僕が君に望むこと



赤く染まる夕日が差し込むアトリエ。
その色とは対照的に瑠璃色に輝く髪をうっとうしそうに掻きあげて、
青年が画布に筆を走らせていた。
それはまるで見えない軌跡をなぞるように、
筆が走るたびに美しい輪郭が形作られていく。



モデルとして長椅子にゆったりと座っていた少女がおずおずと話し掛けた。
「セイラン様、…お疲れじゃないんですか…?」
「全然。ああもう、そんなことはいいから、君はおとなしく座ってる!」
「はぁ…。でも朝からずっとですよ?」

その言葉に、セイランは筆を留めて、少女の方へと視線を戻した。
「君が疲れた?アンジェリーク」

アンジェリークは軽く首を横に振った。
「私は座ってるだけですから…。
でも、セイラン様は休み無しじゃないですか。
…少しは身体を労ってくださいね」

「優しいね。…でも」
セイランは微笑みを浮かべると筆を置き、アンジェリークの傍に歩み寄り、
その琥珀色の髪を一房掬い上げ、軽く口付ける。

「君はまだ僕という人間を理解しきれていないようだね。
僕が人生で求めるのはたったの二つ。
一つは、絵や音楽や言葉で、僕のすべてを表現すること。
もう一つは、…君に僕のすべてを注いで愛を伝えること。
この二つに関する限り、僕の疲れなんて、限界点の向こう側にあるのさ」

「でも…、心配なんです」

アンジェリークは頬を染めながらも、なお言い募る。
実際、セイランは食事を取るほんの少しの時間しか休みを取ってないのだ。
いや、もしアンジェリークが提言しなければ、昼食も抜いただろう。
比喩ではなく、本当に放っとくと寝食を忘れる人なのだ。


「…まったく、僕の恋人は心配性だ。
わかったよ、今日はここまでにしておこう」


アンジェリークはほっとした表情で長椅子から立ちあがった。

「それじゃ私はそろそろ夕食作りますから、セイラン様は休んでてくださいね」


アンジェリークがキッチンへと姿を消すと、
セイランは再び画布に視線を落とした。

描きかけのアンジェリークの姿。
琥珀色の柔らかな髪も、象牙色の滑らかな肌も、
遠い海を思わせる深い色の瞳も、
瞳を閉じれば瞼の中に鮮明に思い浮かべることが出来るのに、
いざ記憶を頼りに描こうとしても、筆が動かない。
この腕は彼女を描きたいと切に望むのに。


だからもう、離せない。アンジェリークから離れられない。


それはけして不快なことではないけれど。

「こんな風になるなんて…1年前には考えもしなかったのにね」

セイランは自嘲気味に呟き、笑みを口元に浮かべると、
画布に布をかけて、アトリエを後にした。



夕食の後、アンジェリークは、その描きかけの絵を覗き込んだ。
最近のセイランの作品はすべてアンジェリークをモデルに描かれたもので、
そのモチーフも様々であった。

「今回は『聖女像』だよ」

アンジェリークは背中を向けているセイランからのその言葉に、
振り返らずに返答をかえす。
「なんか私じゃないみたい…柄じゃありませんよぉ〜」

アンジェリークはそう言って恥ずかしげに笑うと、
描き溜められた今までの作品を順に見ていった。

ふと、なにか気づいたように足を止めると、セイランに問い掛けた。

「そういえば…こんなにいろんなモチーフで描いて頂いてますけど…、
『天使』ってのはまだ描かれてないですよね。
女王試験の頃はよくそう呼ばれてましたけど。
…やっぱり『天使』なんて私には似つかわしくないってことですか?」


「……ちょっと、違うよ」

セイランはその指摘に否定の言葉を漏らした。


『天使』と呼ばれる条件が、『無垢であれ』というだけならば、
アンジェリークには比類無いほど相応しいだろう。
だが…。

「君は天使にはなれないよ」

「あら、どうしてですか」

アンジェリークは再びそう問い掛けた。
詰問ではなく、先を促すその問いかけに、
セイランは優しく微笑んで答えた。

「…君は優しすぎるからさ」


『天使』と聞いて、思い浮かべるのは何だろう。
「純粋」「無垢」「慈愛」…そういった言葉だろう。
それは確かに間違いではないのだが、天使にはもう一つの顔がある。

すなわち、まさに「天の使い」として、裁きを下す存在であるということ。

天使にとっての絶対者である神の意志ならば、
幾万人を死の眠りにつかせようとも厭わない存在。

それが…もうひとつの天使の姿。

アンジェリークにそうなって欲しくなどもない。


「だからアンジェリークは…天使にはなれない。…ま、そういうわけ」

セイランは軽い口調でそう話を結んだ。
アンジェリークはその言葉を聞いて、しばらく思案をしていたようだった。
不意に口を開く。

「天使になれない…っていうより、なりたくない…ですね。
神様の命令ならいくらでも殺すなんて、そんなの、
忠実っていうより、…心がないみたいじゃないですか。
それに……」

アンジェリークは顔をあげてセイランを見上げる。

「セイラン様は、私のこと『優しすぎる』っておっしゃいましたけど、
…私、そんなに温厚に見えます?セイラン様、私のこと買いかぶりすぎですよ。
私だって、いくらでも冷徹にも冷徹にもなれますよ。
…たとえば、私からセイラン様を奪おうとする人に、
優しくある気は全くないですもの、私は。
セイラン様のためになら、セイラン様の傍にいるためになら、
私は、魔女にだって、鬼女にだって、夜叉にだってなれます」

その言葉にセイランは満足気な表情を浮かべる。

「…ふうん、それじゃ、君にとっての「絶対者」は僕ってこと?」

アンジェリークはほんの少し頬を膨らませて、拗ねてみせる。

「……他の誰だっていうんですか」


その表情がセイランの悪戯心を刺激する。

「…それじゃ、一つ、僕の言うことに従える?」

アンジェリークは観念したように溜め息を一つ吐くと、
両手を挙げて『降参』の体勢をとる。


「…セイラン様って、相変わらず意地悪ですね。
ええ、従いますとも。私に出来ることなら」


セイランはアンジェリークの顎を掴んで自分の方に向けると、
変わらぬ笑みを浮かべて言った。…ただし、その瞳はけして笑ってはいなかったが。

「女王試験のときに君を『天使』って呼んだのが誰なのか、知りたいな。
少なくとも僕はそう呼んだ覚えがない。…教えて欲しいんだけど」

「セ、セイラン様…。ちょっと表情が怖いです…」
アンジェリークは、セイランの表情に怯えた声をだす。
人物名を教えたところで、事態が好転するとは思えないので、
結果、アンジェリークは黙り込むことになった。


セイランはアンジェリークを抱き寄せると、頬に口付けた。

「僕が嫉妬しない人間だと思ってた?
僕以外の男が君に気安い口をきくのも許せないし、
君が他の男に微笑みかけるのも嫌だね。
…答えてくれるまで、離してあげない」

「〜〜っ!もうっ、誰だっていいじゃないですか!
私が好きなのはセイラン様だけなんだし、
他の人が私をどう呼ぼうと、私にはどうでもいいんですもの!」

「僕は気になるね。…教えてくれないから、お仕置きだ。
他の男が言った言葉なんか、頭の隅にも置いておけなくなるくらい、
…僕のことしか考えられなくなるくらいにしてあげる。
……おいでよ。もう、夜の帳が下りる時刻だ…」


セイランは、アンジェリークを抱く腕に力をこめる。


そして、声なき言葉を囁きかける。


『僕だって、君を守るためなら、悪魔にだってなれる』

『そうだ、天使になんかならないで。
僕の傍から飛び立っていかないで。
僕だけにその汚れない笑顔を向けて。
僕の笑顔も君だけのものだから』

『いつまでも、僕の傍にいて…。
そう、いつまでも「僕だけのアンジェリーク」でいて』


『それが、たったひとつ、僕が君に望むこと──』



fin.


もなこ様の書かれる天使の話に影響受けて、天使をモチーフに書いた話です。
最初はもう少し捻りを入れるはずだったんですが、やはり上手く書けませんでした…(悲)。
途中の、『セイランが悪魔に〜云々』のところで一つジョークを入れていたのですが、あまりにもイメージとテンションが180度変わってしまうもので、削除しました…。