彼の者に幸あれ
一年前、王都に来たときには荷物は鞄ひとつで足りたっけ。
シルフィスは荷物をいくつかの鞄に納めながら、
長いようで短い間に増えた私物と、増えた想い出に苦笑を零した。
不意にコンコンとノックの音が響き、間をおかずにカチャ、と音を立ててノブが回る。
数センチ開いたところで躊躇うように止まったが、
その躊躇いを振り切るようにギィッと部屋の扉が開いた。
扉の奥から現れたその人影は、よく見知っている少女だった。
彼女は物問いたげにしていたが、荷物を纏めているシルフィスの姿を見て
ただため息とともに名を呼ぶだけにとどめた。
「…シルフィス…」
シルフィスは荷物を纏める手を止めて、少女を部屋の中に招き入れた。
「ちらかっていますけど、どうぞ、メイ」
メイは椅子に座ると、シルフィスの部屋を見渡す。
「…本気なんだ。アンヘル村に帰るって」
「……はい」
「騎士になる夢は捨てちゃうの?」
「…今の私では…心弱いままの私では、とうてい叶いませんから…」
人を想う心は、人を強くもし、弱くもする。
あの人が、その心に誰かを住まわせていると察したのは、いつのことだったろう。
思い返せばそれらしいことは幾度もあった。
私用で出かけたあの人の後を追い、墓前に語りかける隊長の姿を見たとき。
いつになく優しい声音で語りかけるその声が、
幾重にも折り重なった感情のあらわれであることを、
まだ恋も知らぬ頃の私ですら、感じ取ることができたのだ。
運命とは皮肉なものだとはよく言ったもの。
そのときを境に、私にとってただの上司ではないことに気づいてしまったのだから。
急な人手不足で、街の見回りに出た折りに、
私の実力不足のせいで怪我を負ったとき。
私は…言葉にしてしまった。
『わからないのです。自分がどのように変わっていくのか…。
でもたぶん、女性になってしまうのかも知れないです』
騎士となるために王都に登りながら、ただ一人の男性に心揺れる自分がいると…。
隊長はそのことに気づかなかったのか、あるいは気づかぬ振りをしたのか。
…それはもはや私には知るすべがない。
ただそのときの半ば諦めたような眼差しが、私の記憶にきつく刻まれた。
「…あの方の傍にいるのが辛いんです。苦しめそうで怖いんです。
隊長のお心のうちにある、…痛みを伴う何か…。
このままこの想いが膨らめば、いつかそれに触れてしまう。いつか暴いてしまう。
私は…あの人を苦しめる真似だけは、絶対にしたくないんです」
だから逃げるのだ。
王都にいなければ、隊長の傍にいなければ、
傷に触れることも、過去に想いを馳せるあの人の姿も見ずにすむ。
「それで…それで本当にいいの?」
「メイ…」
「そりゃ…過去は大切よ。あたしだって、もといた世界は一生忘れない。
だけど、それ以上に今が大事。…だからこそ、私はこの世界に残ると決めた。
あいつと離れたくないから…この想いを捨てたくはないからよ。
――あんただって、そうでしょ?
そばを離れようと思うほど辛いなら、何故想いを確かめる勇気に変えられ――」
「――メイ、止めてください!」
シルフィスは耳を塞ぎ、頭を強く幾度も横に振る。
メイははっとしてその口を噤んだ。
「…あ…ゴメン…勝手な理屈だったね…」
「…いいえ、私こそすみません…。ただ…私は…」
あなたは何をあきらめたのですか。
あなたは何を今求めているのですか。
あなたの心にいるのは誰ですか?
あなたの心に、影でもいいから私の姿はありませんか?
そう問えれば、私は楽になるのかもしれない。
だけど、それは否応無しにあなたを追い詰めることがわかるから。
「――結局、私は臆病なんです」
「それは…誰だってそうだわ。
好きだの一言が簡単に言えるくらいなら、誰も悩んだりしないわ。
でもね、縁は…結ぶものよ。向こうからやってくるのを待つものじゃないわ」
「……ごめんなさい、メイ。今日はもう……」
メイはこくんと頷き、シルフィスの部屋をあとにする。
その足並みと表情はいつになく重かったが、
不意にきっと顔をあげると、騎士団の寮を駆け足で飛び出した。
日は傾き街並みも茜色に染まり、往来の人々も家路につく頃、
メイは騎士団の一室にて、レオニスを前に真剣な表情で対峙していた。
「――だから!あたしが聞きたいのは理屈や建前じゃないのよ!」
ダンッ!と大きな音を立てて、レオニスの執務机が叩かれる。
「シルフィスは…怯えてるわ。
隊長さんに拒絶されることを、じゃない。
自分がその古傷に触れてしまうことをよ」
レオニスは、答えを返さず窓辺に歩み寄る。
窓の外には、いつもと変わらぬ王都の街並みが広がっている。
「シルフィスは…優しすぎるもの。
自分のせいで誰かが傷つくのを、出来うる限り避けようとしてるんだわ。
それが自分の思いを封じ込めることになってもね。
…隊長さんの傷がなんなのかなんて、訊くつもりはないわ」
一呼吸置いて、再びメイの手が机をダンッ!と叩く。
「だけどそのせいでシルフィスが苦しむのが、あたしは気に入らない!
理屈や建前なんて聞き飽きたわ。聞きたいのは、
隊長さんがシルフィスをどう思っているか、それだけよ!」
「…………」
レオニスは、そっと窓に手をあてる。
外の冷気がガラスを通してその身に伝わり、芯から冷えさせる。
「…お前は強いな。どうしてそこまで強く在れる?」
「何がよ!?」
「私があれの手を取るのは容易い。…取りたいとも、思う」
「――だったら!」
「だが」
言い募ろうとしたメイを遮るように、レオニスの言葉が続く。
「だが、それがシルフィスの幸せを約束するという自信なぞ何処にもない。
不幸にするかも知れぬと迷う…。
そんな奴に、彼女の手を取る資格があると思うか?」
その答えを聞いて、メイは顔を覆うように額に手をやった。
そしてひとつ、大きなため息をつく。
「…バカだわ。ふたり揃って大バカよ…」
コンコン――
レオニスの執務室の扉がノックの音を響かせる。
「――入れ」
レオニスの返答の後、ギィッと重い音を立てて扉が開かれる。
扉の影からは、亜麻色の髪の見知った姿があらわれ、
レオニスよりもむしろメイが驚きの表情を見せた。
「失礼します、クレベール大尉。頼まれていた資料をお持ちしました。
――って、メイ?なんでお前がここにいるんだ。
子供の遊び場じゃないんだぞ」
「なっ…キール!あんた人をどーゆー目で見てるのよ!
遊びに来てるわけじゃないわよ!大事な友達の一生の問題がかかってるんだから!」
キールはメイとレオニスを交互に見やると軽く肩をすくめた。
「…想像はつくが、何があったかは後で聞く。――門限が近いぞ」
メイはカッと顔を染める。
…それは半分以上怒りによるものであっただろうが。
故意にドスドスと足音を大きく響かせて扉へと向かう。
部屋を出る直前、息を大きく吸い込んで、どちらにともわからず叫んだ。
「――バカっ!」
バンッ!と一際大きな音を立てて乱暴に扉が閉められた。
「――シルフィスのこと、ですか。メイのあの様子は」
メイという台風が過ぎ去ったレオニスの執務室で先に口を開いたのはキールであった。
レオニスは苦笑のみをその答えとして返す。
キールは手にしていた資料をばさっと執務机に置くと、
半ば呆れたようにふぅっとため息をついた。
「…失礼。しかしまぁ、メイが怒るのもわかりますよ。
少なくとも、俺には貴方の行動の方が理解できない。
…いや…と言うよりは、納得行かない、といった方が正しいですね」
「…自分の手で不幸にするかもしれないと思うのは、おかしいことか?
彼女には、相応しい相手がこの先いくらでもいるだろう。
…過去に赦されがたい罪を犯した私などより…。
…大切だからこそ、私の手で不幸にはしたくはないのだ」
「――俺に、そういった男女の機微を解せと言うんですか。
…不幸にするかも知れないと躊躇する気持ちは分からないでもないですが、
このままじゃ、確実にシルフィスは不幸になりますよ。
アンヘル村に、彼女の幸福があるとは、俺にはどうしても思えない」
背を向け続けていたレオニスがようやくその身体を相手に向ける。
「何故だ?あそこは彼女のふるさとだ。
愛する家族と、親しんだ友人が住む場所だ」
「何故もなにも。そこに貴方はいらっしゃらない。
――言わせないで下さいよ。こんな分かり切ったこと!」
キールは踵を返すと、彼自身も退室する。
扉に手をかけ振り向くと、自分以上に不器用な男に最後の進言を残した。
「不幸にさせたくないなら…幸せにしてやればいいじゃないですか。
俺は…勝手に呼び寄せたメイを、俺自身の我が儘でこの地に留めてしまった。
だから俺は全身全霊を持って彼女を愛する。彼女を守る。彼女を幸せにする。
それが俺の我が儘を…俺の気持ちを受け入れて留まることを望んでくれたメイの、
その気持ちに応えられる唯一のことだと思っていますから。
……差し出がましいとお思いでしょうが、お心の隅にでも留めておいてください」
ぱたん、と閉じられた扉を、暫くレオニスは見つめ続けていた。
空は闇の領分となり、遙か遠くに瞬く星はようやく姿を見せる。
シルフィスは、一冊の本を手に取った。
レオニスがシルフィスの誕生日に与えたものだ。
本の脇が擦れてほつれるほど何度も読んだ。
「…これは置いていけないよね」
ぎゅっとその本を胸に抱きしめると、
この場にいないあの人の代わりのように呟く。
「好きでした…いえ、好きです。いつまでも…」
コンコン――
シルフィスは、夜更けの来客に軽く身を強張らせる。
見習いとはいえ騎士団寮の一棟にそうそう不審者が来るものでもないが、
それでも警戒してしまうのは、叩き込まれた騎士の性分か。
それとも、性を分けたアンヘルの、女としての本能的なものなのか。
「……はい、どなたでしょうか」
自分から鍵を開けることはせず、相手が名乗るのを待つ。
しかし返ってきた声に、シルフィスは警戒とは違う理由で身を強張らせた。
「…私だ、シルフィス」
「――っ!」
シルフィスは慌てて扉を開く。
いかなるときであろうともこの人に対して閉じる扉を、シルフィスは持たない。
開かれた扉の先には、見慣れた長身の黒髪の男が優しげに見つめていた。
「……隊長」
呼びかけてしまってから、シルフィスはすっとレオニスから視線を逸らす。
いつもは真っ直ぐに見返してくるシルフィスの碧の眼差しが、
今日は逸らされる。頬を染めながら、だが辛そうに。
「夜分遅くに済まない。…少し、散策につき合ってくれないか」
夜の王都は、昼間の喧噪が嘘のように静まりかえっている。
時折吹く風に、樹々がざわざわと葉擦れの音を立てる。
数歩先を歩くレオニスの背中を見つめながら、
シルフィスは黙々と傍に付き従っていた。
互いに何を言うでもなく、つかず離れずの距離でただ歩く。
その沈黙に耐えられずシルフィスが口を開こうとしたとき、
レオニスは、夜空を振り扇いだ。
「…私は、お前の良き上司で在らねばならないと思っていた。
お前の無限に近い未来を、私の手で狭めてはならないと…」
「……隊長?」
「だから、お前に惹かれていく自分を知りながら、ずっと戒めてきた。
自分は過去に誓いをたてた身だと。誰かの手を取ることは許されないと。
……だが、それは過ちだったかも知れん」
レオニスの視線が、夜空からシルフィスへと流れるように移る。
いつしかシルフィスを捕らえて離さなくなっていた、海のように深く、蒼い瞳。
女神の象徴、大樹の若葉を思わせるような、シルフィスの鮮やかな碧の瞳。
それが互いを映しあい、しばし無言の時が流れる。
「私はただ、認めるのを恐れていただけかも知れないな。
こうしてお前の瞳を見れば、それに惹かれるのは違えようない事実だというのに。
お前という存在に惹かれてしまった時に、すでに誓いは破られてしまっていたのだ。
……だから、これが女神が私に与えた最初で最後の機会だと思うことにした。
――シルフィス。もし…お前さえよければ、私の傍にいて欲しい」
そう言って、レオニスはシルフィスに手を差し伸べた。
――今、何を言われた?
…傍にいて欲しいと?…隊長の傍に?
私は今、夢を見ているのではないだろうか。
目の前の人が見つめているのは、本当に私なのだろうか。
――ああ、夢でもいい。幻でもいい。
けれどこれが現(うつつ)ならば、私は何もかもを捨てられる。
シルフィスは、言葉の意味を理解すると、大粒の涙を零した。
そして、迷うことなく差し伸べられたレオニスの手に、自らの手を伸ばす。
「私の手を取ってしまったら、後戻りは出来ないぞ」
「戻る必要など、どこにもありません。
私はあなたを想ってこの身の性を分けました。
私のとるべきが、あなたの手以外にありようはずもありません」
躊躇うことなく重ねられた白い手に、レオニスの唇が降りた。
「――アンヘル村へは、私も行こう」
「え…?でも…」
「勘違いするな、シルフィス。
お前は『帰る』んじゃない。私と共に『行く』んだ。
…お前のご両親と、長老殿に、結婚の許しを頂きにな」
「――はい、隊長…いえ、レオニス」
近い将来に互いを生涯の伴侶とする二人は、しばし夜の帳の中寄り添っていた。
fin.
シルフィス主体の初創作です。一番好きなキャラがシルフィスなのに、今までシル主体の話を書いていなかったというこの驚愕の事実(笑)。
そしてこっそりキルメイ。(どこがこっそりや)
シルフィスもレオニスも、どこか一線を置いてチャンスを逃がすタイプではないかと思っています。
周りからお膳立てされてようやく一歩を踏み出す…そんなじれったい二人を書いてみたら、ほんとに死ぬほどじれったい二人になってしまったです(笑)