黄金の日輪
皇たる父の招請をうけ、辺境の王城から王都の根宮へと居城を移してよりまだ日の浅いある日、少年はひとり、坂を上っていた。
―――豊葦原と繋がるという黄泉比良坂。
常世にも数多あると言われるその道は、常は人々には秘され、限られた人間だけが、その場所と通行とを管理していた。
身分から言えばその特権は許されるが、まだ幼さの残る少年には常世の国内も知り尽くすにはいまだ及ばず、異国に興味以上の関心を持たずにいた少年が、明確な意思を持ってその道を抜けたのは、それが初めてのことだった。
床より離れてろくに時間の経たない身を案じて止める周囲を振り切って、一人で坂を上った。
病気とは表向きで、身を苛んだのは毒だ、と承知している。
『病』がぶり返すはずもない。毒に蝕まれた身体もとうに回復している。
思いのほか快癒に時間を要しているのは、心のほうだった。
王族に血の情など何を保証するものでもないと知っていたはずだった。
だが、いざ遭った姉の裏切りは、少年の心を少年自身が思っていた以上に強く抉った。
毒を盛った姉を恨もうとは思わない。また追い詰められて毒杯を呷った姉を哀れもうとも思わない。
自らはその立場にけして回らぬと、彼自身にも胸を張って言うことなどできない自分を分かっている。
それが王族の習いといえばそれまでだ。
逃避といえば逃避なのだろう。
それでもただただ今は常世でない場所を見たかった。
うんざりするほど長い道、いつ終わるとも知れぬ薄暗い洞穴を、ただ遠くに白く小さく見える外界の光だけを導に歩き続けた。
―――そして比良坂を抜けたその先には、別世界が広がっていた。
高く、青く、透けるような青空。清水の溢れる泉の音と、暖かく身を包む陽光。風に揺れる緑。
荒廃の忍び寄る常世とは、あまりにも差異のある恵に満ち溢れた世界。
「………これが、豊葦原か」
「―――誰かいるの?」
誰もいないと信じ込んでいたその場所で声をかけられることなど予想もしていなかった少年はびくりと身を振るわせた。
思わず腰に佩いた剣の柄に手をかけるが、あたりに殺気は感じられない。
殺気の篭らぬ気配までをも察知するには、まだ少年は経験というものが足りなさすぎた。
上よ、と再度かけられた声に従って岩場を見上げれば―――視界に移ったのは、黄金の日輪。
いや、日輪と思ったのは一瞬のこと。
目を凝らしてみれば、声の主がその背に浴びている陽光が風になびく金色の髪に透けて、淡い太陽とみまごう光を作り出していたのだった。
「―――………」
―――あれは、光の比売神か。
らしくもなくそんな比喩が自然と頭に浮かんだ。
逆光でしかとは見えないその声の主の姿を確かめたくて、そこらの岩に手をかけて岩場をよじ登る。
難なく頂上へとたどり着くと、そこにいたのは一人の幼い少女。
あどけなく首を傾げるその仕草はただの少女のものだが、一際目を引くのはその金色の髪。
光を浴びてきらきらと光をまとってまさに陽光に包まれたような暖かな髪の色。
そして今二人を見下ろす晴れ渡る空のような蒼穹の瞳。
その頬には涙が流れた跡が微かに残る。
「―――泣いていたのか」
このような場所でひとり寂しく涙を流す幼い少女に、哀憐も混じっていたのだろう。
素性を問うより先に、そんな言葉がするりと口をついて出た。
少女はその問いには答えを返さず、その蒼穹の瞳は、少年の心奥深くに隠していたものすらをも見透かされそうなほどにまっすぐと少年の瞳を見つめ返していた。
「……あなたにも、つらいことがあったの?」
泣きそうな、哀しい瞳をしているわ、と少女が少年に手を伸ばした。
頬に触れた指先は歳相応に小さく、けれどとてもあたたかかった。
「泣きたいなら、泣けばいいわ。ねえさまも、そうおっしゃるわ」
少女から発せられた『ねえさま』の単語に少年はぴくりと身体を振るわせる。
姉の所業は忘れるにはまだ鮮明に過ぎ、目を逸らしていた傷が思い出したようにじわりと痛みを訴える。
けれど次の瞬間に、目の前の少女が自分の姉のことを知るよしもないことに思い当たり、少女にお前の姉かと問えば、そうだと頷き、微笑みながら姉について語る少女の様子に、傷ついて哀しむ生活の中でも幾許かの心の慰めなのだと察された。
「哀しいなら、泣いていいのよ。辛ければそう言っていいの。
―――ここには、私以外、だれもいないもの」
そういって、はたと気がついた少女は少年の頬に当てていた手を引いた。
「もしかして、私もいないほうがいいのかしら。だったら―――」
少女が裳裾を翻して岩場を降りようとしたのを、咄嗟に少年はその小さな手首を掴んで留めた。
自らもその理由を理解できないまま、けれど少女がこの場から喪われるのがどうしても惜しくて。
「―――泣かない」
驚きに振り返る少女に、静かに、だがはっきりとそう言の葉に乗せる。
「泣けば揺らぐ。揺らげば弱くなる。弱さも強さも影響を齎す立場にあればこそ、弱くはなれない。
―――だから、俺は泣かないと決めた」
「……けれど」
少女の小さな手が、再び少年の頬へ触れた。
「ここには、私以外、誰もいないわ」
先ほどの言葉を、もう一度少女は繰り返した。
同じ言葉のはずなのに、込められたものは僅かに変化して。
「あなたがどこの誰かもしらない、私がいるだけ。
あなたが強くても弱くても、私にとってはあなたはただ、あなたでしかないわ」
少女は少年の頬に触れた手を、撫でるように沿わせた。
流れていない涙を拭うようなその仕草に、少年の瞳が大きく揺れる。
触れた指の先から伝わる温もりが、凍てつかせた少年の傷をゆっくりと包み込むように癒していった。
「―――………っ」
少年は、少女の小さな身体を腕に抱きこんだ。
けして大きくはない少年の腕にすら、すっぽりと収まるほどに幼いその身体は小さい。
これほどに幼いのに、自らより年嵩の少年を労れるほどに、傷つくことになれてしまっているのが、不憫でもあった。
心の傷も、身体の傷も、見ないふりをしてきた。
じくじくと痛む傷から、ことさらに目をそむけていれば、いつしか傷の痛みにすら慣れて、傷を負ったことも記憶の底に沈んでいく。
いままで、そうして心を鎧って、強い自分を作り上げていた。
けれど見掛け倒しの鎧の下には、無数の傷がいまだ血を流している。
傷を認め、心が求めるままに癒されるまで流れに身をまかす少女は、柳のようなしなやかさ。
それが、少年には目が眩むほどに目映かった。
―――俺には叶わぬ強さだ。
ともすれば揺らぎそうになる声を、腕に力を込めることで堪える。
「―――泣かない。泣かないと、決めたんだ」
少年の頑なな言葉に、少女は腕に抱かれたまま、拗ねたような声を出した。
「……いじっぱり」
「なんとでも言え」
既に歩き始めてしまった道は引き返せない。もう、少年にはその道を選べない。
それが自らの矜持と、失ってしまったいくつかのものと、課せられた数多のものの重さだ。
けれど抱きしめた腕の中のぬくもりは、氷で鎧った心の見えぬ傷を、春の暖かさで癒してくれた。
離れがたい心地よさに身を委ねるように、互いの背に小さな手を添えて、つかの間ふたりはぬくもりを分け与えるように互いに互いを抱きしめていた。
東の空に昇りだした月が紅の光を放ちだすころ、少年は抱きしめた腕から名残惜しげにそっと力を抜いた。
それを合図にしたように、ふたりはゆっくりと互いの身体を離す。
互いに、自らの居場所へと戻らねばならぬ刻限を理解している。
少年は、少女の長い髪をさらりと撫でた。
指の間をするりと心地よく流れるその髪を一房掬い、口づける。
丁寧に梳かれたその美しい髪と、手入れの行き届いた荒れぬ肌。上物の衣装に、育ちのよさを感じさせる言葉遣い。
少女がそこらの村娘や采女の子ではなかろうという想像は少年にもついた。国を異とする自分が気安く再び逢うことは叶うまい。
「また逢うことはないだろうが……きっと俺はお前のことは忘れない」
名残惜しげに離した黄金色の長い髪が、風に流れる。
少年の言葉に、ふわりと少女は微笑んだ。
「―――逢えたら、いいわね」
逢いましょう、でも逢いに来て、でもなく。
いつか、運命が二人のえにしを引き合わすなら。
―――言霊が力を持つという豊葦原なら、いつか叶うかもしれないな。
少年は初めて歳相応の笑顔を浮かべて、国や身分、立場というしがらみを越えて、純粋な夢をそこに見た。
「ああ―――逢えたら、いいな」
「―――アシュヴィン」
まどろみに意識を彷徨わせていた青年を、優しい声音がうつつに引き戻す。
「―――アシュヴィンたら」
再度の呼び声に重い瞼を開くと、焦点の定まらぬ視界に、淡い金色に輝く太陽が浮かぶ。
―――いや、あれは。
意識が徐々に覚醒すると、目の前にあるのは、いまだ寝台に横たわり夢の世界に半身を浸した夫を覗き込み、優しく微笑む愛しい妃の姿。
太陽と錯覚したのは、窓から差し込む朝の陽射しを浴びて輝く金色の髪だ。
―――いつかどこかで見た情景だな。
懐かしさを呼び起こすそれに、寝台に仰向けに寝転がったまま、ふ、と口の端に笑みが浮かぶ。
その幻想的なほどの美しい情景は、夫の覚醒を見届けた妃が陽射しの下から離れてしまったことで終わりを告げる。
「アシュヴィン、起きて。今朝も早いと言っていたでしょう?」
起床を急かす千尋の言葉の通りに、今日も朝から仕事が立て込んでいる。
惰眠をむさぼる贅沢が許されるほどには国内もまだ安定してはおらず、今日もまた政務に追われる一日の始まりだ。
ならば朝の贅沢は将来の楽しみとしようか、と漸う寝台の上に身を起こし、伸びをする。
「―――やっぱり、疲れてるみたいね、アシュヴィン」
連日の激務で就寝の時刻すらもじりじりと遅くなり続けている。
それでも戦時ですら千尋より遅く起床することなど滅多になかった。
平素と変わらぬように振舞う夫が頼もしくもある反面、遠慮をするなんて水臭い、と想っているのが手に取るようにわかる。
「少しは、私に弱音を吐いてくれたっていいのに」
「お前の前だからこそ、格好悪いところは見せたくない男の心理がわからんか」
「……意地っ張り」
どこかで聞いた覚えのある罵倒に、堪えた様子もなくアシュヴィンは肩を竦める。
「性分だ。今更変えられんさ。―――それに」
すいっと指先で千尋の顎を捉えると、その唇を掠め取った。
前触れのない愛撫にいまだ物慣れず頬を染める后妃に、アシュヴィンはふっと愛しげに微笑みかける。
慈しみに溢れた優しい指先は哀しみに負った傷を癒し、凛とした蒼穹の瞳はまっすぐと同じ道を見据えている。
こんなに愛しい存在がそばにいて、どうして弱いままでなぞいられるというのだろう、この鈍感な奥方は。
「お前がいることで俺は強くあれるのだから、お前の前で弱くなんてなりようがない」
暖かな風をそよがす透けるような青い空、豊かな実りを約束する緑の沃野、清水の満ちあふれる川のせせらぎ。
東の山の峰から零れだしている陽光は、以前の美しい景色を取り戻し始めている常世の国を眩く照らす。
―――だが、真実の意味でこの国に光を呼び戻したのはお前だ、千尋。
アシュヴィンの歩む行く先を照らし、信ずる道を迷わず進む力を与えてくれる光の比売神。
幼き日に出逢った黄金の日輪は、今日もアシュヴィンの傍らで淡い金色の光に包まれて微笑んでいる。
幼少期捏造過去邂逅ネタ。「紅い月」と対の話のアシュヴィン視点。
千尋=太陽。定番定番。つーか光の比売神は公式でしたね(笑)!
互いに思い出のあの子が目の前のこの人だろうなーというのは遅ればせながら感づいてます。
けど、もし相手が気づいてないんだったら確かめてしまうのももったいないな、とか曖昧さを楽しんでる感じで。
SS内では明記してませんが、この二人、この時点でおおよそ5歳と11歳くらい。誤差があっても1年程度。
毒殺未遂からそう時間がたっていない設定をもってきたので、どーしてもそーなっちゃうんです。
遠夜の話で毒殺未遂のエピソードの時間軸、「十とふたつの夏の前」って言いますよね。これ、「12年前」と「遠夜が12歳」と二通りの捉え方ができると思うんですが、遠夜が12歳のときって、アシュヴィンはもう17歳なんですよ。12歳の遠夜を「小さい土蜘蛛」というのはおかしくありませんが、17歳のアシュを「小さい黒雷」と表現するの、不自然ですよね。
となると、どうしても12年前という意味だ、と捉えざるを得ないわけで。
そのわりに千尋の言ってることがいっぱしじゃん、とか思うかもしれませんが、5歳児なめたらいかんぞ?いやもー、ウチの姪っこ口が達者で!