心揺らぐその理由は



揺らぐ蒼穹の瞳、眦に光る透明な雫と、震えるか細い声。

感情の発露を咎めれば身体をかすかに震わせて、
自室へと駆け去るその小さな背を見送って、知らず舌打を発していた。

「……くそ……っ、何で、泣くんだ……」


間違ったことを言ったと思ってはいない。
けれどこの後味の悪さはなんだ。

女の涙に心を動かされたことなど一度たりとてない。
男を引き止める手管、同情を誘うための手段、そんなものは打ち捨てて終わりだ。


なのにどうして、彼女の泣き顔にこれほどに動揺するのか。





思い返せば、彼女の笑顔を見たのは、いつのことだっただろうか。

―――笹百合の谷に連れ出したときが、最初で最後か。

それすら、一面の笹百合の作り出す見事な情景に向けられたものだ。

それからあとは、私情を挟む余地もなく戦場で刃を交わし、その結末は禍日神による惨劇。
ムドガラの自決で締め括られた常世軍とのやりきれぬ戦を経て、政略ばかりが先行した婚儀。
………緊張と責務ばかりに凝り固まる、強張った顔しか思い出せない。


「…………くそっ………」

舌打ちと共に、自室へと向けて廊下を歩いた。
我知らずその足取りは乱暴なものになったが、頓着する気にはなれなかった。



「や、殿下。ご無事のお帰りでしたか」

自室への帰路の廊下で、見るからに安堵した様子のリブと鉢合わせる。
別におかしな言葉はかけられていないはずだが、なにか引っ掛かるものを感じた。
会って来たのが腹の底を読むのに難儀する輩たちであるのは確かだが、
一豪族に命をとられるような失態を犯す真似をするほどに緩んでいると見られるのは心外だ。

「―――お前も千尋も、何のことを言っているんだ?
豪族ひとつを掌中に治めに赴くだけで、いちいち安堵される謂れはないつもりだが」

おや、といった様子で眉を跳ね上げて、リブは首を傾げた。

「殿下のお耳には入っておられませんでしたか。
殿下が赴かれた地方で、荒魂による小競り合いが発生したという報告が幽宮までありまして」

「―――ああ、そういえばあったな。そんな騒ぎが。
やつらの私兵で事足りる程度の小物だったようだから、任せてきたが」

そうでしたか、とリブは頭を掻いた。

「荒魂に遅れをとる殿下ではないとは存じ上げてますが、
なにぶん、そこまでの細かな報告まではこちらに上がってきませんでしたので。
………ですから妃殿下も、御身をご案じなされておりました」

「―――……っ」


欠けていた欠片があるべきところに埋まるように、先ほどの千尋の様子の理由に得心がいく。


『無事だったんだ………』

眦に雫を浮かべた千尋の声が、耳の奥によみがえる。
意図も計算もなく、ただ口の端からこぼれたようなあの言の葉が。
それが、彼女にとってどれだけの重さを持っていたのか。

互いの関係こそ政略ばかりが先行した婚儀によるものとはいえ、
あの姫が情に篤い人間だと、身をもって知っていたのに。

他でもない、俺自身に向けられた想いを踏みにじって。
心情を酌みとってやることもせずに千尋を咎めた自分を、今更のように後悔した。


くせのある自分の髪を、乱暴にかき混ぜた。

「―――くそっ、馬鹿か俺は!」

自室へ向けていた己の足を、再び逆方向へと踵を返した。




千尋の部屋の扉の前で、立ち尽くす。
扉の向こうから、かすかに漏れ聞こえる嗚咽は、千尋のものに他ならない。

ぎしり、と心が軋む。

―――泣かせたいなどと、一度だって思ったことはないのに。

そのことに思い当たって、ようやく理解する。
どうして、千尋の涙にだけ、あれほどに動揺してしまったのかを。


涙に弱いから動揺するのではない。
笑顔を見たいのに泣かせてしまうから、どうしていいのかがわからなくなる。


差し伸べられた手を、そうと知らず振り払った自分を、千尋は許してくれるだろうか。

利にならねば打ち捨て、不要と判断すれば切り捨てる。
そんな世界に長く身を置いていた自分は、泣き顔を笑顔に変える術を、あまりに知らなすぎる。
……いいや、くだらぬ小細工を弄してもあいつの心には届かないだろう。

―――心のままに詫びるほかあるまい。

腹を据えて、扉の向こうに声をかけた。








扉越しの謝罪の言葉を受け入れて岩戸を開いてくれた比売神に、安堵の息が零れる。

思えば、婚姻を交わしてからは顔をあわせることすら片手の指で足りるほどで、
夫として妻として、まともに向き合ったことなどなかった。

互いに歩み寄ることができれば、こんなにも喜びを感じることができたのに。



「それじゃあ、また明日ね。―――おやすみなさい」

―――ああ、やはり千尋は笑顔が一番美しい。

微笑んだ千尋の笑顔に、胸にぽぅっと暖かくともるものがあった。
初めて、純粋に俺自身に対して向けられた笑顔。

この笑顔を得られたのなら、今日一日の労苦もすべて報われるというものだ。
そんな思いをしみじみかみしめていると、千尋がぽっと頬を染めて俯いた。

「―――どうした?」

「……だ、だって………アシュヴィンのそんな顔、初めて……」

言われて、顎に手を当てて考え込んだ。

「―――そう、だったか?」

「……うん……笑顔を向けられたことはあるけど……
そんな優しい笑顔、見たことないわ…」

愛らしく頬を染めて顔を逸らす千尋に、ふっと笑う。

「惚れ直したか?」

「―――!!んもう、アシュヴィン!」

千尋は白く細い腕を振り上げて、小さな拳を叩きつけた。
か弱い女の細腕で殴られたところでいかほどの痛みを感じるものでもない。
頬を染めて暴れるそんな様子は照れ隠し以外の何ものにも見えず、胸に小さな期待が芽生える。

「俺はわりと本気で尋ねているんだがな」

「―――〜〜っ!」

耳まで赤くして千尋はそっぽを向いてしまう。

俺の奥方はどうやら随分と照れ屋らしい。
これ以上食い下がると機嫌を損ねかねないな、と矛先を収めることにする。
またぞろ岩戸の奥へと閉じ篭られてはかなわない。


「もう随分と遅い刻限だな。もう休め。
―――明日、また話そう。お前のことも、俺のことも」

千尋の柔らかい金の髪を撫でてそう告げると、そうね、と頷きがかえる。

「そう…そうよね、私たちお互いのことを知らなすぎるんだわ」

そういって、千尋はにっこりと柔らかく微笑んだ。

「これからずっと隣を歩いていくんだもの。ゆっくりお互いを知っていきましょう。
一日ごとにあなたをより理解することが出来たら……嬉しい」

「―――………っ!」

不意打ちの言葉を放っておきながら、それじゃあおやすみなさい、と就寝の言葉を残して千尋は扉の向こうに消えた。

それを見送って、扉が閉まるのを見届けたのち、廊下の壁にどん、とその背をぶつけた。
誰も見ていないと承知してはいたけれども、赤くなる顔を片手で覆って外界から隠す。


笑顔が見たいと切望し、泣かせてしまったら動揺し、
理解を深められたら嬉しいと笑顔で言った言葉に歓喜で心が震える。


ああ、これを恋というのなら、なんとも恋というものは厄介な。
さらに厄介なのは、それを疎んじてない自分自身。



答えが返らぬと分かっている言葉を、その扉に小さく投げかける。

「―――離せなくなるぞ?千尋……」




住まうものの心の動揺は何処吹く風に、幽宮の夜は静かに更けていく―――






100のお題No.35「意味」。動揺の意味とかそのへんで。
八章の補完SSです。「…ごめん」の前にはきっとリブあたりから理由を聞いたに違いないと思っています。
ていうかあの鈍感皇子が自分で気づいたとは思えな(強制終了)