鏡像





執務の予定時間になっても姿を見せない弟を探して、ナーサティヤは心当たりを探し回っていた。
いや、探し回っていたという表現は正しくない。
心当たりのひとつ目をあたった時点で、目的の人物を見つけ出していた。


「皇妃、入らせていただく。皇は―――」

言いながら扉を開け、すぐに視界に飛び込んできた光景は、意外といえば意外なものだった。

いや、二人の関係から言えば、けして不自然なわけではなく、
実際にこの二人は周りが呆れるほどに仲睦まじい。
けれど身内としてその気性を充分に知る身には、弟のこのようなところを見ることになるとは予想だにしていなかった。



絶句したまま立ち尽くすナーサティヤに、目の前の女性は木漏れ日のような微笑みを浮かべる。
そしてそっと立てた人差し指を自分の唇にあて、夫のつかの間の休息を妨げぬよう促した。


大の大人が4,5人座ってもまだ余るほどに大きなソファにのんびりと身を横たえ、
やや端側に座る妃の身体を緩く抱きしめて、その身体に頭を預け眠る常世の皇の姿。
眠る子供をあやすかのように、自分を優しく拘束する男の髪を柔らかく撫でる皇妃の姿。
穏やかな春の陽射しを切り取ったかのような、優しい情景がそこにあった。


―――夜闇に駆ける野生の獣のような気配を纏わしていたアシュが、こうも変わるか。

ナーサティヤは胸の奥から湧き上がる好ましい感情に口の端を綻ばせる。
弟に優しい寛ぎを与えている女性を改めて見返し、かつて交わした言葉に思いを馳せた。









先皇―――スーリヤを失った常世の国は、新たな皇を必要としていた。
長子のナーサティヤの承認が先んじてあったことも功を奏し、アシュヴィンの戴冠は、戦の終焉から間をおかず執り行われた。
天の祝福を受けたかのような抜けるように高い青空の下、厳かな神殿が、新皇―――アシュヴィンを迎えるべく壮麗に飾り立てられる。

そして千尋に宛がわれた貴賓室に、ナーサティヤが姿を見せた。
皇妃としての衣装を身に纏い、式典の開始を待つばかりの千尋は、突然の来訪者に戸惑いの声を零した。
目まぐるしく情勢の変わる戦の最中はもちろんのこと、儀式の準備に奔走した戦後においても、
ナーサティヤと千尋は互いに個人的な話を交わせる機会は持てずにいた。


「……ナーサティヤ」

滅びゆく祖国に殉じようとしていた常世の皇子。
弟とその妃の眩いばかりの光輝に希望を見出し、殉じるより足掻く道を選び取ったがために、最後の最後で手を携えた。
だが、亡国の姫と侵略国の皇子としては、戦友の一言で済ますことができるほど、単純な関係にはなかった。


ナーサティヤが片手を振って傍控えの采女を下がらせると、慌しい儀式の合間の一時の静寂が部屋を満たす。
扉の外の喧騒が他人事のように静かなその沈黙を破ったのは、訪問者の側だった。

「―――二ノ姫」

それはアシュヴィンの妃となってから、呼ばれる機会も少なくなった呼称だ。
常世の地においては「妃殿下」と呼ばれ、アシュヴィンも戦時から名を呼ぶようになった。
后妃としてではなく、また千尋個人としてでもなく、中つ国の姫として自分を呼んだナーサティヤを、千尋はまっすぐと見返した。

「お前がアシュの妃であること、私は反対するつもりはない。
中つ国の王が常世の皇妃として立后することは、戦乱に喘いだ民に戦の終焉を示すよき旗印となろう。
―――だが、これだけは言っておかねばならぬ。
この国に仇なすと判断したら、私はお前を排除するだろう。アシュに恨まれ、シャニに蔑まれようとな」

「そうね。あなたならきっとそうするわ」

重苦しい宣言に、こともなげに相槌を打つ千尋を、むしろ驚いた表情でナーサティヤは見返す。

「……怒らぬのか」

「どうして?」

笑顔で首を傾げて問い返すその表情には清々しいほどに迷いはない。



「あなたが、本当にこの国のためを思い、この国に尽くしていることは、よくわかるもの。
―――アシュヴィンやシャニを、本当に大切に思っていることもね。
その上でなお私を殺すという事態があったなら、本当に私がこの国に禍となったときでしょう」


千尋は裾の長い皇妃の衣装を抓んで窓際に近寄り自らの手でその窓を開くと、ふわりと紗布を翻させる優しい風が室内を泳いだ。
高い岸壁の上に聳え立つ宮。その窓から見える眼下に広がるのは緑の沃野が蘇った常世の国土。

―――これからを、私が生きる国。


「常世の良い皇妃でありたいと思ってるし、中つ国の良い王でありたいとも思ってるわ。
―――そうね、ついでに良い夫婦である努力もするつもりだけど」

それはアシュヴィン次第かしら、と笑いながらも頬に手をあてて首を傾げる。
千尋は背後で息を飲んだナーサティヤを振り返り、吹き抜けていった風のように優しい微笑を浮かべた。

「あなたなら、私たちが道を踏み外したら、正してくれるでしょう?」






「………わからぬ。なぜ、そこまで私を信用できる。
先の戦で何度も刃を交わし、お前たちの前に立ちはだかった私を。
それにお前も記憶の片隅で覚えているはずだ。祖国を滅ぼし、橿原宮を火の海に沈めたのが誰なのか」

ナーサティヤのその問いに、千尋は静かに目を閉じた。
彼が自分を見るたびに感じるであろうその屈託は、千尋とて無視のできないこと。

先の戦を経て、千尋は自分なりの答えを見つけていた。
自分自身に対する答えでしかないそれは、国のために戦い、命を落とした兵たちにとっては偽善だろう。
けれどそれを口の端に昇らせることで、彼らの心が少しでも軽くなるのなら。


「……ええ、知っているわ。
火の海に揺れる王宮で、殺されるはずだった王族の私を救ってくれたのが、誰なのか。
そして滅びに向かっていた常世の国に、最後まで殉じようとしていたのが誰なのか」

「……二ノ姫」

「火雷ナーサティヤが私利を求める人なら、そもそも私はこの場に生きていなかった。
あなたを信頼できることの理由に、それ以上が必要かしら。
私は、あなたに助けられたこの命をもう一度あなたに委ねることに、躊躇う理由はないわ」





「確かにあなたとは幾度も刃を交わしたけれど、それはアシュヴィンとだって同じことよ」


ナーサティヤとアシュヴィンは、まるで鏡に結ばれた像のようだ。
随分と気性が違うようでいて、その実とても似ている。
優しいけれども不器用で、国のために情を犠牲にすることを常に覚悟している。


「私はあなたたちとの闘いで、戦意はともかく、敵意を感じたことはなかった。
そして私も、あなたたちを憎むことができなかったわ。今は……恨むことすらできない」

故国を滅ぼし、家族を殺したはずの敵国の皇子たち。
記憶の片隅に眠っていた炎の記憶と、不器用な優しさと強い意志に満ちた瞳に惹かれた笹百合の香りの想い出。
アシュヴィンとの婚姻こそ情勢の流れと王族の義務で結ばれたものだが、
不器用ながらに示された彼の想いに自分の心を再認識してしまってからは、それは意味を変えた。

「今の私は、国のためや王族のつとめではなくて、私自身の意思で、アシュヴィンの隣に立つことを望んでる。
彼のために在りたい。彼に相応しい妃でありたい。
それは常世の国のために生きることと、そんなに違うことだとは思わない。
―――そのために、力を貸してほしいの。ナーサティヤ」




物怖じせずまっすぐとナーサティヤを見据える千尋のその姿は、
天窓から射し込む陽光に美しく彩られ、吹き抜ける優しい風に揺らめいた。




「私は……ずっと、中つ国の二ノ姫を逃がしたことを後悔していた。
これは国への裏切りだと、いずれ私の過ちが故国を滅ぼすかもしれぬと。
だが、今となってはこの国に一条の光を呼び込めたこと、嬉しく思う」


ナーサティヤは千尋の手を恭しげに取り、その甲に忠誠の接吻を贈る。

「二ノ姫―――いや、皇妃の信頼に、私の全てをかけて応えることを、今この場で誓約しよう。
この国、そして皇と皇妃を全力で支え、道を過つしときは命に代えても正すことを誓う」

「ありがとう、ナーサティヤ……」




戴冠の儀式に臨むアシュヴィンとその妃の姿を、誇らしげに見守ったあの日の誓いは、今も輝かしく胸に息づいている。








「―――アシュ、起きろ。目覚めているだろう」

自分の物思いから現実に立ち返ったナーサティヤは、皇妃の温もりに甘える弟を叱り飛ばす。



「―――ちっ、わかったよ」

深く閉じていた瞳をぱちりと開けて、アシュヴィンはその身を起こす。

「愛する妃との稀少な時間を邪魔するような無粋な真似はしないでほしいものだがな」

「やるべきことをやったあとならば私も何も言わぬ。
午後の執務の開始時間はとうに過ぎているぞ」

軽口を叩きながらも、自らの責務の重みは理解しているアシュヴィンは、
苦言を呈する兄の忠告に肩を竦めただけでおとなしく従う。

「わかったわかった。とっとと片付けてくるとしよう。―――ではな、千尋」

アシュヴィンは機嫌の良い猫のような笑顔で皇妃の頬に掠める口付けを贈り、部屋を後にする。
口付けられた頬に手を添えて真っ赤になりながら、千尋はナーサティヤに申し訳無さそうに頭を下げた。

「ごめんなさい、ナーサティヤ。疲れてたみたいだったから少しだけでも休ませてあげたくて……。
私、アシュが狸寝入りしてただなんて気づかなかったわ」

「………いや、あれは本気で眠っていたな」

ナーサティヤが入室してかすかに変化した気配を、ナーサティヤが見逃さなかっただけのことだ。

かつて実姉に毒殺されかかったアシュヴィンは、自らの兄弟であっても気配に敏感だ。
ナーサティヤやシャニに疑心を抱いてはおらずとも、かつて負った心の傷が、無意識下の警戒を解かせない。

だからこそ、アシュヴィンが身も心も預けて安らかに眠る情景に心底驚いた。
軽佻さを装いながらも王族の責務を主軸に動くアシュヴィンを休ませることは、ナーサティヤにも至難の業だ。

「皇妃の目に疲れていると映るならば、休ませてやればよい。
度が過ぎれば、諫める。―――それもまた、私の役目だろう」

その一言で、かつての言葉を思い出したのだろう、千尋は嬉しそうに微笑んだ。

「ありがとう、ナーサティヤ」





「……考えてみれば、ずっとナーサティヤって呼ぶのも他人行儀よね」

ふと思い立ったそれに、皇妃は頬に手を当てて首を傾げる。

『アシュヴィン』と呼んでいた夫を、皇妃が愛称で呼ぶようになったのはここ最近の話だ。
最初のうちは照れが入っていたようだったが、近頃は随分と自然に呼べるようになっている。
より近しくなった、と機嫌の良いアシュヴィンを見たことも一度や二度ではない。

「呼びたいように呼べ。私はかまわぬ」

自分のこともサティと呼びたいのか、と判断して助け舟を出したつもりだったが、
皇妃の反応は、ナーサティヤの予想をやや逸れていた。

「そう?それじゃあ―――」

ちらりと見上げた視線がナーサティヤのものとかち合うと、照れくさげに微笑みが返った。

「これからもアシュを助けてあげてね、お義兄さま」








部屋を辞し、扉を閉めたその傍らの壁に、先刻部屋を出たはずの弟が気難しげに腕を組んで寄りかかっていた。

「―――サティ」

ナーサティヤを呼ばう声は笑みを湛えていながらも常よりも低く、真剣だ。

「…………惚れるなよ?」

威圧を放ちながら釘を刺したその内容に、ナーサティヤは表情に出さぬまでも可笑しさを覚える。
これもまた、皇妃の存在に端を発する変化だろうか。


「道を過たぬよう見守ると誓った身で、
国の乱れになるような事態を起こすつもりはない」


ナーサティヤの返答に目に見えて安堵の気配を漂わせるアシュヴィンの様子が、
背を向けて立ち去ろうとするそのついでに、一言付け加える悪戯心をナーサティヤに沸かせた。

「―――もっとも、個人的な感情とは別の話だが」

「サティ!!」


背後で叫ばれるその声の意外な動揺に、思わず口の端に笑みが刻まれた。
慌てた様子で追ってくる背後の気配に口元をほころばせながら、ナーサティヤは抜けるように高い常世の空を回廊から見上げた。


―――このように穏やかな気持ちで笑うことのできる日がくるなど、思ってもみなかった。



炎に揺らめいたあの宮に沈んだはずの光輝は、いまは常世を白く照らす日輪となり、
常世が纏い拭えずにいた澱んだ闇を祓った変革の嵐は、至高の座に立ち光の女神と手を携え国を導いている。




禍日神に蝕まれていく故国をそうと知りながら何も出来ずに、
ただ最後の日を先延ばしにするように足掻いていたあの日々はもう、
―――過ぎ去りし、遠き陽炎。









了


100のお題No.16「池に映った」転じて鏡に映るもの。そっくりだったり正反対だったり。
しょっぱなから情を切り捨てて責務に生きる保守の兄に対し、責務は果たすけど必要とみなせばひっくり返す変革の弟。
けどアシュヴィンとナーサティヤは結構根っこの部分が似てると思うんですよね。どちらも責務>情のあたりが。

アシュヴィンて千尋を最初から気に入っていたと豪語する反面、千尋をその手にかける覚悟もしてるあたりがものすごくツボでもあったりもして。

常世の王制がイマイチよくわからんので、戴冠式があるのかどうかわかりません。ぶっちゃけ捏造です。まああるならやっただろうな、と。
モロバレですが個人的満足ポイントは千尋にサティを「お義兄さま」と呼ばせたこと。ええ、自己満足以外のなにものでもありません(笑)