子守歌〜berceuse〜


誰かが適当に夜空に投げあげたような三日月が
空の真ん中でぶらさがっていた。
落ちるでもなく登るでもない。
ただそこにひっかかっている――

「月が綺麗で空気も澄んでいて、僕を邪魔するモノは誰もいない。
まったく文句のつけようもないぐらいすばらしい夜なんだけどね」

セイランは小さくため息をついた。
木に寄りかかりながら見上げるのはそんな鮮やかな月ではなく、
窓から漏れてくる部屋の明かり。
その明かりの中には女王候補のアンジェリークがいるはず。

「僕も暇だね。まったく、いったい何をしてるんだか」

そう、まったくもって何をしているのだろう。
いや、何がしたいのだろう。
ここに自分がいることを見つけさせたいのか。
それともそこにアンジェリークがいるということに満足したいだけなのか。
「こういうのは趣味じゃないんだ。・・・ほんと、いやになる」
こんな女々しい感情などいらないのに。
「確かに?恋は何よりも優る。誰かひとりに身を焦がすのは悪い経験じゃない。
だけどどうしてそれが僕にも降りかかってくるんだろう・・・。
そんな日が来るとは夢にも思ってなかったし、しかも相手は君ときた」

空気が冷たい。
だのにちっとも寒くはない。
君を想っていれば、どんな場所でも内から身体が熱くなる。
それはまったく意志とは裏腹に。
本能に忠実と言えば聞こえがいいのかもしれないけれど。

『アンジェリーク』
僕の前に現れた少女は女王候補。
『頼りない』『どんくさい』『涙もろい』
もっとも嫌いな女のタイプなのに、嫌いになれなかった。
嫌いどころか一目で恋に落ちたと言っても過言ではない。
少し恥ずかしそうに微笑んだあの笑顔と瞳が
焼き付いて離れなかったのだ。
そしてその晩夢に出てくればもう完璧間違いない。
それは世間一般でいうところの『一目惚れ』という感情で――

「ほんとにまったく・・・人生何が起きるかわかったもんじゃないね。
この僕が・・・こうして恋した相手を想って眠れずに、
少しでも近くにいたくて部屋の側まで来るなんてさ」

『あ〜あ・・・』
ため息つきつつ腕を組みながら寄りかかっていた木から身体を離すと、
最後にもう一度明かりのついている窓を見上げた。
「いい加減寝たら?アンジェリーク」
まだ消えない部屋の明かりにセイランは思わず愚痴のような言葉をこぼした。

と、突然窓が開く音が聞こえた。
思わず身体を木の陰に隠そうとした瞬間、
アンジェリークのほうが先に声をかけてきた。
「あ、あの・・・もしかしてセイラン様?」
『ちっ・・・見つかった』
見つかったのに隠れるのも変だし、無視するわけにもいかない。
セイランは諦めて返事をした。
「そうだよ。こんな暗い所にいるのがよく僕とわかったね。
君は随分と目がいい」
「え、ええっと・・・なんとなく、シルエットが月の明かりで・・・。
それに髪の色が・・・」
「なるほどね」
少し離れた距離にいたセイランは、
ゆっくり足を進めると窓の真下まで近寄った。
「セイラン様どうしてこんな時間にこんな所へ?」
「散歩。・・・君は?まだ寝ないの?」
「ええ、なんか眠れなくて。・・・そうだっ!
セイラン様、もしまだお時間あるなら一緒にお茶でも飲みましょう!
今玄関開けますから、ちょっとまっててください」
「えっ?・・・ちょっ、アンジェリーク!?」
慌てて声をかけたがアンジェリークはもう部屋の中へと消えていた。
「はっ・・・はははっ!まったく、ついてるんだかついてないんだか・・・」
髪をかきあげ、セイランは自嘲気味に笑い飛ばした。

まったくもって冗談みたいだ。
こんな一昔前のラブロマンス。

玄関の鍵が開く音が聞こえた。
扉が開いて顔を覗かしたアンジェリーク。
何もわかってない。
無邪気な笑顔。

『可愛いね。ほんとに君は何も知らなすぎるよ。呆れるぐらいに可愛い・・・。
こんな時間に男を部屋にあげるなんて・・・襲ってくれって言ってるようなもんだ』

どうにかするのも、どうにかしないのもすべては自分次第。

『さて・・・僕はどこまで持ちこたえられるか・・・。
なかなかきわどいゲームになりそうだ』

部屋へと入り込み、ゲーム開始のベルはドアの鍵の音だった。

「今飲み物ご用意しますから。紅茶、薄目なら平気ですよね」
「ああ、お構いなく」
邪魔にならない程度のリボンがついたネグリジェに、
カーディガンを羽織ったアンジェリークは
セイランの横を通り過ぎて奥のキッチンへと姿を消した。

とてもよく似合っているうえ、瞬間漂ったアンジェリークの髪の匂い。
まだ乾ききっていない髪からの湿った香り。
『自分の身体を制御するってのは・・・なかなか強固な精神が必要なわけか。
精神の分野は僕じゃないんだけど・・・』
突っ立ったままでいるのもおかしいような気がしたので、
ソファーへと腰を降ろし、部屋の中を見回した。
何度もお茶に呼ばれていたので、部屋の中に入ること自体初めてではない。
だが昼と夜とでは随分と様子が違った。
1日の生活の終わりの匂いが漂っている。
ごちゃごちゃした昼の匂いはもうなく、
そこにはアンジェリークだけの匂いが残っていた。
「これは・・・早々に退散したほうがいいかな」
「えっ?どうしてですか?」
トレーに紅茶のセットとお菓子を載せて、アンジェリークは
戻ってくるとソファーの前の硝子のテーブルにトレーごと置き、
躊躇うことなくセイランの横に同じように腰かけた。
「あ、もしかして何かお約束でもあったんですか?」
「やくそく〜〜?こんな夜中に誰とさ」
「ええっと・・・」
「ま、君が眠くなるまでぐらいはいてあげるよ」
「わっ、よかった!」
両手を前で合わせて喜ぶアンジェリークに、
セイランはただ小さく笑って紅茶に口をつけた。
『出来れば眠くならないでいてくれるといいんだけど・・・。
まあいいか。今夜はこれでも十分ありあまる収穫だ』

「セイラン様は眠れないときどうしますか?」
「寝ない」
「・・・そうじゃなくてぇ」
「眠れないのにどうやって寝るっていうのさ。
大体僕は寝ること自体に興味はないよ」
「あ〜・・・なんか思い出しちゃいました」
「何を?」
紅茶を机の上に置いて、セイランはアンジェリークへと向き直った。
「ほら、お部屋でお話したときセイラン様の好きな食べ物聞いたじゃないですか」
「ああ、そういえばそんな事もあったかな」
セイランは記憶の端をたぐりよせた。
確かにそういった会話をした覚えがある。
アンジェリークはさらに思いだしたのかひとりでくすくすと笑い出した。
「あの時は困りましたよぉ〜、私」
「なんで?」
「だって〜・・・」

・・・・そう、あれはまだ出会って間もない頃・・・・

「セイラン様のお好きな食べ物ってなんですか?」
「おいしいもの」
「・・・・・・じゃ、じゃあ嫌いな食べ物とかは?」
「まずいもの」
「あ〜・・・・・・そ、そうですか」
「まずいものをわざわざ食べるなら僕は食べない方を選ぶよ」

セイランはそう言い切ったのだった。

「・・・な〜んてことあったじゃないですか。今の『寝ない』で思いだしたんです」
「他に言いようがないだろう?」
「ですねぇ〜」
アンジェリークはただおかしそうに笑った後、小さくあくびをした。
「なんだ、もう眠くなった?」
「ん〜と・・・どうでしょう」
そう言いつつアンジェリークはもう一度あくびをした。
「ほら、やっぱり眠いんだ。じゃ、僕はこれで帰るよ」
立ち上がろうとしたセイランにアンジェリークは慌てて声をかけた。
「あ、あのセイラン様!」
「何?」
「せっかく来てくださったんですもん。もう少しお話しましょう」
「もう少しってね・・・」
『僕としては願ったりなんだけど・・・知らないよアンジェリーク。
引き留めたこと後で後悔しても』
「だめですか?」
「いや、いいよ。気が済むまでつき合うから」
「ありがとうございます」
「で、何を話す?」
「話すっていうか・・・お願いがぁ・・・」
もじもじと俯いているアンジェリークにセイランは少し眉をしかめた。
「僕に出来るのなら」
「あのですね、その・・・横になってもいいですか?」
「横に?ああ、楽な体勢を取りたいって事?別にいいけど」
「よかった。じゃ、遠慮なく」
そう言ってアンジェリークは突然セイランへと倒れ込み、
膝枕の体勢をとった。

「・・・何をしてるのかな、君は」
「えっ?だって横になってもいいって」
下からセイランを見上げるアンジェリークに
セイランは大きくため息をついた。
『さすがだね・・・。まったく君は天下無敵だよ』
「膝枕って気持ちいいですよね〜。よく父や母にしてもらいました」
「・・・そう、それはよかったね」
「それでよく頭を撫でてもらいながら子守歌歌ってもらって。
――そうだ!セイラン様歌ってください」
「は?・・・僕が・・・子守歌を・・・歌えって?」
「だめですか?」
アンジェリークのお願いを断れるセイランではない。
ないのだが、さすがに今回のお願いは少々頭が痛くなった。
確かにセイランは画家でもあるが音楽家でもある。
自ら作曲した音楽は山ほどあるが、それを自分で歌ったことはないし、
ましてや子守歌など作ったことはない。
それに歌など人前で歌ったことすらないというのに。
「セイラン様の歌聞きたいな」
「随分と簡単にお願いするね」
「ん〜と・・・それじゃ、今度セイラン様に私も子守歌歌って差し上げます」
「そういう意味じゃないんだけど・・・」
『だめですか?』
もう一度懇願するような、すがるような瞳で
お願いされてはセイランももう断ることはできなかった。

ため息をつくとそっぽを向いて願いを叶えてやることにした。
「わかったよ。だけど僕の顔は見ないこと。いいね」
「はい!」
アンジェリークはうれしそうに笑うと、目をつぶった。

セイランは少し考えてから口を開いた。

小さな声が部屋に充満し始める。
甘く優しいソプラノ。
セイランが選んだ曲はオペラの1節だった。
染みわたるようなその声にアンジェリークはうっとりと
聞き惚れている。

『わたしの声は貴方に届くだろうか。
地の底から、深く暗い海の底から、
あの高い山から、雲の上から、
いつでも貴方を想って歌い続けているのに。
貴方はそれを知っているのだろうか。
おいで、わたしの可愛いお人形さん。
意志を持った清純と優美を兼ね備えた、
わたしだけの可愛い、可愛いドールよ。
貴方がわたしを見つけた時からそれは始まるのだ。
ラビリンスのように続く甘い罠と運命の歯車が――』

歌い終わって『ふうっ・・・』と息を吐き出すと、
セイランはアンジェリークを見下ろした。
『・・・寝てるし』
アンジェリークは熟睡していた。
それはそれは幸せそうな寝顔で。
「アンジェリーク・・・君『据え膳食わぬは男の恥』って言葉知ってる?
いいの?起きないと襲っちゃうよ?」
「ん・・・」
「やれやれ・・・せっかく君のために歌ったのにね。
どうやら僕の声はまだ君には届かないってことなのかな」
セイランはそっとアンジェリークの頭を持ち上げてから
立ち上がると、アンジェリークを抱き上げた。
「子守歌の感想はまた違う機会にでも聞くとするよ」
寝室へと運び、ベットの上にアンジェリークを降ろすと、
セイランはしばらくその寝顔を楽しんだ。
「君は・・・誰にでもそうなの?今夜もし僕じゃない人間が
窓の下にいたら、やっぱり同じ用に誘ったのかい?」
『そんなことしたら・・・君も相手の奴もただじゃおかないけどね』
うっすらと微笑んで、セイランは部屋を出ようと扉へ向かった。
が、思い直してもう一度アンジェリークの傍らに立ち、
置いてあったメモ帳に何かを書き込んで、
セイランはそれをやぶると枕元へ置いた。
そしてセイランはアンジェリークの頬に優しく口づけると、
ゆっくりと髪にもキスをした。
「これぐらいはいいよね・・・。気づかなければ知らないことと同じだから。
僕の精神の強さにご褒美だ」
指に髪を絡ませ、頬をなでたりと、
しばらくセイランはその肌の感触を楽しんだ。
「おやすみアンジェリーク。君の見る夢に僕が出てくるといいんだけど」
そして部屋の明かりを消して、セイランは扉を閉めた。

翌朝目覚めたアンジェリークに、セイランが残したメモは宝物となる。

『君が望むならいつでも子守歌を歌ってあげる。
だけど、次は僕の部屋でだアンジェリーク。
もし君が僕を選んでくれるなら、
君が僕の本物になってくれるならばなおさらね』

セイランの声はアンジェリークに届いたようだ。
アンジェリークはいつだってセイランの本物になることを望んでいたのだから。
そしてその日の内にアンジェリークはセイランのため約束を叶えに行く。

セイランのために子守歌を歌うために。
そしてセイランの本物になるために――