文字のない恋文
「…どうしてだ!」
ガシャン!
非音楽的な音をたてて、セイランの部屋で物がぶつかり合う。
あるべき場所から床へと叩き落とされた物で雑然とした部屋に、
苦悩の表情を浮かべ、一人、キャンバスに向かったままの人影があった。
「…描けない…」
真っ白なキャンバスに向かったまま、セイランは呟く。
このところ、ずっとそうなのだ。
キャンバスに向かった途端、頭の中が真っ白になって、何も描けないのだ。
ただ真っ白なキャンバスに向かったまま…立ち尽くす。
そんな日をいったい何日過ごしただろう。
出口の無い迷路に迷い込んだように、
焦燥感に襲われながら、またキャンバスに向かい、再び挫折する。
幾度も幾度も。
苛立ちながら、日々を過ごし、焦燥感は強くなるばかり。
セイランにとって、詩を詠うこと、絵を描くこと、曲を奏でること、
それを奪われた自分には、なにも残らないことを、知っている。
それらすべてが自分を表現する手段なのだ。
それをなくせば、後に残るのは『セイラン』という名のただの抜け殻だ。
「…どう…して」
言いながら、がたん、と椅子に無造作に座り込む。
…何故、こんなことになったのか…。
心当たりは、まるでない。
少なくとも、今の自分にはわからない。
──チュンチュン
窓の外から、朝日と共に、鳥の声が聞こえ始める。
荒れていた心は少しは落ち着いて、ゆっくりと顔を上げた。
カタン──
椅子から力なく立ち上がり、私室を後にする。
向かった先は、いつもの学芸館の執務室。
やる気なんぞ欠片も出てきはしないが、
今は──「女王試験」の真っ最中。
自分で引き受けた仕事を放り出すのは、プライドが許さない。
執務室の扉の前で、ドアノブを握ったまま、セイランはふと思いを馳せる。
聖地に来てから…なのだ。そういえば。
描けなくなった。詠えなくなった。
只人には入ることもままならぬ、外界から隔離されたここ聖地に来てから。
普通なら…いつもの自分なら、こんな特殊な環境でこそ、
描けるはず、詠えるはずなのに。
ふうっ……
溜め息をひとつついて、セイランは握ったままのドアノブをガチャリと回す。
カーテンをあけるとすべてを目覚めさせる光が部屋を洗い、
窓をあけると締め切った部屋のよどんだ空気が、清浄な空気と入れ替わる。
──静かだ。
日々の喧騒から切り取られたような、まだ早い朝の一時。
あと少しすれば、いつものように、人々の声が響き渡り出す。
ザワザワと風に揺られる樹の葉擦れの音がセイランの耳を心地よく打つ。
無為に夜明かしをしたセイランは、その音に誘われるように、
いつしか心地よい睡魔に身を委ねていった。
夢を…見ていた。
内容は覚えていない。
ただ、白い羽のイメージだけが残っている。
「…ン様、セイラン様?」
おずおずと自分にかけられる声に気づき、セイランはゆっくりと目を開けた。
目の前には、見慣れた少女の顔があった。
「………ああ、アンジェリークか…。
僕は眠ってしまっていたんだね」
「…すみません、気持ちよく眠っていらっしゃったのに、お起こししてしまって…」
「君が謝ることじゃないだろう、
なんでもかんでも謝罪してすますんじゃないよ。
少しは「罪を責める」ということを覚えた方がいい」
「ごめんなさ……あっ」
しまった、というように口に手を当てて慌てるアンジェリークの様子に、
セイランは呆れを通り越して苦笑をこぼした。
「――ま、それも君の個性かな。
ほら、学習しに来たんだろう、教材を開く!」
「――はい、今日はここまで」
「ありがとうございました。
それじゃ、失礼しま……あれ?」
お辞儀をして退室しようとしたアンジェリークの足に、
こつん、と何かがぶつかった。
アンジェリークはひょいっとそれを摘み上げる。
「……絵の具」
それは、使い切って空になった絵の具のチューブだった。
描くことができなくなって、無くなったことすら、忘れていた。
「セイラン様の…ですよね」
「どうせ、空になったものだ。捨ててよ」
必要以上に突っ慳貪にセイランは言い放つ。
アンジェリークは少し躊躇った後、
諦めたように部屋の片隅の屑籠へとそれを放り込んだ。
いらない。何も。今は何も。
ただ詠いたい。描きたい。なのに何もできない。
悪循環とわかっていても、何かに八つ当たって、尚更深みにはまる。
日の曜日の朝。庭園に、馴染みになった明るい声が響く。
「お〜、いらっしゃ〜いお客は〜んっ!
さー、見てってや!何でも取りそろえてまっせ!」
「こんにちわ、商人さん」
アンジェリークは、並べられた品物を眺めていった。
その視線が片隅の品物で止まった。
「…これ、ください」
コンコン――
セイランの部屋に、ノックの音が響く。
「――どうぞ」
やや遅れて、セイランの声が帰る。
キイッと音を立てて、扉が開いた。
「……こんにちわ。セイラン様」
アンジェリークの挨拶が多少遅れたのは、
部屋に散乱した画材の数々を見たからだった。
絵の具、パレット、筆、キャンバス、etc....――
「何の用。お誘いなら日を改めてくれ。とても今日はそんな気分じゃない」
「いえ…私はセイラン様にこれをお渡ししたくて…。
受け取ってくださいますか?」
差し出された包みに視線を向けると、セイランはふいっと机を指し示す。
『そこに置いていって』という意味だ。
アンジェリークは包みを置くと、名残惜しそうに扉へと向かった。
ドアの手前まで来ると、アンジェリークは振り向いた。
「――描けないときは、無理に描こうとしない方がいいと思います。
…なんか、偉そうなこと言ってますけど…セイラン様のつらそうな顔って、
いい物を創り出せる顔にはとても見えませんもの。
今の自分も自分なんですから、無理に今の自分を否定しないでください」
ぴくっとセイランの肩が震えた。
「すみません、失礼なこと言って…。
それの中身は、使いたくなったときに、使ってください。
それじゃ、私はこれで…」
パタンと扉が閉じられる。
セイランは閉まった扉をぼんやりと眺めていた。
「――言ってくれるじゃないか」
唇の端に笑みを浮かべる。
自嘲の笑みか、賞賛の笑みか、セイラン自身にもわからなかったが。
机に置かれた包みを手に取り、包みを剥いでいく。
その中から出てきたのは、色鮮やかな絵の具一式。
空になった絵の具を見て、アンジェリークが買い求めたのだろう。
不意に、今まで感じたことのなかった感情が、セイランの胸の内を占める。
なんだろう、この気持ち。わからない、わからないけれど…。
今、無性に絵が描きたい。とても。今なら、描けるような気がする。
いや、描きたいというより、胸に浮かぶ情景を、キャンバスに縫い止めたい。
改めて、自問自答してみる。
自分の描きたいもの。詠いたいもの。
それは何?
『無理に、今の自分を否定しないで』
描かなくては、詠わなくてはと、そればかりにとらわれて、
何を描きたいのか、それを見失っている自分に気づかずにいなかっただろうか。
「…僕の…描きたいもの…」
瞳を閉じた時、瞼に浮かんだその影を追う。
その影を、その姿を、キャンバスに描きたい……。
セイランは改めてキャンバスに向かった。
筆を持つ手が、軽いと想ったのはどれくらいぶりだったか。
コンコン――
アンジェリークの部屋の扉にノックの音が響く。
カチャッと開いたその扉の向こうには、セイランが立っていた。
「…ちょっと、時間いいかな、アンジェリーク。一緒に来て欲しいんだ」
「こないだはすまなかったね。苛立ってて、ぞんざいな応対しかできなくて。
それから…プレゼント、ありがとう。大切にするよ」
「大切になんて、しなくていいです」
「え?」
「セイラン様が、描くために目一杯使ってくださった方が嬉しいですから」
セイランはくすっと笑った。
どれくらいぶりだろう、素直に笑えたのは。
「…それもそうだね。じゃ、お言葉に甘えて大切にせずに使わせてもらうよ」
セイランはアンジェリークを、自分のアトリエに連れていった。
布のかかったキャンバスの前で立ち止まると、アンジェリークを振り返る。
アンジェリークはその視線を真っ向から受け止めた。
「…これを、私に見せるために?」
「そう。君に…君に見てもらわなくちゃ意味がない」
「どうして…」
「僕の、本当の心を知ってもらう、一番の方法だから。
口をついて出てくる言葉と、詩に乗せる言葉は、僕にとって違うものだ。
君のために詠うのも…いや、そんな言葉を並べるより、
とりあえず、この絵を見て欲しい。答えは…その後でいい」
シュルっと布が取り払われる。
その布の下から姿を現した絵に、アンジェリークは息をのんだ。
それはアンジェリーク以外の誰でもなかった。
風になびく琥珀色の髪。
透き通るような象牙色の肌。
微笑みを浮かべるその瞳は、深い海の色。
風を背に受けて、白い羽がキャンバスいっぱいに舞っている。
微笑みを浮かべる少女は、愛らしく、また神々しくもある。
技術だけでは描きとめられぬ何かが、そこにはあった。
それはまさに、セイランにしか描けない…、
セイランにしか書けない、文字のない恋文。
「……………っ」
アンジェリークは、瞳に涙を湛える。
その表情は、けして哀しげではなかった。
「…何故泣くんだい?」
「…わかりません。わからないんですけど…。
でも、なんだか、とっても…嬉しいんです……」
女王試験を終えて、数ヶ月の月日が流れた。
セイランは、アトリエの床に散乱するキャンバスの一つを手に取ると、
無造作にイーゼルに立てかける。
軽やかに筆を滑らせ、幾度もその白い画布に少女の姿を描きだしていく。
ふっと、窓の外を眺める。
風が吹き抜けていく庭に、一人の少女が、楽しそうに犬と戯れていた。
その情景を眺めながら、セイランは、浮かんだ言葉を口の端に乗せる。
「不可視の翼もちたる舞姫…音無き調べに、姿無き舞を舞う…。
言葉もなく、魅せられる者の愚かな願い…聞き届けられるなら、
ただ、眩き光の海の中、この瞳にその姿映すことを許したまえ………」
――女王候補アンジェリークは、女王試験の終了と同時に、
一人の教官とともに聖地を去った――
聖地の公式記録には、そう記されている。
キリ番ゲットのリクエストで書いた創作でした。リクエストの内容は、「「好きだ」とか、「愛してる」などの言葉を使わずに、絵や詩でアンジェに愛を伝えて欲しい」というものでした。悩んだあげく、こんな話になりましたが…。
自分で読んでみて一言。「詩がクサい」(爆)。何度消そうと想ったことか(笑)。
スランプについてだって、あんなに簡単に抜け出せるものじゃないと思うんですが…。
すみません、私の技術不足です。ああっ、石投げないでっ(汗)