幸福な誤算
「―――アシュヴィンの馬鹿!」
耳慣れた―――耳慣れてしまった台詞が、根宮に響く。
「………また、みたいですね」
それを耳の端で捕らえたリブは、皇の執務室で竹簡を整理しながら頭を掻いて呟いた。
重い扉が閉じられた音が、どぅん、と響く。
千尋が怒り心頭に達したときに閉じこもる、皇妃の私室の扉の音だ。
地位の格に見合う広さのその部屋は、扉も相応に大きく重い。
女性の力で開閉するに難があるほど重くはないが、乱暴に扱おうと思って扱えるほど軽いものではない。
だが、怒っているときはその限りではないらしい。
皇妃様の御部屋の扉は耐久度をこまめに確かめるべきですかね、とのんきに構え目の前の竹簡に再び意識を向ける。
よその恋路に首を突っ込むと駒に蹴られる、とか豊葦原では言うそうだし、
天岩戸の向こうへと閉じこもった女神を引き戻すのは怒らせてしまった当人の役目だろう。
案の定、内容こそ聞き取れないが、慌てたようなアシュヴィンの声がかすかに遠くの廊下から聴こえてくる。
怒らせてから慌てるようなら最初から言わねばいいのにと思うが、このあたり、皇夫妻にはあまり進歩が見られない。
「……ま、自業自得というやつですし。
陛下には責任を持って皇妃様のお怒りをといてもらいませんと」
後刻、アシュヴィンが執務室に戻るころには竹簡の整理も終え、
自らが抱える案件の立案もひと段落したリブが茶を淹れているところだった。
「や、お疲れ様でございます」
「……机の上の山を見るに、むしろこれからが疲れそうだがな」
竹簡がどっさりと詰まれた机についた主の前に、銀の茶器が置かれる。
たちのぼる暖かな湯気と仄かに広がる芳香が部屋を満たした。
「さしもの陛下も皇妃様にはお弱いようで」
遠慮もなにもないリブの言葉に、アシュヴィンも茶に口をつけながら苦笑で応える。
「怒らせたいわけでも、泣かせたいわけでもないのだがな。
どうも、俺は余計な一言とやらが多いらしい」
自覚はありましたか、とリブは内心安堵しながらお茶請けを茶器に添える。
王家に生まれれば否応なく、自己の利と打算と安寧のみを追求する輩に囲まれて育ってしまう。
そのせいだろう、アシュヴィンはどうしても理屈と正論と合理性を先行させる傾向がある。
それが悪いことだとは、リブも思ってはいない。
王族に生まれた以上それは求められ、身につけてしかるべきものだ。
ただ、時には百の理屈より一の私情が万の力をもつこともある。
それをアシュヴィン自身が実感できていないことが、
現実と感情の折り合いを懸命につけている奥方の神経を時折逆撫でしてしまう一因でもあるのだが、
分かっていても染み付いてしまった習い性はなかなかに落ちないものだ。
「打算で動く女なら、扱いやすいのだがな」
豪奢な衣服や高価な玉、贅を尽くした宮で、多くの臣下に傅かれる生活。
そんなもので篭絡できるようなら、苦労はしない。
「はは、皇妃様のその御気性をこそお気に召してらっしゃるのでしょうに」
「まあな」
王族に生まれついていながら、いっそ過剰なほどに千尋は己の感情に素直だ。
嬉しければ笑うし、悲しければ泣き、気分を害せば遠慮なしに怒る。
一人の従者のために剣を抜いた敵の前に立ち、百の部下を救うために千の兵を動かす。
そして、刃を交わしていくらも経たぬ敵将に、手を差し伸べる。
育った環境が違うのだと聞いてそれなりに納得はしたが、あれは天性の資質もあろう。
効率と打算、儀礼と前例に雁字搦めになった王族には望むべくもないそれは時に不合理ではあるが、
けしてそれを疎んじていない自分を、アシュヴィンは自覚している。
「さて、陛下。とっとと目の前の仕事を片付けませんと。
皇妃様とお過ごしになれるお時間がそれだけ短くなりますよ」
「……手綱を取られているようで癪だが、事実だな。
仕方ない、乗せられてやろう」
見るだけでやる気を削がれそうなほどに堆く積まれた竹簡から逸らしていた目を引き戻され、
アシュヴィンは漸うその竹簡に手を伸ばした。
どれほどの数の竹簡を処理した後だっただろうか。
少しずつ低くなっていく竹簡の山のなかに、ひときわ拙い文字で書かれたものを見つける。
じゃら、と開いてみたアシュヴィンはふっと顔を綻ばせる。
予想に違わず、それは千尋の手蹟によるものだ。
中つ国・常世両国に関わることにはどうしても千尋の判断を容れねばならず、
必然的に千尋が采配の一端を振るうことになる。
中つ国の言語で書いてもいいと言ったアシュヴィンの言葉に頑固に首を横に振り、
拙いながらも懸命に、慣れない常世の文字で書いている。
ずっとこの国で生きるのに常世の文字がわからないなんていけない、と、
当たり前のようにそう言った千尋に、純粋な歓喜を覚えたのは、そう遠い過去の話ではない。
覇気とはまた違う、戦場で輝いていた鮮烈な光。
その輝きに魅せられて、今もなお燃え上がるこの想いは、もはや自分でも制御に自信がもてない。
ただその色香にのみ溺れた女であるなら、側女にでも愛妾にでもすれば済んだろう。
信頼関係のみで結ばれた后妃なら、互いの立場を弁えた範囲で干渉の境界を引けば恙無い。
王族として生まれたからには、物語のような恋などはなから望んでもいなかった。
地方の豪族か、他国の姫か、その辺の立場から適当な女が后妃の地位に立つのだろうと想像していたし、
実際にその予想が大幅に外れたというわけでもない。
他国の姫と政略結婚、というところまでは予想通りだ。
―――『妃に心底惚れる』なんて事態は、昔の俺は想像もしなかったがな。
義務と責務であった王の道。
それを誇りと自負に支えられて、まっすぐに突き進んできた。
けれど、千尋の存在はその道行きに、誇りだけでなく喜びを感じさせてくれる。
やや予想と違った未来図は、この上もなく幸せな誤算。
100のお題No.71「幸福」。
常世の言葉ってゲーム中ではなぜかサンスクリット語。難しそう。