朔夜の月
静かな、夜だった。
白梅も花を綻ばせはじめ、夜の寒さも緩み始めた、冬の終わり。
さらさらと紙の上を筆が走る音と、時折思い出したようにチリチリと鳴る灯火だけが、この宵の空間をかろうじて静寂から切り取っているかのようだった。
仏門に入り尼僧となってから、一日の終わりに写経をすることは半ば習慣となっていた。
それは黒龍の神子として従軍を命じられていたころには途絶えていたことだ。
目まぐるしく情勢が動き、その気を抜けば流される荒波の中、みな生き残ることに懸命で。
けれど、悲嘆の淵に沈んでいたばかりの自分に、掛け替えのない友との出会いを与えてくれた思い出深い1年余り。
幾刻そうしていたのか己自身でも曖昧になるころ、漸く朔はその無心に筆を走らせていた白い指を動かすことをやめた。
かた、と筆を硯に置くと、書き留めた書物を纏める。
手本としていた経文を丁寧に螺鈿細工の文箱に仕舞う。
まだ真新しさの残るその文箱は、別れが近いころ、友が贈ってくれたものだ。
経文を納めた文箱にきちんと組紐をかけると、文机の傍らに置いていた高杯灯台の火を燭台の蝋燭に移しとる。
灯台の炎を消した途端、部屋は宵闇に染め渡り、手元の蝋燭の灯火だけが、闇に抗うように揺らぐ光を纏った。
燭台の明かりを頼りに文箱を慎重に抱えると、妻戸を押し開く。
ひゅう、と廊下を通り抜ける夜風に、髪と袖をなでられる。
都を吹き渡る風は冷たさを隠してきたものの、その眼前に広がる月の懸からぬ晦(つごもり)の夜空は、頬を触れていく風の温さを、より涼やかに感じさせる。
戦の中、友と肩を寄せ合い見上げた月も、今日ばかりは空に懸からない。
晦(つごもり)は、月隠り(つきごもり)。
その別の名を、朔、とも呼び習わす。
「ほんとうに、まるで、私のようね……」
自嘲気味に呟くと、文箱と燭台を手にしたまま、庭先に面した渡殿で暫し朔夜の空を見上げる。
愛しい龍はすでにいない。
対である片割れの神子も己が故郷へと還った。
鎌倉への帰郷を勧める兄の心遣いを断って、
思い出深い京で再び一人静かに余生を送る自分は、
まさに宵闇に昇ることすらしない晦日(みそか)の月のよう。
知らず、深いため息が零れる。
自分でも、わかっている。
夜毎、写経に励むのは、仏法に道を見ているわけでなく、
ただ無心になるため、俗世の煩わしさから逃れたいがためだ。
静やかに穏やかに、時を重ねる日々。
それが自らの逃避の産物であることも、重々理解している。
けれど、いとおしい存在が傍らにないことはやはり心を沈ませるのだ。
愛しいものを失って、どうして笑えるだろう。
仕えるべき龍を失い、名ばかりの神子だった自分に存在意義を与えてくれた対の存在も、もはや失われてしまったのに。
涙など、とうに枯れ果てた。
この先の長い年月を、一人静かに暮らしても、誰が咎められようか。
突然、びゅう、と一際強い風が、庭先を吹き抜ける。
燭台の炎が一瞬燃え上がったかと思うと、次の瞬間には風に負けて吹き消えた。
「!きゃあっ」
がちゃ、と耳障りな音が、足元に響く。
突然の風と、周りを覆った闇に驚いて、朔は文箱を取り落としていた。
炎が消えて役目を果たせなくなった燭台を脇に置き、慌てて暗闇の中を手探りで床に落ちたものを探る。
床を這う白い指が文箱を探り当てると、ほっと安堵のため息が漏れた。
取り落とした衝撃でか、きちんと結んだはずの組紐が解けてしまっているが、幸い蓋がずれただけで経文は箱に収まっているようだ。
「………あら?」
指に触れる文箱に、いささかの違和感を感じ、朔は首を傾げる。
螺鈿の箱とその蓋、組紐、経文、それですべてのはずだ。
だが、指に触れるこの感触は、そのいずれでもない。
訝しりながらも慎重に文箱に蓋をして腕に抱えると、少しは闇に慣れてきた目に映る物影と、長くこの屋敷に住んできた自分の記憶を頼りに、ゆっくりとその場を離れた。
燭台だけはその場においていくことになったが、明朝にでも回収しに来ればすむだろう。
部屋を移して、灯りの下、改めて文箱を開ける。
文字通り明るみにでた違和感の正体は、文箱に仕組まれた二重蓋と、そこに忍ばせてあったであろう、一枚の書状。
先の衝撃で二重蓋が外れたのだろう。
その書状を手に取って、恐る恐る開いてゆく。
そこにあったのは、見覚えのある望美の手蹟。
この世界の文字は書きにくい、と愚痴をこぼしながら、たどたどしくも一生懸命文字の練習をしていた友の姿を懐かしく思い出す。
それは今でもけして流麗とは言いがたい文字だったが、そこに込められた思いはいかばかりか。
微笑ましく思いながら、朔はその筆致を追っていく。
朔が手紙を読むころは自分はいないであろうこと、
直接手紙を渡す勇気をもてなかったことに対する謝罪から始まり、
それでも、いつか見つけて読んでくれると信じている、この手紙が自分のいた証になるといいという願いが続く。
『 朔の名前は、月のない夜のことだって、教えてくれたよね。少し寂しい名前だって。
でもね、朔。私はそれを聞いて、思ったの。月が昇らない日なんて、ないんだよ。
だって、朔の日の月は、太陽と共にあるんだもの。』
はっと、朔の瞳が見開かれる。
たいよう、と口の中でつぶやいて、それが彼女の世界での日輪の呼び名だと思い出す。
『 どうか、心を凍らせないで。
たとえ瞳に見えなくても、朔夜の月はお日様と共にあるように、朔にこそ、日の光の中を歩くのが相応しいのだって、私はそう信じてる。』
ぽた、と紙に雫が零れ落ち、薄い染みを作っていく。
『 大好きな朔。大切な朔。
どんな世界にいても、私が貴女を大切に思ってること、どうか忘れないでいて。
朔の人生に幸多からんことを、遠い空の下で、祈っています。
春日 望美 』
しばらく食い入るように、その文面を見つめ続けていた。
はらはらと、頬を伝う雫をぬぐうこともせず、広げたままの書状を胸に抱く。
「ありがとう、望美……」
口からこぼれ出るのは、今は遠い友への謝辞の言葉。
涙に濡れる瞳の奥に浮かぶのは、別れの瀬戸際まで朔の手を握り締めて、幸せになってね、と何度も繰り返し、別れを惜しんでくれた、優しい友の顔。
そう、まさに春の日輪のような輝かんばかりの笑顔を振りまいていた、なにものにも代え難い、大切な友の姿。
彼女の対として、胸を張っていられる自分でありたい。
自分の愛した龍の神子として、相応しいと誇れる自分でありたい。
朔は丁寧に書状を閉じると、そっと胸に抱いて廊へと出て、夜空を見上げる。
そこにあるのは、相も変わらず月の浮かばぬ晦の夜空。
けれどもう、見上げる自分に孤独はなく、暖かい気持ちが胸に満ちている。
―――ああ、そうだ。
初めて黒龍とまみえたとき、その美しく光る黒き龍麟がまるで夜空の星々のようだ、と思った。
―――星空は、けして、寂しいだけのものではなかったはずだった。
彼を偲んで泣くのも、これで最後。
頬をすべり落ちる雫たちはこの夜空に散らばって、朔夜を彩る星になるだろう。
鎌倉に、帰ろう。
こちらの世界にもたしかにいる、自分を心配してくれる人たちのところへ。
きっと、明日にはもう少し、自然に笑えるようになっていると思うから。
これからは、ちゃんと前を見て歩いてゆける。
春の日差しのようなあの子に、負けない自分になるから。
―――きっと、なれるから。
お題は『時には泣きたくなることもある』でした。出来上がってみると、『望美に泣かされちゃいました☆』………あれ?
実は最初は黒朔か弁朔で恋物語にしようかと思っていたのですが、このお題ですと悲恋になりそうだったのと、朔の日の月は太陽と同じ動き(日の出と月の出、日没と月没がほぼ一緒)、というんで、せっかくだから、望美の『春日』って苗字を有効活用しようと!(努力の方向をいささか誤ってる気がしないでもない)
とにもかくにも、楽しく参加させていただきました!ありがとうございました〜!