心を縛るものは
はじめは、名を持たなかった。
人を喰らい、血に塗れて生を繋ぐその存在を呼ぶ言葉は、魔物、妖、化生。
名を与えたのは一人の女だった。
出逢ったのは遙か昔。だがその姿は瞼を閉じれば今もなお色褪せずに甦る。
生の意味に惑っていた己に、光の道を指し示した巫女。
答えが見つからぬなら、見つかるまで探せばよいと言った巫女の言葉に、
千の魔物を狩るまでとの約定で交わした式の盟約。
盟約は、答えが出ぬまま尽きようとしていた。
けれど最後の主となるであろう巫女との邂逅と、千体目となる魔との遭遇が全てを変えた。
この国に喚ばれたそのとき、記憶すら朧な『自分』が、真実望んでいたのは。
今、葵の手には、紅い小刀が置かれている。
あの夜のごたごたで再び喪失し、取り戻すことは半ば諦めたそれ。
「預かってきた。……正式に、ぬしに返すと」
目の前でプルートからの言伝を伝える男の姿は、長い紅の髪に水干姿。
盟約を果たすまで自らの半身となるその小刀を葵に手渡すその様子からは、隠そうとしても浮き出る複雑な感情の起伏が見て取れた。
「我も、それを承服した。この刀はいまひとたび、ぬしのものとなる。
我を呼べ、七姫。呼べば何処からでも馳せ参じる」
確かに、千の盟約はいまだ果たされず、紅の小刀もこの手に戻ってきた。
呼べばその言霊は、力を発揮しよう。
だが、葵は苦笑を浮かべてゆっくり首を横に振る。
「……今の私に、おぬしの名を呼ぶことはできぬ」
思いもかけぬ反論に、紅の魔物の眉根がぴくりと跳ね上がる。
果ての見えぬ永い生を、風のように吹き過ぎていった幾多の巫女や巫覡たちも、もういない。
仮の主であったプルートが刀の所有権を放棄した今、『紅丸』を呼ぶ資格を有するのは真実彼女ひとり。
「今も昔も、変わらぬ。我の名を呼べるのはぬしだけだ」
そうではない、と葵はその瞼を閉じて瞑目する。
「私は、真名でおぬしを縛ろうとは思わぬよ」
力ある者の言霊で呼ばれる真名は、強い拘束力を持つ。
けれど、今更そんなもので彼の者を縛る意義が、どこにあるというのか。
国を守り、世界を慈しみ、そして人から愛されたこの魂に。
「千体の盟約は、もはや履行が叶わぬゆえ、真名は最後の楔として、刀と共に私が預かろう。
だが、もう私に縛られることはない。おぬしを制約するものはなにもありはしない。
おぬしはおぬしの望むように生きよ」
「……七姫」
紅丸は、些かの怒りと、盛大な呆れで葵をねめつける。
この女は、一世一代の覚悟で『残れ』と伝えたその言葉の、半分も理解していない。
―――真名で我が縛られると?
「七姫―――葵!」
呼ばれたとたんにびくりと震えた葵の様子を意に介さず、
強い力で手首を掴んだ紅丸の右腕が荒っぽく葵の身体を引き寄せた。
「何を、納得顔で一人で完結させている。ぬしは、なにも分かっておらぬ。
我を縛るつもりはないと?―――ここまで心を縛っておきながら、何をいまさらなことを」
左手が葵の頤にあてがわれ、くい、と顔を仰がされる。
吐息がかかるほどの近さで言葉が紡がれる。
「真名と魔力で縛られるのはこの身のみ。だが我の心を縛ったのは、ぬしの存在そのものよ。
言葉では足りぬか。行動に移さねば分からぬか。その身体に、我を刻み込まねば理解できぬか」
初代をはじめ、数多の巫女や巫覡が『紅丸』の名を呼んできた。
だが、名を呼びたいと願った者は彼女ひとり。
名を呼ぶことは誰にでもできるか。声に出せばそれで終わりか。―――否。
呼ぶことを許し、呼ばれることを望んで、初めて名は意味を持つ。
数多の人間に呼ばれようとも、望んだたったひとりに呼ばれなければ意味が無い。
「名を呼べと、刀を持てと、我が言うのが何のためと思っている。もはや服従のためではないぞ。
護らせろと―――ぬしを失えぬと言うておるのが、わからぬか」
想いに名を付けずに傍に在れた日々はもう遠い過去。
紅丸は荒ぶる感情にまかせて、眼前の唇に己が唇を重ねた。
手首を拘束していた右手はいつしか葵の背に回り、左手は細身の腰を抱く。
苦しげにくぐもる声に構わず、思うさま堪能してから唇を解放すると、頬を上気させて呼吸を整えようとする葵に睨まれる。
些か迫力に欠けるその情景に頬を緩ませ、紅く染まる白磁の肌に指を這わせた。
「望むように生きよというならば、今すぐぬしを奪うぞ。
我を縛らぬとはそういうことだと思え。―――覚悟ができたなら、いつでも解放されてやろう。
だが、我から離れられるとは思わぬことだ」
今度は、我がぬしを縛ってくれよう―――
耳元で密やかに囁かれたその言葉に、葵が反論できることは、ついぞなかった。
拍手お礼創作 紅丸×葵 100のお題N0.96「フレーズ」。
「フレーズ」を「意味ある言葉」と解釈し、転じて名前を呼ぶ重要性、とか。あと従攻めバンザイ。