無知
何も知らないくせに。
――何も、知らないから。
それはひどく戦慄を感じさせる出会いだったように記憶している。
「…仲良くやるんじゃぞ」
派閥の仕事で家を空けた義父が、数日してつれて帰ってきたのは、少女だった。
薄汚れた、というよりは、使い古してくたびれた服に身を包んだ、
僕より数歳は下に見える(後日聞いたら1歳しか違わなかったのだが)小さな身体。
今日から妹弟子になるトリスだ、と紹介された、
怯えるように義父の服を掴んで、おどおどとこちらを伺っている年端もいかぬ少女。
既視感を感じさせるその面差しに、僕は記憶を辿る。
自分自身の記憶ではなく先祖から受け継いだ、一族の記憶の中に、
目の前の少女と雰囲気が似通った女性の記憶があった。
――僕の祖先に唯一手を差し伸べた、その一族の顔ぶれの中に。
――――『クレスメント』!
その衝撃的な答えに、思わず義父の顔を振り仰ぐ。
少し悲しげな表情で頷いた義父が、僕のはじき出した答えを肯定した。
「……ネスティだ」
けして友好的とは云えない、形だけの自己紹介をしたあと、
呼び止める義父の声も振り切り、僕は自室に駆け戻った。
大きな音を立てて扉を閉めると、扉に凭れかかったまま、ずるずるとへたり込んだ。
どうして?
どうして!?
あの一族の末が、ライルの末である僕の元に。
事実上の追放になった、クレスメントがこの派閥へ。
魔力を失った一族のはずが、僕の妹弟子に。
ぐるぐると疑問が頭を巡るが、最後に巡った疑問に、僕は本気で頭を悩ませた。
…明日から、どんな顔で会えと言うんだ。
その問題は、僕が悩むまでもなく、いともあっさり解決した。
「ねぇ、あれはなに?」
「ねぇ、なにをしてるの?」
少女は僕の状況お構いなしに、無遠慮に話しかけてくる。
渋い顔をしていようが、笑っていようが。
食事をしていようが、本を読んでいようが。
――何も知らないくせに。
自分の一族が過去に大きな罪を犯した事も、
僕の一族が負った非業の運命も、
なにゆえ自分がこの派閥につれてこられたのか、その真意も。
知らぬがゆえの強みで、ずかずかと僕の領分に入り込んでくる。
何も知らないくせに。
何も、知らないくせに。
――何も、知らないくせにっ!
無邪気に笑いかける少女に、僕は苛立ちを覚える。
意識的にことさら冷たくあたったりもした。
さすがに思いとどまったが手をあげかけた事もある。
これは精神的な拷問だ、とも思った。
互いに最後の一人となった咎人の末裔。
片割れは全てを知り、
片割れは何も知らない。
互いの存在を知らぬまま、生を終えられればよかったのに。
なぜ、僕の目の前に。
なぜ、同じ屋根の下に。
思いあぐねて、彼女を引き取ったわけを、僕は義父さんに尋ねた。
「…あの娘にな、人並みの幸せを与えてやりたかったのじゃよ」
優しい、でもどこか悲しみを孕んだ笑顔で、義父さんはそう答えた。
義父さんはそれ以上語ろうとはせず、僕もそれ以上は訊かなかった。
一方的にちょこちょこと彼女が僕について回る日常。
それには思いの外、早く変化が訪れた。
…あまり、良い変化とは言いづらいものだったが。
今度は、僕が彼女を追いかける羽目になったのだ。
――何度も脱走を図る彼女を。
「――トリス、降りてくるんだ!」
日も落ちきった夜の闇の中、派閥の敷地の隅、ひときわ高い樹木の枝影に、
否応なく見慣れてしまった紫紺の髪を見つけて僕は叱るように声を荒げる。
しばらく黙った後、彼女は観念したように器用に木を伝い降りてくる。
俯いてしまう彼女に、僕は「帰るぞ」と手を差し伸べる。
怖ず怖ずと、そっと僕の手に小さな手が重ねられ、ゆっくりと家路へとつく。
――これが、最近恒例になりだした僕らの姿だった。
日を追うごとに、脱走の頻度が増してくる。
その回数が二桁にのぼろうかという頃になるとさすがに僕も事態を放ってはおけず、
手を引きながら隣を歩く少女に、問いかけた。
「………トリス。
僕と、義父さ…ラウル師範が、嫌いか?」
トリスはぶんぶんと力一杯首を横に振る。
じゃあどうして逃げる、と続けようとした僕の言葉を彼女の言葉が遮る。
「…きらいじゃないよ。だって、あたしのこと、無視しないもの。
それに、あたしがいけないことしたら、ちゃんと叱ってくれるでしょ。
なんでいけないのか言わずに殴ったりもしないもの」
「――!?」
トリスが悲しげな笑顔で言ったその言葉に、僕は驚愕し足を止めて振り返る。
その言葉は義父や僕のあずかり知らぬ処で暴力をふるった人物がいると示唆していた。
「――ちょっと見せてみろ」
言うなり、僕は彼女の袖を捲り上げる。
月明かりの下でも、そうと分かる痣が、うっすらと二の腕に残っていた。
この分では、足や腹も無傷ではあるまい。
ふつふつと、怒りが僕の中に湧きあがり、知らず、トリスの肩を掴む手に力が入る。
「…なんで言わなかった!?僕か師範に言えば、そんなことは…っ!」
「どうして?」
「っ!?」
「だって、あたしが何かいけないことしたからなんでしょ?」
疑問に疑問で返され、僕のほうが戸惑う羽目になる。
トリスはきょとんとして僕を見返している。
そうだった、と僕は義父さんから聞いた話を思い出した。
彼女は、貧民街で孤児として生きてきたのだと。
荒んだ環境の中、生き延びるために何でもしてきただろうことは想像に難くない。
盗みを働こうとして、捕まり仕置きを受けた事もあっただろう。
非があれば、一方的に殴られるのは当然なのだと。
殴られるのは、己に非が生じているからなのだと。
だがその非を教えぬ一方的な暴力から逃げるために脱走を図っていたというのか。
言えば僕らがなんらかの措置をしてやれたのに、と告げた事に対し、
その表情は、そうしてくれる理由がわからない、と語っている。
「…………………トリス」
彼女は何も知らない。
一族の罪も。僕の葛藤も。
――生を受けた者に当たり前に与えられるはずの、家族の無償の愛というものすらも。
…何も、知らないのだ。
知らないのは…それは彼女の罪ではありえない。
何度も、何も知らないくせに、と僕は彼女を秘かに心で詰った。
だが彼女が罪を知っている事が、いったい何の救いになると言うのだろうか。
お互い罪人の末裔として、傷の舐めあいでもしたかったのか?
それとも、僕の一族をこの境遇に貶めたことを責めたかったのか?
…答えは、「否」で。
「…ネス?」
僕は、我知らず、トリスの華奢な身体を抱きしめていた。
僕と幾らも違わない歳なのに、この腕のなかにすっぽりと収まってしまう。
こんな、小さな身体に、彼女の責ではない罪を背負って。
「…っ…」
胸の中から熱いものがこみ上げて、抱きしめる腕に力がこもる。
「トリス…そばに、いるから…」
「……ネス?」
「僕が、君の傍にいるから」
「………………うん…」
罪を知らぬ代わりに、愛も知らぬ少女に。
派閥の枷に囚われたその中で、せめて、僕が与えられるすべてを。
月明かりの下で、僕はそう誓った。
あれから幾度季節が巡っただろうか。
派閥の命令を受けて、試験に受かって早々『見聞の旅』という名目で、
追放同然の旅に出される彼女について行くために、僕は荷物をまとめていた。
監視役という名目でだが、彼女について行く事はできる。
今度ばかりは、派閥の命令に感謝した。
どこまでも、彼女の傍にいる。
これだけは、何があっても譲れない。
幼い日の誓いは、今では何があっても叶えたい強い願いとなっていた。
ずっと傍にいる。
本当の兄のように、家族の愛を君に与えたい。
義父さんが望んだように、幸せになってほしいと。
ただ、付け加えるのならば、――僕によって幸せにしたいと、
…そんな、叶うはずもない願いも持ってしまったけれど。
「ネス」
無条件に全幅の信頼を寄せてくれる、トリスの笑顔。
彼女は、何も知らない。
己の一族が犯した大いなる罪も。
僕の一族が辿った非業の運命も。
――僕の、浅ましくも狂おしい、この想いすらも。
何も知らない。
だから、僕は彼女の傍にいられる。
彼女は、まだ何も知らない。
…何も、知らないで、いてくれる。
fin.
ネストリ創作第一弾(しかし書き始めたのは2番目)。
派閥時代のネスの出会いから第0話あたりまで。
なんというか、兄弟子、兄バカきっかけの巻、って感じですか(笑)。
やっぱり、トリスが全てを知っていたら、そもそもネスティと逢う事すら拒否したと思うのです。
ネスティもそれにぼんやりと気付いてますってところですか。