胡蝶之夢





―――セイ

―――おセイちゃん


父や兄が呼ぶ声、親しんだ界隈の人々の声が、耳に響く。


春のうららかな陽気と、きらきらと色を変える木漏れ日。
竹刀と道着を肩に担いで道場に向かう兄の吹きゆく風のようなさわやかな笑顔を手を振って見送る。
日が高くなりだすと、少しずつ訪れる人も増えだして、診療所で診察を待つ人々が世間話に興じて賑わいが満ちる。

セイ、と父の呼び声がかかると、はい、と応えて診察用具や薬、包帯などを抱えて、忙しく走り回る。


―――突然喪うこととなるなどとは、露ほどにも思わなかった、忙しないながらも穏やかな、日常の風景。









たゆたっていた意識が、白く溶けて、ふっと浮かんだ。

「――――………?」

まだ夜が明けきらず、闇に溶ける天井を見ながら、セイの意識は現状をはかりかねていた。

どうして、自分の体はこんなに重いのだろう。
自分の部屋は、こんなに天井が高かっただろうか。
日向に干した包帯の匂いも、父があちこちから集めた薬の臭いもちっともしない。


布団の上に身を起こすが、覚醒しきれぬ意識は、いまだ夢と現との狭間をたゆたっている。
起き出した気配があるのに身動きすることもなくぼんやりと布団の上に身を起こしているだけの自分を訝しんでか、屏風の向こうから声がかけられた。

「どうしたんだい、神谷くん」

聞き慣れた優しく気遣わしげな声に、漸う意識が現に馴染み、びくりと心の臓を跳ね上がらせて飛び起きた。
小姓役として付いていながら、部屋の主の安眠を阻害するなど論外のことだ。
屏風の脇から姿をさらし、セイは―――清三郎は額をこすりつけるように頭を下げた。

「すいません、山南先生!お休みの邪魔を」

「君が目覚める前から起きていたから、その心配は無用だよ」

その言葉を裏付けるように、行燈には被いをかぶせて光量を落としているものの、文机に広げられた料紙や筆、硯や墨を見るに、なにがしかの書きつけのさなかであったことは察せられる。
睡眠の邪魔ではないまでも作業の腰を折ってしまったのは定かだ。
なお恐縮して自然と再び頭が落ちる。

「その……申し訳ありません」

ずいぶんと気の緩んだ醜態を晒してしまったようで、武士たらんと己を律しているつもりの清三郎は恥入るばかりだった。





「心、ここにあらず、といった様子だったね」

その声音に責める調子は微塵もなく、優しく清三郎の耳に染み込んで、失態に乱れた心も、ゆっくりと落ち着きを取り戻していった。
穏やかな山南の笑みは穏やかで懐が深く、総司を風に例えるならば山南はどっしりと構える山のようだった。


先の編成替えから、清三郎は山南の小姓役として傍に仕えている。
部屋には屏風で空間を仕切り、着替えのときは席を外すほどの、清三郎にとっては過分なほどの気遣いは、その実「セイ」を気遣ってのこと。
紆余曲折を経て、清三郎の秘密を知りながらも知らぬふりを貫き通してくれる。
知らぬふりをしてくれる山南の心根に応えて、自分も知られておらぬふりを貫くことを決め、互いの間ではごく自然と、踏み込んだ会話をしないことが暗黙の了解となっていた。



「―――夢を、見ていました。頂妙寺の……」

「頂妙寺というと、たしか御父君の……」

「はい、父と兄が生きていたころのことです」


「―――とても、いいご家族だったんだろうね。
とても幸せな懐かしいものを見るような目をしているよ」

「――――はい」

瞳を閉じれば、あの夢がよみがえってくるような錯覚を覚える。

父と兄が生きていたころの夢。
―――まだ、『富永セイ』がいたころの。

神谷清三郎の名を名乗り始めてからは人前で口にするには禁忌となったその女子の名。
いつもは蓋をして心の奥底にしまっているその思い出を口の端に上らせたのは、人気のない宵闇と、目の前の暖かな人の雰囲気による後押しだろうか。


「兄はいつか幕臣となり公儀のために尽くすのだと、志に燃える武士でした。
武士とは身分ではなく志なのだと、私は兄のその背に教えられて育ってきました。
父は頑固者で変わり者で……母が死ぬまで家にも戻らぬその身勝手さに、何度も衝突したものです。
好いていたかと言われると素直には頷けませんが……けれど身分の区別なく病める人々に尽す姿勢は、私も尊敬しておりました」


些細なことで喧嘩をしたり、日々にあった出来事に笑いあったり、そんな、普通の家族だった。


「兄がいつものように手を振って道場に行くのを見送って、父の営む診療所の手伝いをして……。
そんな風に毎日が過ぎていく、穏やかだったころの夢です。
あまりに当たり前のように馴染んだ風景で……目が覚めたとき、それがうつつと紛うほどに」


セイの視線が、遠い過去に喪われた懐かしいものに思いを馳せるように、遠くを見つめる。
未だ心の半ばは、あの懐かしい風景に奪われているように。



「―――まるで『胡蝶の夢』だね」

「胡蝶……?」

「荘子という宋の時代の思想家の説話だよ。
自らが夢で胡蝶となるのだろうか、それとも胡蝶が夢で自分になったのだろうか、とね」

本来は一切斉同や無為自然を説く説話だが、今の清三郎の様子を眺めているとふいと口を突いて出てきた。



思いもかけずに心に降ってきた、懐かしい、夢。

ひどく当り前で、幸せな……本当なら、今も歩んでいたはずの道だっただろうに。



「神谷君。もし君がよしとするならば、いつでも私は君の後見になるよ」

「―――山南先生?」

「君のことを聞いた時から、ずっと考えていたことなんだ。
所帯も持たぬうちにいっぱしのことを言うようだが。
いつか……彼女と共に3人で家を構えてもいいと思っている」


彼女とは明里のことだと敢えて言われぬでもわかる。
秘密を知らぬふりを通してくれていると知った時から、互いの会話で明里の名を出さぬようになった。


「隊の面々は親元を頼るを潔しとしない武骨者の集団ではあるが、私も故郷には家族がある。近藤さんや土方くん、総司だってそうだ。
だが君のような優しい人物にこそ、心を安んじる「家族」が必要だと思うんだ。
君がこのまま武士として生きたいというのであれば、それもいいだろう。それをやめさせようとは思わないよ。
それでも君の帰る場所として、仮初めでも家族となることを、一考してもらえれば嬉しいと思う」


「山南先生……」


真摯に心を砕いて気遣ってくれることが嬉しくて、胸の奥がぽんと灯がともったように暖かくなる。




山南を父代りとし、明里を母代りとし。
―――それは、なんて幸せな風景だろう。
まるで、夢のあの過去が、現世によみがえったかのような。
瞳を閉じれば瞼の裏に実像を持って浮かんできそうなほどに、幸せな風景。
この身の秘密を知った上で口を噤んでくださる二人の元ならば、心安らかな日々を送ることとて叶うだろう。




清三郎は、ひととき、その夢に酔った。


けれど、今ひとたび瞼を開いたときには、その夢想はやはり儚く消えるのだ。


「私などの身には余るほどのご厚情、本当に嬉しく思います。けれど……」

言い澱んだその先を、山南は酌み取った。

「……やはり、私では君の父親代わりとしては不足かな」

清三郎はその言葉にばっと顔を上げた。
言葉が足りずに誤解を受けることだけはしたくない。

「とんでもありません!
山南先生を尊敬こそすれ、不足があるなどと!」






「考えたことがないわけではないのです。
もし、あのとき、父と兄を喪う事件に遭っていなかったらと。
きっと私の代わりに兄が壬生浪士組に参じ、私は父の跡を継いで医師の道を志していたのだろうと思います」

そうなっていたら、きっと隊に対する見方も今とはずいぶんと様変わりしたに違いない。

「命をうみ生かす医師の道。その生き方が、意味のないものだとは思いません。
約束された幕臣の道を捨ててもその世界に身を投じた父の気持ちも、その道を極めることで理解する日が来たのかも知れないとも思います」

それが、幸せという名の日々であろうことも、想像に難くはないけれど。


「けれど私は、歩み始めたこの道に、換えようのない生き甲斐を見出してしまいました。
もはやこの道以外を歩むことを、考えることはできません。
もし、神仏がもう一度人生を選ばせてくださったとしても、私は神谷清三郎の道を選びます」

「……神谷君」

物言いたげな山南の表情から、何を飲み込んだのかを清三郎は察する。
わかっているのだ。自分の発言が、どれほどに父と兄に対して申し訳の立たぬことなのかは。
けれど、それでも譲れないものもある。

「この道は、富永の兄を喪い、父を喪い、そして「富永セイ」を失う道。
けれど再び悲痛な出来事に遭うとわかっていても、私は、何度でもこの道を選びます。
―――『誠』のために生きて死ぬ、武士の道に」



そのために、鬼となるのも修羅となるのも厭わぬと、自分は誓ったのだ。


「懐かしく愛しい夢でした。けれど夢は夢。朝がくれば、光とともに溶けて消えるがさだめです。
私の生きる道は、もはやこの道のみと自らに誓った以上、これ以上の甘えを自分に許すことはできません。
私の家はこの隊、私の家族はこの隊の同志たち。―――それで充分なのです」


山南は、ふうとため息をひとつつく。
優しげに見えて意外に頑固なこの娘は、こうと決めたら梃でも動くまい。

本人が言う頑固者だったという父君の資質を、しっかり受け継いでいるのだろうと思うと、微笑ましくも思う。
志に篤いところも、その背を見て育ったのだという兄君の影響の賜物だろう。

――――ああ、そうだ。彼女の家族は、こうして彼女自身の中に生きているのだ。


この現が胡蝶の夢だとしても、彼女ならば最期まで彼女らしく生きるのだろう。

時に風に揺られ、時に風と遊ぶ野の草のような少女。
岩の隙間から芽を出して、葉を伸ばし………そして、いつか花をつける。



きっと自分にできることは、余計なお節介を回すことでなく、彼女が彼女らしくあれるよう、ほんのわずか手助けをしてやることだけだろう。
そして伸ばした葉のその先にあるものを、見たいと思ってしまう。
そう思うと、ふと笑いがこみ上げて、ふふ、と口の端から零れた。
好意を断って気分を害していないかと気遣う清三郎の前でこぼれた笑みに向けられた怪訝そうな瞳に、いやすまん、と手を振った。

「総司が、君にいままで助力してきた気持ちが、少しわかるような気がしてね」

その名に、清三郎の心がどきんと跳ねた。
けれど多くは語らぬまま、ひとしきり起こった笑いを収めると、いつもの穏やかな微笑みが山南に戻る。


「詮無いことを言ってすまなかった。
もう、眠りなさい。君も私も、今宵の話は一夜の夢と忘れよう。
いつか君がそれを必要とする時がくるまで、心の行李に仕舞っておくよ」

「……はい」

懐深く優しい声に、緊張に強張った心も解れていく。
そうして、行燈の灯りが落とされれば、すべては闇に溶けて眠る。



「――――山南先生?」

「なんだい」

屏風越しに呼びかければ、穏やかな声が返る。


「………………ありがとうございます」

幾重もの意味で告げたその言葉を、山南は余すところなく酌んで、ただ一言「ああ」とだけ答えが返った。







夢は夢。朝日が昇れば光に溶けて消えるがさだめ。
けれど心に残る夢もある。

長い秋の夜に見た夢は、ひどく優しい夢として、永く心に刻まれた。




山南パパ、明里ママ、斎藤兄上。想像してみると結構理想的かも。
山南さんの父性的な懐の深さを書きたかったんですが、時系列的にセイの玄庵パパへの心証が改善されていない時期なので、「父のよう」という台詞は使えなかったのが残念です。