朧月夜



神子様は、その後目を瞠る程の早さで力をつけられていった。
次々と四神を封印され、今日…最後の四神、青龍を封印する事となった。
明日は…神泉苑で、鬼の首領との決戦となる。

ぼんやりと霞のかかった朧月夜。
わたくしは、夜の庭に降り立ち、夜風に揺れる花橘を眺めていた。
神子殿に誘われ、昼の庭を愛でたのは、そう遠い過去ではないのに、
何故か、その頃の自分が、ひどく懐かしい。
二月にも満たぬ過去を懐かしむほど、わたくしは時を過ごしていないのに。
自分でも幼いとわかっている躯にそぐわぬ心を持て余す。


「藤姫様、夏とはいえ、夜は冷えます。
お身体に障ります。どうかお戻りを」

屋敷から、頼久の声が聞こえてきた。
降り向きはしなかったが、足音が庭の砂利を踏む音に変わり、
わたくしの傍まで寄ってきたのがわかる。

「頼久、わたくしのことは心配しなくても大丈夫です。
わたくしのことよりも、神子様のお傍についていなさい」

「…いえ、神子殿のお傍には、天真がついております故…」

平静そうに装っていながらも声に滲み出る感情。
頼久のそんな声を聞いたのは、いったいどれくらいぶりだったろうか。

「わたくしは、もう暫くしたら部屋へ戻ります。頼久、お前も下がりなさい」

「…ですが…」



「やれやれ、頼久は心配性だ。
姫には、私が付き添って差し上げよう」

突然聞こえてきたその声に、わたくしは驚いて振り返る。
頼久は気配に気づいていたのか、その人物が誰かを認めると、
少し構えていた姿勢をこころなし崩した。

「…友雅殿でしたか。…このような夜更けにいったいどのようなご用で…」

「ああ、邪推はしないでくれたまえよ、頼久。
左大臣殿に少々用事があったのでね」


庭の樹々の枝を腕でよけるようにして、友雅殿はこちらへと歩いてこられた。

「…この時刻にお会いできるとは思わなかった。
──藤姫、最後の夜だ。夜の庭を愛でながら、少し語り合いませんか」

最後の夜…。そう…これで最後なのだ。

「──頼久、お前は下がりなさい」

「姫様…、…ですが…」

「よいのです、お下がりなさい」

頼久はしばらく逡巡していたが、一礼すると、その場を去った。


「…お役目大事の頼久にしては、あっさりと引き下がったな」

友雅殿のそんなつぶやきがわたくしの苦笑を誘った。


…別れの時が近づいている。
神子様との。それから八葉の方々との。
このような時がくるのは、はじめからわかっていたこと。

「わたくしのつとめも…明日限りでございますね…」

そして、貴方とともにいられるのも…──
そう続けたくなった言葉を、胸の中だけに納める。

友雅殿は、驚いたようにわたくしを見て、そして優しく微笑まれる。

「そのようなことはないでしょう。
姫は今までもこれからも、私たちを導く光なのですから」

友雅殿の言葉に、わたくしはゆっくりと首を横に振る。

「明日が終わり、勝つことが出来たとしても…。
わたくしの星の一族としての残された使命は、
一族の血を残すことのみとなりましょう」

占術師としての力は残っても、それを求められる場はもうないだろう。
なにより、星の一族とはいえ、わたくしはまだ幼すぎる。
そして、どんな形であれ、神子を失えば八葉の役目も終わる。
すなわち、星の一族と八葉としての関わりは、あって無きの如しものとなる。

そうなれば、わたくしたちは神子様があらわれる前の間柄に戻る。
『左大臣家の姫』と『橘少将』。
それだけのこと。
………それだけのことが、何故こんなに胸に痛いのだろう。



この庭には四季折々の花を愛でられるよう、いくつもの種類の樹がある。
今、夏の庭を彩るのは石楠花に、それから──花橘と藤の花…。

さわさわ……風に揺られ、葉ずれの音がわたくしたちを包む。


かさり、と足元の草を踏みしめて、友雅殿が一歩、歩みを進める。

「…泣いておられるのですか、姫」

優しくそう語りかけられ、初めて自分が瞳に涙を湛えていたことに気付く。
わたくしは、慌てて着物の袖で顔を拭った。

「…泣いてなどおりません。泣く理由など…」

「──淋しいですか」

「ですから、泣いてなどおりませんと申し上げて…」

言い募るわたくしのその言葉を裏切るように、頬に一筋の雫が流れた。
友雅殿は苦笑を浮かべる。
…わたくしは、ゆっくりと肩の力を抜いた。

「……淋しくないといえば嘘になりますけれど…。
神子様は、元の世界へともどることを望んでいらっしゃいます。
それが神子様の幸せになるのですから…きっと笑ってお別れできますわ」

そう、この涙は神子様との別れのためと。そう思って欲しいと言外に匂わせて。

――きゅっと口を引き結ぶ。
口に出してはいけない。言葉にしてはいけない。


「──夜も更けてまいりましたし、わたくし、もう休みますわ」

唐突にそう言って、わたくしは友雅殿に背を向け、屋敷へと歩き出した。
友雅殿の表情を見たくなくて、振り向きもせず。
御簾の中に身を滑り込ませると、わたくしはぎゅっと自分の身体を抱きしめた。

──言えない。言えるわけがない。
友雅殿を目の前にして、貴方に逢えなくなるのが辛いから、などと…。

『想いはゆっくりと育つものですわ』

神子様にそう言ったのは、わたくしだった。
わたくしも、自分の想いを育ててみるつもりだった。
だけど、それは馬鹿な考え。
育てたところで、どうなると言うのだろう。

わたくしの相手は、相応の歳になれば、いずれ父上が決める。
そして、わたくしはそれに逆らうことは叶わないのだ。
どなたかを想っても、それは自分を苦しめるだけ。
朧気な想いは朧気なままでいい。



ふと振り向き、御簾越しに庭に目をやると、
友雅殿は――まだ、そこに佇んでいらした。
こちらを、見つめて。

わたくしが去ったことで、お帰りになったとばかり思っていたのに。


「……友雅殿?」

口から思わず名前がこぼれる。
呼びかけてどうするのかなどと、全く考えていないのに。


友雅殿は、ゆっくりと空を見上げた。

「朧月夜――ですね、藤姫」




「霞のかかる月ですら、周りの星々の輝きはそれにとけ込んでしまう。
だが、わたしはそこに星があることを知っている。
月のない夜にも彷徨う者には、それこそが道標だ」


友雅殿は、朧月の薄明かりの中で、ゆっくりと月からこちらへと視線を移す。
その優しげな瞳に、その切ない表情に。
わたくしは視線を逸らすことも叶わず、ただ御簾越しに見つめた。

「星を…導きの星を、自分だけのものにしたいと思うのは、
愚かな考えでしょうか、藤姫」

わたくしがその言葉の意味を理解する前に、夜風が庭を吹き抜けていった。
わたくしと友雅殿の間の、見えぬ壁を形作るように。
風が収まると、友雅殿はふっと顔を伏せる。
すぐに再び顔を上げたときには、いつもの、掴み所のない表情を浮かべていた。

「……詮無いことを言った。…愚かな彷徨い人の、戯れ言と聞き流してほしい」

友雅殿は、踵を返し、わたくしに背を向けて去っていく。

「――友雅殿!」

御簾越しに、もはや振り向かぬと分かり切っている名を呼ぶ。
追いかけられれば、どんなに楽だったのだろう。
けれど、そのことにすら思い至らぬほど、そのときのわたくしは幼すぎた。


庭の樹々と宵闇にとけ込むように、友雅殿は去っていった。




その夜、わたくしは眠らなかった。

色々な…本当に色々なことを考えていた。

この京のこと。
今は亡き母上のこと。
左大臣である父上のこと。
神子様のこと。
八葉の方々のこと。
…友雅殿のこと。

――わたくし自身のこと。

そんな風に思いを馳せながら、わたくしは夜明けを待った。
一つの決意を胸に秘めて。




翌朝、神子様への元へと伺おうとしたわたくしを、女房が呼び止めた。
父上がわたくしを呼んでいると、それだけを伝えると、そそくさと去っていく。



「お呼びでございますか、父上」

「おお、藤か。よく来た」

一時期病に臥されていた父上は、すでにかなりの回復を見せている。
大事をとって床についていたが、わたくしを見るなり、破顔なさった。
だが、すぐに鋭い表情に戻られ、真剣な声音で言葉を続けた。


「藤。お前は星の一族の最後の一人だ」

「はい」

「おそれ多い事ながら、帝も一族の行く末に、いたく関心を示されておられる」

「はい」

「星の一族の血を絶やすわけにはいかぬ」

「はい」

「そこで、わしはお前の婿がねを決めておきたいと考えておる」

「…………………」

「わしもまだ時期尚早とは思うが、なに、実際に結婚するのは先の話だ。
こういうことは早いほうがよかろう。
わしの目にかけて、出世頭の若者を見つけてやろう」

「…………………」

「異存はないな?藤」



いつか来る話ではあった。
この話をされたのが以前だったのなら、わたくしは頷いていただろう。
だが、わたくしは、決意を込めて父上を見返した。


「父上のお心遣いはありがたく思います。
ですが、わたくしとて一個の人間としての意志がございます」

わたくしは一度そこで言葉を切った。

「わたくし自身が心より慕う方こそ、我が背の君と仰ぎとうございます。
己の心に背き、他の者により選ばれた方の妻となっても、
真実、星の導きを受ける者は生まれはしないでしょう」


父上はわたくしの言葉を黙って聞いていた。
言葉を切ったわたくしと、父上との間に、沈黙が流れる。
わたくしの言った言葉は、父上への反抗ととられてもいたしかたないような言葉。
父上の返事一つで、わたくしはこの邸から放り出されるだろう。
だが、わたくしの心と表情は不思議に落ち着いていた。

ようやく父上が口を開いた。


「――娘は、母に似るか…」

苦笑をこぼしながら呟かれた言葉に、わたくしは虚をつかれる。

「お前の母がわしの元へ嫁ぐとき、周囲から反対されたものだ。
身分や環境の違う相手だと。きっと不幸になるぞ、とな。
周りの反対の声に対して言った言葉が、藤。お前の今の言葉とそっくりだ」

「――母上は、幸せでしたわ。
お亡くなりになる直前まで、父上と出会えたことが最高の幸福だと、
何度もわたくしにお話しして下さいました。
わたくしは、母上と父上の娘であることを誇りにしてまいりましたわ」

わたくしの言葉に、父上はふっと優しげな笑顔を見せてくださった。


「――好きにするがよい。藤よ。お前は星の娘だ。
暁に輝く明星となるもよし。月にかすむ細い光となるもよし。
お前自身の望む道を、歩むがいい」


わたくしはただ、深く頭を垂れた。


退出しようとしたわたくしに、父上は声をかけた。

「お前の想う者は…どのような者なのだろうな」

わたくしは、柔らかく笑む。


「眩い月夜にも、霞んで消える星の存在(こと)に
想い馳せてくださるような…そんなかたですわ」

花を咲かすことのないかも知れぬ想い。

けれど、わたくしは後悔しないだろう。
わたくしは星であらねばならないのだから。
導きの星となるのが、わたくしが己自身に課した運命。
わたくしの望みは、あの方の行く末を照らす道標となること。

わたくしの心には、もはや、しっかりとあの方への想いが芽吹いていた。

友雅×藤姫第三弾〜。だいぶ前に書き始めていた話です。
友雅サイドから書く予定でしたが、藤姫視点からに書き直しました。
っていうか、友雅視点は次回へ続く……ああっ、すみませんすみません!
これまだ終わってません〜〜っ(汗)
夕月夜、宵月夜ときて、朧月夜です。今回、藤姫の恋心に視点を絞りました。
いや、書いてて「…10歳じゃない、これ絶対10歳の台詞じゃない〜!」
と何度想ったことか。