熱情の宵





月明かりが冴え冴えと美しい、春の宵。

月が中天にかかる頃、かたん、と窓が鳴った。


窓の外には、月を背に、紅の髪が夜風に散る。

葵は自室の窓に寄ると、その掛け金を外した。
――夜毎姿を見せるその訪問者のために。



キィ、と些か耳障りな音を微かに立てて窓を開くと、
ふわりと重さを感じさせない動きで、その紅は部屋へと舞い降りる。


「今宵は何用じゃ」

「何もない」

繰り返しすぎて決まり文句になりつつあるやりとり。
だが、続く言葉がなにやら嬉しくて、飽きもせずまた繰り返す。

「逢いたいゆえに来る。それだけのこと」




彼の者の、些細な変化が気になったのは、いつのことだったか。


少なくとも、故郷にあった頃は、こうではなかったような覚えはある。
喧しいほど話す者でなかったことは確かだが、寡黙というには口数が多かった。
揶揄や嘲笑は日常茶飯事。葵自身、言質を取られぬよう、気を張っていた。

……そうされたい、というわけではない。
だが、葵がこの地に残るを決めてから数ヶ月。

――この紅い妖が訪れる夜は、静寂が長かった。




何をするでもなく、ただ同じ時間と空間を共有する逢瀬の狭間。


――また、じゃ。

葵を包む、絡みつくような視線。
それを感じて彼の者を振り向けば、微かに苦悶の表情を浮かべる紅丸と視線が合う。

苦しげ、というよりも、切なげに目を細め、
どこか熱に浮かされたように、揺らぐ瞳で葵を見つめる。

そして決まって――その眼差しに、葵の胸は落ち着きを失う。


気付いてしまえば、気に掛かる。
幾度も問おうとし、そのたび言葉を飲み込んでしまう。


葵は、紅丸へと指を伸ばしかけ――彼の首飾りへとその指の触れる先を変えた。

玻璃玉が擦れ合って、から、と音を立てる。

から、から、からん。

黄昏色の玻璃玉が幾度も単調な音を奏でる。
飽く事を知らぬが如く、玩具による児戯のように玻璃玉を弄る。

「――……童か、ぬしは」



――からん。

流石に些か呆れ混じりでそう言った紅丸に、
葵は唐突に玻璃玉を弄るのをやめる。


――いっそ本当に童なら、悩みもせずにいたろうがの。

葵が玻璃玉を弄るをやめれば、その途端、
先程の呆れた口調は何処へやら、
葵の手を離れた玻璃玉が胸元へと戻るのを待たず、
再び紅丸の瞳に苦悶が宿る。




――その瞳は、ただただ、ひたすらに葵を追っていた。








不快と言うにはあまりに紅丸のその面差しは曖昧で。

だが、そんな貌をさせている、というその事実が、葵には耐え難かった。


その視線を避けるかのように、紅丸に背を向ける。
背を向けても感じる視線に心揺らぐ自分の身体を抱き、
二つ三つ深呼吸をすると、意を決して問いかけた。


「……紅丸。おぬし……私の傍にいるのは嫌なのか?」


葵を引き留めた彼自身にしてみれば意外すぎるその問いに、
即座には反応を返せず、一瞬の沈黙が流れた。
だが思い詰めている葵には、逆にそれは問いへの肯定の意味を強くする。

「………馬鹿な事を」

思わず漏らされたような声音のその言葉に、
葵はキッと視線をきつくして、振り向きざまに睨み付けた。

「――そうでないならば、どうしてそんな貌をする!」



突然響いた葵の激昂がやんだ後の部屋は、かえって静けさを強調する。
窓から差し込む月明かりのみが、二人を照らす。


「何かを堪えているような、耐え忍んでいるような、
……そんな辛そうな貌をして、何でもないと言い張るつもりか」

絞り出すように言った葵のその言葉に、
紅丸は天井を見上げ、くつくつと低い自嘲の笑いを響かせる。

「――ぬしに見咎められるようでは、我も底が知れるな」


やはり何かを耐えていたのかと、葵はぎゅっと手を握り締める。

「……なにが、おぬしにそのような表情をさせる。
私がおぬしの傍にあるのが悪いのか?それとも――――」

その言葉が終わらぬうちに、紅丸の指が、葵の白い手首に掠めるように触れる。
突然のその指の感触に、葵の身体がびくっと震える。


「そうさな。ぬしがいるからじゃ」

「――…っ!ならば、私のところへ来なければよかろう!」

「…………まったく、鈍いのか鋭いのか。つかめぬな、ぬしは」


葵の手を掠めるように触れていた紅丸は、いつしか葵の腕をしっかりと掴んでいた。
軽く力を込めて引き寄せれば、葵の身体はふわりと紅丸の腕の中に収まる。

本気で抗うなら振り解ける程の緩やかな縛めに、葵は戸惑う。


そうされて、初めて葵は気付いた。
――紅丸から触れるは、あまりに久しいことだということに。



「どうしても知りたくば、言わぬでもない。
――だが、口にしたのち、己を抑える保証はせぬ」

さらさらと流れる葵の豊かな黒髪を指で梳きながら囁かれるその言葉に、
何故か早鐘を打つ胸を持て余しつつ、葵は身じろいだ。


「――何も聞かずにおれば、今しばらくはこのままでいられるぞ」

紅丸の言葉に、葵は頸を横に振る。

たしかに、このままではいられるだろう。
このまま――それはすなわち、紅丸に苦悶の貌をさせたままに。



式と主であった頃ならば、それが変わらぬ関係を約していた。

日野平の総領である限り、紅丸は、主の傍を離れない。
――たとえ、魔に人が、あるいは人に魔が憎まれていようとも。


その間柄を、自ら望んで壊した。

契約という鎖で安定を約された『主従』よりも、
紡ぐ言の葉の一言一言が互いの間柄を揺らがせようと、対等に在りたい。それを望んだ。

「言え。……言ってくれ。紅丸」




紅丸の掌が葵の頬に触れ、視線が絡むようにその貌を上げさせる。
逸らすのを許さぬかのように、葵の双眸を覗き込む。


「――葵……」


囁くように言ったその声と葵を見つめる視線は、なにか熱いものに満ちて、
その瞳で貫かれた葵は、訳も分からずさらに動悸を速くする。

――この声で名を呼ばれることは、こんなにも心を落ち着かせなくするものであったか……?

吐息が肌に触れるほど傍近く、紅丸は葵の耳元で熱混じりの声で囁いた。


「――葵が、欲しい」


「――――………っ!」





故郷に在りし頃は、望んでもけして叶わぬものと諦めていた。
いや、もとより望む事すらやめていた。

けれど、故郷を遠く離れた異境の地にて、叶わぬはずの奇跡が起った。

人として生きること。
葵をこの地に留めること。
――愛した女と、ともに生きること。


使命と――故郷と天秤にかけさせ、それでも葵は紅丸を選んだ。


いつか帰ると言った者が、己のために残ると言う。
手に入らぬと諦めていた存在が、手を伸ばせば触れられる。

それは何にも代え難い歓びとなった。


だが、魔であれ人であれ、男とは愚かな生き物だ。
傍に在るだけでは飽きたらず、全てが欲しいと、求めてしまう。



逢えば、焦がれる。

長く美しい黒髪に指を絡め、白く透ける肌に唇を這わし、その肢体を蹂躙したくなる。


「ぬしの女としての幼さも、潔癖さも、我が誰より承知している。
ゆえに、ぬしが女として成熟するまで今しばらく待つつもりであった。
だが、そう思い通りにはならぬ――それが劣情というものよ」



手折るには、早い。
だが、触れられぬまま傍に在るのはなかなかに苦痛を強いる。

それでも、逢わずにいるのは尚辛い。


――それを言わぬが、せめてもの矜持。



囁かれた紅丸の言葉に、身体中がかぁっと熱くなった己の身を感じながら、葵は瞳を閉じる。


「………そうか……そういうことか」

時折感じたあの熱に浮かされたような、絡むような視線は、彼の『雄』。
そして、何をされるでもないのにどこか疼くように身体が熱くなるあれは――


「……無理強いはせぬ。嫌なら抗え。振り解け」

保証はしないと言っておきながら逃げ道を用意してやる紅丸に、
葵は自分の心の秤が一方に揺らいだのを感じた。


緩く抱かれたまま、葵はこつ、と紅丸の胸に額を打ち付ける。

「――紅丸。私も……己の中の『雌』を自覚することが、ないではないのだぞ」

「葵……?」


紅丸からは、俯く姿勢となった葵の表情は窺い知れない。
だが、注意深く見れば、耳朶が薄紅に染まっているのがわかっただろう。



一瞬にも永遠にも感じられる沈黙の後、ようやく顔を上げた葵は、
真っ向から紅丸を見据え、静かな決意を込めて、言葉を紡いだ。

「おぬしが求めるのなら――覚悟を決めようではないか」



「――……待て。覚悟がどうという話なのか」

「覚悟という言葉が不服なら、勇気や踏ん切りと言い換えてもよい。
いずれ来るべきことが、今宵となった。……それだけじゃ。
――どのみち、おぬし以外ではあり得ぬ」


敵として対峙した折、己の命を永らえるより――紅丸を殺すより、殺されることを選んだあの時から。
あるいは、残れと言われ延べられた手を取ったあの時から。


「――今の私は、髪の一筋まで、おぬしのためにある」


窓から差し込む月明かりに照らされ、紅丸を見据えた葵の姿が宵闇に美しく映える。

――いつの間にか、女人の貌をするようになった――

夜に浮かび上がる葵を惚けたように見つめ、しばしの沈黙の後に、紅丸は苦笑を口の端に刻んだ。

「まこと、女は魔性とはよく言ったものよ。――ほんの一夜で、見違える」


「………おぬしが、そうさせた。
おぬしが、私に『女』を自覚させた。それを育んだのもおぬしじゃ。
私が今なおここに残るも、おぬしの眼差しに胸の早鐘が治まらぬも、
なにもかもが、おぬしのせいじゃ」


白磁の肌を桜色に染めて、葵は紅丸の衣服を握り締める。
その仕草に、驚くほどの色香を感じるのも、彼女なればか。

「魔物に魔性か。――案外似合いでよいかもしれぬな」


紅丸は腕を翻し、葵を床に組み敷いた。
葵の美しい黒髪が波のように散る。
緊張に身体を強張らせるが抗う様子は見せない葵に、喉の奥でくっと笑う。


「――夜は、魔の領分。止めろと言われても止まらぬぞ」


その言葉を最後に、月明かりに照らされた部屋で二つの影が重なる。

後は、衣擦れと甘い吐息の音が聞こえるばかり――――



恋愛沙汰に関する力関係が逆転してる気がしないでもないが、書いてて楽しかったからよし!(ちょっと待て)

周防郁様の紅丸イラストに一目惚れして、思わず暴走してしまった創作です。
使ってもよいというご厚意に甘えて、挿絵としてイラストを使わせて頂きました!
藤之の話なんて霞むほどの素敵イラストですよっ!