鏡像 −intermedio−



少女は真剣な眼差しでその竹簡に向かい、さらさら、と竹簡の上を筆が走る。
一文字一文字、過たぬように気をつけながら竹簡に文字が書き込まれていく。
最後に自分の名前を、ゆっくりと、丁寧に署名する。


「……ふう」

やや疲れた声がこぼれたのち、かたりと筆が硯に置かれる。

「とりあえずこれでこの分は終わりね」

じゃらりと音を立てる竹簡を丁寧に纏め、定位置に置かれた朱塗の箱にそれらの束を収める。
組紐で括って封をすると、壁に据え付けられた棚の中に収める。
明日訪れる中つ国の人間に渡せば、そこでこの仕事は終わりだ。


「ん〜……っ!」

午前の執務を終えて、ひとときの休憩をとる時間を得た千尋は、
凝ってしまった身体をほぐすように伸びをする。



窓の外の太陽を見上げれば、中天にかかるにはまだ些かの間がある。
そろそろ昼餉を頼んでもいい時刻ではあるのだが、仕事の合間に淹れてもらったお茶とお茶請けを頂いたために、さほどお腹もすいていない。

さて、空いたこの時間をどうするか。

「……アシュは、まだ執務中よね」

常世の皇妃でありながら中つ国の王も兼任しているために、千尋に宛がわれている私室が、今ではそのまま中つ国の政務を執る部屋となっている。
中つ国の使者や千尋自身が、必要以上に常世を憚ることのないようにとの気遣いと妥協の産物だ。
皇妃の格に相応しく幾つもの部屋の連なったつくりのその部屋は充分に広く、一室を執務室とすることには不都合はないし、常世の皇妃としての執務室は、根宮の中核にまた別に与えられている。
午前は中つ国、午後は常世と、意識を切り替えて政務を執るにはそれなりに利便もあるのだということも理解できる。

だが、夫の顔を見たいという、至極ありふれた単純な要望を叶えるには、いささか離れた距離が邪魔をする。


「………ちょっと顔だけ見て帰るくらいなら、お昼に間に合うかな?」

悩んでいる時間すら惜しいと即決断を下した千尋は、丈の長い衣装の裾を抓みあげると、たったかと扉へ向けて走りだす。
扉のノブに手をかけようとしたその瞬間、目の前の扉が軽く拳で叩かれる音が響いた。


「……千尋、いるか?」

扉越しに届いた聴き間違えようのないその声に、千尋は返事をする間も惜しんで扉を開いた。

「―――アシュ!」


呼びかけに対しあまりにも素早く開いた扉にやや虚を突かれた表情のアシュヴィンが、そこに立っていた。




互いに驚きの表情を浮かべていたのも一瞬のこと、
千尋が笑顔で自らの身体をずらし道をあけ、アシュヴィンを部屋に招きいれた。


「邪魔をしたか?部屋をでるところだったのではないのか」

「ううん、そっちに行こうと思っていたところだったの」

「急ぎの用事があったのか?」

「そうじゃなくて、午前の執務が少し早めに終わったから、遠くから顔だけでも見られれば、って―――だから、来てくれて嬉しいわ」

アシュヴィンは纏った外套をぱさりと無造作に手近な調度にかけながら、ふっと笑う。

「遠くからなどと遠慮せずに、もっとお前も俺の部屋に来ればいい」

「アシュヴィンが忙しいのはわかってるから……仕事の邪魔は、したくないの」

その返答に、アシュヴィンは柔らかい笑みをその口の端に刻んだ。
自覚と責任と理解があるのは千尋の美点だが、夫としては多少物寂しさを感じなくもない。


猫足のソファに腰をかけたアシュヴィンのそばに寄り添った千尋の象牙色の頬を、アシュヴィンの指がさらりと撫でる。

「お前を邪魔に思うことなど、あるはずもなかろう」

「あら、結婚式のあと、ひとりでさっさと常世に帰ってしまったのは、どこのどなたの話だったかしら」

ぷいと顔を背けて紡がれたちくりと棘をさすような内容に反して千尋の声音は軽く、本気で怒っているのではないことが見て取れる。
アシュヴィンはふ、と自嘲気味な笑みを浮かべたかと思うと撫でていた頬に両の手を添えて、やや強引に視線を合わせさせ、その蒼穹の瞳を覗き込む。

「そう拗ねるな。拗ねるお前も愛らしくはあるがな。
あの時はあの時で、俺なりに最善の道を模索していたんだぞ。
俺の心はお前にあるのに、肝心のお前の心が見えていなかったからな。
せめて、俺たちの結婚をより意義のあるものにしたかったんだ」

「………そう、だったの?」

「言ってなかったか?」

「初耳よ」

「では、覚えておけ。
―――俺はお前を娶れたことを、最上の喜びとしているということをな」

アシュヴィンはくしゃりと千尋の前髪を撫で、露になった額に口付けを贈った。





しばし他愛のないことを話しながら日中にはなかなか取れない逢瀬の時間を楽しんでいたが、
官人に呼ばれてほんの少しの時間中座した千尋が再び自室に戻ると、目を閉じてソファの背に身体を預けるアシュヴィンの姿が視界に飛び込む。
眠っているのではない証に、アシュヴィンは千尋が戻るとすぐに瞼を開けたが、眉根を寄せた千尋の表情は晴れない。

「アシュ、疲れてるんじゃないの?」

千尋はアシュヴィンの隣に腰を掛け、熱を測るようにその白い手をアシュヴィンの額に宛がった。
褐色の肌に紛れて見分けがつきにくいがその表情にも微かに疲労が見える。

「無理をしてはだめよ、アシュ。
私だって、少しくらいは仕事を覚えてきているのだもの、ちょっとはこっちに回すことも考えて」

「お前には中つ国の政務もあるだろう」

「だからって皇妃としての仕事まで取り上げないでちょうだい」

千尋にも当然皇妃としての執務があるのだが、国の頂点たる皇の責務はその比にならぬほど重い。
千尋自身が中つ国の王を兼任していることもあり、アシュヴィンは自身のみで決裁が可能なものは極力自分で捌く傾向がある。
為政者としては未熟な自身を自覚している千尋はそれに甘えてしまっているが、進んで負担を押しつける気があるわけではない。
それでアシュヴィンが倒れるようなことがあっては、それこそ本末転倒だ。

やんわりと窘められて、アシュヴィンはやれやれと肩を竦めた。


「この国を背負っているのはあなただけではないのだから、一人で背負い込みすぎないでね。
そりゃあ、私があなたを手伝えることなんて、まだまだそうないけど……少しくらいは、頼って。
あなたの荷物の一部を抱えることくらいはできるわ。
ナーサティヤもアシュはひとりで抱え込みすぎだって、こぼしていたわよ?」

千尋の発言に、アシュヴィンは微かに眉根を寄せる。

千尋は、常世の王宮に、それなりの形で受け入れられている。
宰相となったリブは戦時から行動を共にしていたし、皇弟のシャニはその人懐っこさで初対面から千尋と打ち解けていた。
だがナーサティヤとは最後の最後、ギリギリまで敵対の位置を崩そうとしていなかった。
多少はギクシャクするかと思われた二人は、蓋を開けてみれば思いのほか良好な関係を築いているようだ。


「……随分と、サティに信を置いているようだな」

「あらなあに、私とナーサティヤとの関係がギスギスしてたほうがいいって言うの?」

「……そうは言わんが」

アシュヴィンは不貞腐れたように顔を背ける。

アシュヴィンの目から見てもナーサティヤは立派な男だ。
仕事に関しては有能で、兄弟としての情もある。
常世の国を思う強さでもアシュヴィンに引けを取るものではない。

ない、のだが。


「少々面白くないだけだ」

直接問いただしたことこそないが、ナーサティヤと千尋との間に、少なからぬ因縁めいたものがあることは、それとなく察していた。
それが色恋に結びつかずとも愛妻の心の一部を確かに占めている兄に嫉妬を感じても、夫としては責められる筋合いではない。

それを直接表明して抗議するのは些か狭量に過ぎよう。
とはいえ、むくむくと育つ独占欲は、すでに溢れんばかりに胸の内で存在を誇示している。



「―――では、我が妃の勧めに従って、少しばかり休むとしよう」

言うが早いかアシュヴィンは千尋の腕を捉え、自身へ向けて強く腕を引いた。
引き倒された形になった千尋は抗う間もあらばこそ、ソファへとともに身を沈めることになった。

「ちょ、アシュ!?」

アシュヴィンの突然の行動に困惑する千尋を余所に、アシュヴィンの腕は千尋の身体を捉えて放さない。
辛うじてソファに身を起こしたものの、身体を緩く拘束する腕は思いのほか強く、身体ごとアシュヴィンの腕の中に包まれた千尋が自身の力でその腕から逃れることは至難の業に思えた。

うつ伏せに寝そべったアシュヴィンは顔を上げると、悪戯が成功した子供のような笑みを浮かべ、腕に捕らえたままの妃の顔を下から覗き込む。

「千尋を抱きしめて眠るのは、俺だけに許された特権だからな」

大人気ないとも言える独占欲を発揮してそう主張するアシュヴィンに、千尋は抗議のために開きかけた口を閉ざした。
アシュヴィンは反覆は許さぬとばかりに、了承の返事も待たずに千尋の身体にその頭を預け、瞳を閉じる。


「……もう、しょうがないひとね」

肩の力をがくりと抜いて、千尋は眼前の『大きな子供』の額を指先で軽くぴしりと叩いた。


「……少しだけよ?」

念を押しながらも、千尋はアシュヴィンの我が侭を受け入れる。
呆れながらも微笑むその様子は、隠しようのない愛情に溢れていて、アシュヴィンを喜ばせた。

アシュヴィンの髪を柔らかくなでるその白い指はどこまでも優しく、あたたかい。

その優しい指の奏でる無音の調べに誘われるように、アシュヴィンは穏やかな眠りに落ちていった。








で、「鏡像」の冒頭シーンに続くわけです。