世はすべてこともなし
忍人は扉の前でその柳眉を顰めていた。
忍人の背の倍はあろうかという大きな扉は、両開きの分厚い石造りで、触れればひやりと冷たい。
中つ国とは造形も材質も、受ける雰囲気すらも異なる、異国の王宮。
空の高さも、大地を覆う樹々も、吹く風にまじる空気のにおいも、故国とはまるで違う。
そして、かつて矛を交えた敵国の宮。
紆余曲折の果てに現在は友国としての関係を築きつつあるとはいえ、行き交う官人の視線も、快いものばかりではない。
しかし、そのようなことは瑣末なことだ。
それしきのことに気遅れをするようでは、弱冠の身で将軍位を務めていられるものか。
この重厚な扉ひとつに感じる複雑な感情は、それらとはまったく別種のものだ。
「……………こうしていても埒があかぬか」
大きなため息をひとつ吐くと、キッと扉を睨みつけ、その取っ手に手をかけた。
火矢が飛び交い、白刃煌めく戦場を駆けることにすら躊躇いを持たぬ葛城将軍が、たかが扉ひとつを開けることに、ずいぶんと長い時間を必要とした。
ぐっと力を込めれば、ギギギ、と重い音を立てながら扉は開かれていく。
「アシュヴィンの馬鹿―――っ!!」
甲高い怒号とともに、ひゅっと空を切る音が耳を捉える。
視覚で確認するより先に体が動き、飛来物を避けた。
身体を捻って避けた空間を何かが通り過ぎ、その先の壁に、ドッと音を立てて突き刺さる。
びぃぃん、と衝撃の余韻に振動を生む。
避けていなければ、胸元に深々と突き刺さっていたであろうそれは、紛うことなく、天鹿児弓から撃ちだされた矢である。
背筋を冷たい汗が伝う。
「…………………………………またか」
最悪の瞬間に開けてしまったと後悔しても時すでに遅しだ。
ここで扉を再び閉じてみないふりができれば楽なのだろうが、幸か不幸か忍人の生来の生真面目な性分は、それを許さない。
気鬱になりながらも首をめぐらせれば、忍人の入室にも気付かず、この宮の主であり二国それぞれの至高の地位に立つ二人が、物騒な活劇を繰り広げている。
「ばかばかばか―――っ!!」
半狂乱になりながらも、いやだからだろうか、力いっぱい弓を引き絞って、狙い定めもせずに手当たり次第に矢を放つ。
ただでさえ文字通りの凶器であるのに、さらに軌道を失ってどこに飛ぶかわからないそれは、この場を戦場に似た緊張感に包む。
忍人は流れ矢に注意を払いながら、一歩、二歩と壁伝いに移動し、豪奢な調度の影に身を隠す。
完全な安全を確保できたわけではないが、流れ矢の危険は軽減されただろう。
「――っ、千尋、落ち着け!」
今はこの国の頂点に立つ身となった若き皇、アシュヴィンの切迫した声が必死に投げかけられる。
その言葉が投げかけられる女性は、この国でも常世の皇妃という至高の御位につき、中つ国の王でもある千尋。
国に伝わる至宝、天鹿児弓を手に数多の兵を率いて戦場を駆けたその姿は、戦女神と讃えられて久しい。
が、今はそんな神秘的な形容をゆったり思い起こしていられる状態ではない。
「知らないっ!!アシュヴィンの馬鹿っ!!無神経っ!唐変木っ!」
言うなりぎりっと弦を引き絞る音が聞こえ、再び矢が空を裂く音と、壁にそれが刺さる音が響く。
「やめろと言うんだ!――――くっ!」
狙いが定まってはいないとはいえ、大まかな標的とされているアシュヴィンに次々と飛んでくる矢の数は、忍人に飛んできた流れ矢の比ではない。
その指が弦を離すその瞬間に床を蹴り身体を捻り、必死に猛攻に抗っている。
避けきれなかった幾本かの矢が、アシュヴィンの外套や腕を掠めていたらしく、纏う服はやや損傷を受けている。
冗談抜きに命にかかわる事態だが、腰に佩いた剣を、アシュヴィンは抜いてはいなかった。
中つ国の王である千尋を害する事態があれば、風早や那岐を筆頭に中つ国の面々が黙ってはいまい。
だが、それ以前に心から妃を愛しむアシュヴィンに千尋を傷つけるような真似はできない。
その点に関してはアシュヴィンは中つ国の者にも信頼を勝ち得ている。
千尋は千尋で、遠慮なしに矢を暴発させてはいるが、なんのかんのと言って、アシュヴィンがちゃんと避けてくれると無条件に信じてるフシがある。
文字通り命がけではあるが、現在までのところ、アシュヴィンもその信頼を崩す失態は犯していない。
まあ、だからこそ同じことが飽きもせず繰りかえされることになるのだが。
とりあえずは戦場に勇を馳せた黒雷の名に王ふたりの生命の安全は任せておくことにして、忍人は当面の問題を片付けるべくあたりを窺った。
「……………やはりか」
案の定、忍人とはまた少し離れた調度の影に、身を小さく竦ませてガタガタと恐怖に震える女官と官人の姿を視界にとらえる。
夫妻が揃った場で何か余計な事を言ったのか、それとも変に不器用な皇が失言をした場にたまたま居合わせたのか。
今までの例からするとおそらくは高確率で後者であろう。
災難に巻き込まれた哀れな被害者を救うべく、忍人は身を伏せて移動を開始した。
「怪我はないか」
身を晒さぬように気を配りつつ出来うる限り近くに寄って声をかければ、震えていた二人がばっと顔を上げる。
まさに救いの神を見つけたとばかりに忍人を見る瞳は輝いている。
「姿勢を低く保って、ゆっくりと移動しろ。身を晒すんじゃないぞ」
身を固くしていた女官らは援軍の到来に歓喜に震え、忍人の言葉にこくこくと頷き、涙目になりながらもゆっくりと動き出す。
「俺が先に行く。合図をしたら、全力で走れ。
だが無理して扉まで行こうとするな。少しずつ、影から影にと確実に移動するんだ。いいな」
ともかくこの戦場まがいの場所から脱出しないと話にならない。
出入り口まで先導すべく指示を出す。
物影から物影へと、機敏な動きで身をこなし、時折見当違いの方向へ流れてくる矢を腰に佩いた剣で打ち払う。
幾つもの戦場を駆け、幾多の危地を潜りぬけてきた若き将軍の後姿は、哀れな被災者(と呼ぶのが相応しかろう)たちの瞳には、どれほどに頼もしく映ったことだろう。
「ありがとうございます、ありがとうございます、葛城将軍……!」
「……気にするな」
「いえいえ、将軍がおいでにならなければ、私たちもどうなっていたことか!」
文字通り命の恩人と言っても過言ではない忍人への謝辞は、親身に迫っている。
礼を言われる筋の話ではないと幾度言っても、彼らは滂沱の涙をこぼしながら幾度も頭を下げていた。
「や、葛城将軍には本当にお礼の申しようもありません」
脱出劇が終了してから遅まきながらやってきたリブにまで頭を下げられて、やや居心地の悪い思いをする。
「葛城将軍」
呼びかけられた声に振り向くと、燃える焔のような髪をした青年が、廊下を歩いてくる。
その姿を認めると、忍人は改めて居住まいを正した。
女官らも、慌てて膝をつき、深く叩頭し礼をとる。
白を基調にした装束を纏い、その異称に謳われるような焔を連想させる真紅の髪が、見る者を威圧させる火雷ナーサティヤ。
故国の王城を攻め滅ぼしたあの日の常世軍を率いた皇子でもあり、忍人に土蜘蛛への不信を植えつけることとなったエイカの真の主でもある。
その意味では、忍人にとっては仇敵と言ってもいいはずの人物ではある。
けれど、すべては互いに立場あってのこと。
個人的な感傷で目を曇らせれば、その瞳はおのずと真実を映さなくなろう。
二国の間に和睦が結ばれて以降、公明正大であるべく自身を律することを心がけている。
「ナーサティヤ殿」
「またしてもこちらの対応が及ばず、貴殿に手数をかけた。すまぬ」
「いや、我が王にも原因のあること。謝罪は不要に」
「だが、我が国の宮に仕える者の危機を救っていただいたのは事実だ」
またしても同じような問答が続きそうな空気を、明るい声が遮った。
「あーもー、堅っ苦しいなー」
ナーサティヤの後ろから、皇弟のシャニがひょいと顔をのぞかせた。
「『ありがとう』『どういたしまして』の二言で終わるじゃない」
身も蓋もないシャニの発言に、将軍も皇兄も沈黙を返す。
「………国と国との間とはそう簡単なものではない。
守るべき礼節は守らねばならぬ」
「喧嘩吹っかけようってんじゃないんだから、簡単に終わらしてもいい話だと思うんだけど」
「…………………シャニ」
ナーサティヤは深いため息とともに奔放な末弟を窘める。
型破りな王を抱き、奔放な周囲の人間に振り回される生真面目なその姿が、まるで鏡を見ているようだと思ってしまうのは不敬だろうか。
歪んだ見方をせぬよう律してきたつもりではあった。
けれど、それを通り越して共感を覚えるようになってしまったことは、忌むべきことか否か、と忍人は複雑な感情に襲われた。
「今日の騒ぎの原因は何か。報告せよ」
ナーサティヤが命じた言葉に、平伏していた女官と官人が、顔を上げる。
互いに顔を見合せてなかなか言い出せずにいる様子は、互いに報告を押し付けあってるようにも見える。
ややあって、官人のほうが、意を決し……ただし歯切れ悪く、経緯を述べはじめる。
その報告を聞くに従って、彼らの面持ちに呆れと疲労が滲みだす。
官人が時折言葉を言いよどむと、入れ替わるように女官から補足が入る。
そんなことを繰り返し、事情を一通り聞き終えて沈黙が落ちる中、シャニが額に指を当てて、ぼそりと呟いた。
「………ねえ、サティ兄様。いい加減、アシュ兄様たちの喧嘩の原因の報告聞くの、やめようよ。
おおごとだったためしなんて、一度もないでしょ」
「……そうも、いかぬだろう。次回もそうとは限らぬ」
「だってさあ、毎回毎回、本気で聞くのバカバカしいものばっかりなんだよ!
今回のだって、とどのつまり、中つ国の使者が葛城将軍ばっかりなことに兄様が妬いて、義姉様に不用意なこと言ったってだけじゃない」
シャニの身も蓋もない要約に、その場の面々にも苦渋が走る。
自らの預かり知らぬうちに痴話喧嘩の種にされていた忍人は、痛む頭を抱えたい衝動を必死に堪えていた。
確かに、常世に使者として立つのは忍人が多い。
それは出自が相応の身分であり、中つ国でも高い地位を確立し、かつ現在の常世の皇―――アシュヴィンと共に戦い、面識の深さにおいても群を抜いているという、忍人よりも条件のよい人物が他にいないためだ。
その条件は、翻せば地位も身分も女王の伴侶に申し分なく、たしかに「狭井君の遠まわしな横槍か」とアシュヴィンが勘ぐるのも、あり得ない話ではない。
………だが、それを実際に千尋相手に面と向かって言ってしまうあたりが問題だ。
それでも当の千尋本人に「私の気持ちを信じていないのか」と抗弁された時点で矛を収めればよいものを、「后殿も満更ではないのではないのか」などと言い放つものだからあの惨事になるのだ。
「…………はぁ」
下がるように命じられた女官たちの後姿が見えなくなったころ、忍人の口からため息が零れた。
中つ国と常世とはかつて戦火を交えた間柄でありながら、忍人の評判は根宮ではけして悪くはない。
皇妃となった中つ国の王である千尋が常世の国に受け入れられていることも確かに一因ではあるのだが。
こうした事態に幾度も直面し、常世の宮の者を救助していれば、否応なく評判も上がろうというものだ。
だがしかし、できれば、違う形で認められたいものだ。
人を救うことで評価されるのはやぶさかではないが、そもそもの原因が自国の王とその夫の痴話喧嘩とあっては、誇りようがないではないか。
外に面した宮の廊下から、空を見上げる。
抜けるように高く、透けるように蒼い、美しい空。
そこに浮かぶのは白く輝く日輪。
すべての災厄の源であった禍日神はすでに空になく。
常世との戦もすでに終結し、平和を迎えて久しい。
だというのに、なにゆえに今更これほどに疲労困憊せねばならぬのかと、忍人はやや理不尽な物思いに囚われた。
「………葛城将軍」
自分と同じく疲労した表情を浮かべるナーサティヤに、沈痛な面持ちで声をかけられる。
「……今回のことは」
「他言無用、との見解はこちらも同じだ」
「有難い」
「そろそろ落ち着いてるかも知れないし、僕ちょっとのぞいてくるねー」
ばたばたと駆けていく皇弟の後姿を、青年たちが見送った。
がちゃりと無遠慮に扉が開かれる音を遠くに聞き、ややあって、ぱたんと閉じる音が聞こえたかと思うと、てくてくと小さな足音が戻ってくる。
「いかがでしたか、若雷様」
「んーとね、いつもどおりだった」
「いつもどおりか」
「うん」
「それでは、今日一日はお二人とも仕事になりませんね」
「……そのようだな」
リブの言葉に、深々とため息を吐く。
シャニの言う「いつもどおり」は、痴話喧嘩の後の「いつもどおり」だ。
つまり、喧嘩の激しさと反比例するように、甘ったるい二人の時間に突入しているわけだ。
世界には互いの存在しかないとばかりに二人の世界を構築する夫婦に、何を話しかけても無駄だと嫌になるほど理解している面々は、今日の執務の進行をあきらめる。
明日になれば、今日の失態を反省した千尋と、彼女に釘を刺されて執務に追いやられる皇とで、今日の分も仕事を進めていただくことになるだろう。
生真面目で堅苦しい思考をしがちな忍人も、この点は何も言及しない。
というかかつてうっかり仲直り直後の二人に対面しに行って、散々な目(おもに精神面が)に遭っている。
「では、早急に葛城将軍のお部屋を準備させます。
以前と同じ部屋で構いませんか?」
「ああ。……世話をかける」
「いえいえ、お互い様というものです」
否応なしに滞在を延ばすことになったが、すでに今では日常茶飯事だ。
根宮の面々も、慣れた様子で手配に走る。
どうぞ、と勧められ、面々は卓につく。
とぽとぽと、のんびり茶を注ぐ音と、茶器がかちゃりと机に置かれていく音だけが、部屋に響く。
忍人は心底疲れ果てた内心を押し隠して無表情を保ち、茶に口をつける。
「今日も、実に平和ですねぇ」
しみじみと呟かれたリブの言葉に、反論する者は誰もいなかった。
終わっとけ。
葛城将軍受難の章。
時系列としては那岐編の直前くらい。喧嘩のとばっちりを食うのが忍人、このあとのラブモードのとばっちりを食うのが那岐(笑)
日常茶飯事すぎて、常世ではすでに誰も動じなくなってるといい。
忍人とサティ、似た者同士だよね、平和になったあと交流もてれば気が合いそう、とか思ったらこんな展開に。