてにさらされる立場に身を置いて、あの真白な姫が、いつまで純白の心を保つことが叶うだろう。
無論、彼女を守るために労を惜しむつもりはいささかもない。
けれど人の心は脆い。力及ばぬそのときに、どんな変貌をしたとしても、不思議な話ではないだろう。


―――このようなことを思い煩うのは愚かしい、とは思う。

荒れた故国に恵みが戻り、戦にも終止符が打たれ。
惚れた女を娶り、愛し、愛されて。

今この時こそ、ようやく訪れた幸福に酔うことが許されるはずであろうに。




けれど時折、心の隙間を狙うように、その想像は夢魔の形を取って襲い来る。―――今宵のように。



細く華奢な腰を抱き、その胸に剣を突き立てる。
だらりと力を失う白い四肢や、光を失う蒼い瞳、赤黒く染まっていく胸元、どろりと粘りつく血の感触に、己が何を為したのかを知るのだ。

その残酷な光景を夢物語と笑い飛ばすには、自身の地位と立場が邪魔をする。
数十万の民と、一人の女。
治めるべき国と、個人としての情。
選ばねばならぬときがきたら、前者を選ばねばならないのが、皇というものだ。

国の在りようと、千尋の存在が、並びたてぬときが来たのなら。

―――俺は、あの夢を現実のものとするのか。









「―――アシュヴィン」

不吉で不毛な夢想に向けていた意識は、当の姫の声で現実に呼び戻された。
はっと振り向けば、寝台の上に身を起し掛け布で身体を隠しながらアシュヴィンを見ている千尋と視線が合った。

「すまない、起こしたか」

「ううん…………」

穏やかに微笑んで、千尋は首を緩やかに横に振る。
広い寝台の上を手探り、先刻脱がされた薄い夜着を探り当てると、しゅるりと袖を通した。
そして素足のまま寝台から降りて、傍近くまで歩み寄ってくる。
羽織っただけの夜着から白く伸びる脚は足取りも軽やかで、柔らかな緞子が足音を消してしまうことも相まって、まるで猫のようだ、と埒もないことを考えた。



「……眠れない?」

「いや、眠ったさ。目が覚めてしまっただけだ」

傍に近寄ってきた白猫の手を取って、ぐっと引き寄せる。
きゃ、と可愛らしい悲鳴をあげはするものの、すぐに大人しく身を委ねてくれる。
片腕で胸に閉じ込めて、もう片方の手でその白い頬を掌で包んだ。

見上げてくる蒼い瞳は、星を散りばめたように光を映して煌いている。
柔らかな金の髪は、蒼空の下では陽の光を、夜空の下では淡い月の光を纏う。
薄く弱い月明かりにも白く輝く素肌に薄物を纏っただけのその姿は、今宵交わした愛の名残を忍ばせる。

―――ああ、やはり愛おしい。

抱き寄せて、その肩口に顔を埋める。




「アシュヴィン……?」

戸惑いを見せる千尋の細い腰をさらに引き寄せて、強く抱きしめた。

「千尋………千尋」

甘えるように胸元に顔を寄せると、くすぐったいのか、千尋は僅かに身を捩る。
それ以外の言葉を忘れたように、幾度も千尋の名を呼ぶ。
千尋を抱きしめる腕に知らず知らずに力がこもり、苦しいとの訴えにようやくその束縛を緩めた。

千尋の白い指が、赤茶けたクセの強いアシュヴィンの髪に差し入れられて、優しく撫でた。
睦みごとというよりは母親が子供にするようなそんな仕草が不思議と心地よくて、強請るようになおも胸元に顔を埋めた。
夫のらしくない様子を訝しがりながらもされるがままに抱かれてくれている千尋の優しさに甘えて、しばしその柔らかなぬくもりに身を浸した。




「………俺は」

どれほどの沈黙を挟んでからか。
思考の迷路を幾許か彷徨ったのち―――結局それを口にした。

「いつか……お前を、常世の平和と引き換えにするのかもしれん。
国益とお前の存在が両立しなくなったら、俺は……お前を処断しなければならない。
そんな未来が来ることが、怖い。とても」


千尋を想う立場ならば、否定をしなければならないことだというのはわかっている。
だが口先だけで誤魔化しても聡い彼女には見破られるだろう。なにより、彼女を虚言で欺きたくはないという感情があった。
とはいえ、口を突いて出た言葉はひどいものだ。
彼女に詰られるくらいは覚悟をするべきだろう。
いやそれよりも、自分はまた己の至らなさで彼女を泣かせてしまうのだろうか。

しかし、いくら待っても千尋からは応えがなく、訝しげに視線を上げれば―――千尋は、微笑んでいた。

「………なぜ、微笑める?」

「嬉しいから」

「どこがだ。俺はお前に対してひどいことを言ってるんだぞ」

「だって……迷ってくれて、いるのでしょう」

千尋の白く細い指が、目の前の褐色の頬に触れた。




「アシュヴィン………」

流れてもいない涙を拭うかのように、千尋の白い指が、アシュヴィンの頬を滑る。

「千尋……」

力弱く呟くその表情は、いつもの彼からは想像もできないほどに揺れている。
誇り高く胸を張り力強く国を導く皇。
そんなアシュヴィンのこんな一面を知る人間が、どれほどいるだろう。



その場凌ぎの嘘や、耳触りのいい言葉でごまかすことなど、いくらでもできるだろうに。
そうしない彼の誠実さと、なにより、だからこそ感じ取ることのできる真実。

何よりも誰よりも優先してきた常世の国。
彼がどれほどに常世を愛しているのか、敵としてまみえていたころから、肌で感じてきた。

それほどに愛する故国。
それと天秤にかけてなお、迷いが生じるほどに。

それは迷いなく否定の言葉を聞くよりもよほどに真摯に千尋の心を打った。




自分とて、常世の皇妃であると同時に中つ国の王だ。
彼の愛に満たされているときは忘れてしまいそうになるが、故国は彼の国により一度滅ぼされた。
中つ国の国内―――特に橿原宮の膝元では、未だに常世を蛮族と詰り、怨嗟が根強く聞かれる地域もある。
彼が今まだ来ぬ未来に恐れを感じるように、いつか自分にも国と夫のどちらかを選ばなくてはならないときが、来てしまうのかも知れない。
そのときに彼を選ぶなんて今ここで約束することはできない。

彼を愛してる。その心に嘘はない。
だから最後の最後まで、そんな未来を避けるように努力を惜しまないだろうことだけは、言えるけれど。



でも、と千尋は夫の胸に身を寄せながら想う。

もしそうなったら。
彼の危惧するように、彼の手で処断される未来が訪れたのなら。

この命の事切れるその一瞬まで、彼の腕の中にいられるのであれば、それはとても甘美な最期であるように思える。

最期にこの瞳に映すのは彼の姿。
最期に感じるのは彼のぬくもり。

きっと、最期に呟く言葉も、彼の名だ。





「……今夜は、もう俺に近づかないほうがいい」

アシュヴィンは千尋の肩を押しやって、自分から離した。
こんな沈んだ感情のまま傍にいたら、気鬱を晴らすためだけに抱いてしまうかもしれない。
千尋に対して、そんな慰み女のような扱いをしたくなかった。


そんな感情の機微を知ってか知らずか、千尋は離された身体を再び擦り寄せてきた。

驚いて目を瞠る夫の頬に、千尋は静かにそっと指を滑らす。
さらりとした肌触りの―――乾いた頬。
そこに涙の痕はない。

泣かない、ひと。


人は、アシュヴィンのことを強い人だと称賛する。力も、心も。
それは確かに事実なのだけれど。

けれど、情を知らぬわけではない。
その証に、自分は毎夜あふれるほどの愛に満たされている。
感情を露わにすることに不慣れな彼の不器用な優しさに触れて、日々愛しさを募らせている。

そして時折哀しみに囚われた夜は、人知れず声なき慟哭の叫びをあげているのだ。


―――きっと、そんな姿を見せるのも、私だけだろうから。




千尋は夫の首に腕を絡め、自分からその唇を寄せた。
そっと静かに触れられた唇は、離れるときも静かだった。
触れるだけの、優しい口付け。
驚くアシュヴィンに、千尋は微笑みを向ける。

「―――愛してる」

その言葉に弾かれたように、アシュヴィンは目の前の細く華奢な身体を掻き抱いた。
ぐるりと姿勢を入れ替えられて、長椅子に押し倒すような格好になる。

「……近づくなと言ったのに、仕方のない奥方だ」

「アシュヴィンだもの」

それはとても曖昧な返答だったが、アシュヴィンはその真意を余すところなく酌み取った。
見開かれていく瞳に、己の意図することが伝わったことを悟った千尋は、綻ぶような笑みを浮かべた。


―――あなただから、この身も、この命も捧げるのだ。
愛し、信じ、慈しみ。―――すべてを委ねて。


それを理解したとき、アシュヴィンの心に暖かいものが満ちていった。
押し倒すという乱暴な姿勢ながらも、組み敷かれた千尋を見つめる視線はとても柔らかい。


鬱屈した思いはすでに何処かへと消え去り、胸にあふれるのは愛しさのみだ。
何かを言葉にしようとして開きかけた口を閉じ、后の頬を両手で優しく包むと、深くその唇を重ねた。
伝えきれぬ言葉を、口付けで伝えようとするかのように、幾度も、幾度も。
千尋もそれを懸命に受け止めて、広い背中にその白い腕を縋るようにまわした。



一生涯抱える傷が、互いの心にある。
薄くなることはあっても、消えることはないであろう、傷が。
けれど、この先に疼くことがあろうとも、痛みに負けることなどないと思える。

この優しいぬくもりが、癒してくれる。




いつしか外は薄く明るさを見せ始める。
明けていく夜とともに、心の闇も晴れていく錯覚を覚えた。




遠く、夜空の下で囀る小夜啼鳥はすでに眠りについていた。






普段は意識にも上らない不安が、不意に顔を見せた夜のお話。
暗い闇は常に巣食っているけれど、お互いがいるから根本的なところで救われてるんだよ、ってのを目指してみたんですが……うん、玉砕です。
この話では、サティも死亡ルートっぽいですね。