渇望
昔から、欲というものには乏しかった。
欲というものがなかったというわけではない。
だが何かがほしい、と強く望むことが、思い返してみるとあきれるほどに少ない。
生を受けたその瞬間から、己の道はすでに敷かれていた。
至高の地位にほど近い身分。そして、そのいずれは至高の御位へと登りつめることを約束されていた。
望めば手に入らぬものなど皆無に近く。
そこそこに整った容姿にも恵まれていたこともあり、色恋に不自由したことすらない。
もっとも、多少醜悪な容姿であったとしても、地位に焦点を合わせた女どもが尽きることはなかったろうが。
いまだ幼いと言える時分に実姉によって毒を盛られた時を境に、己が命に関しても、執着は薄くなった。
所詮王宮は陰謀の坩堝。血の繋がった兄弟姉妹であっても、いやだからこそ絶対の信を置くことなど困難を極める。
王族に生まれついた以上は、無条件の信頼など望みようもないのだと、苦い思い出と共に心に刻むことになった。
自分の命すら駒と見做すようになってのちのほうが、命の駆け引きが上手くなったのは皮肉なことだ。
生と死の狭間から立ち返ってからは、ひどく冷静に自身を見つめることができた。
俺はなんのために生きるのか。
皇子という立場を以て、何ができるのか。
問うてみれば答えは単純で、そして明快だった。
俺は常世の皇となる。
ならばこそ、常世のために生きる以外の道があろうか。
常世が俺のためにあるのではなく、俺が常世のためにあるのだ。
その決意を試すかのように、長じてのち、国土は荒れ果てた。
輝くように蒼く澄んでいた空は、鈍く赤黒い禍日神に侵された。
風は澱み、川は渇き、木々は枯れ、大地は干からびる。
そして触れればすべてはぼろぼろと崩れ去る。
そこにはなにも残らない。ひとしずくの恵みさえも。
あの美しかった常世の風景は、記憶の中の桃源郷と成り果てる。
糸が綻ぶようにじわじわと広がる荒廃は、王宮にまでも忍び寄る。
血族だけでなく、獅子王と称され偉大であったあの父皇すらも、じわじわと心侵されてゆく。
中つ国から搾取する恵みで辛うじて繋いだ国の命運。
だがそれは、終焉の時を先延ばしにしただけのことでしかない。
故国に巣食うすべての根源を排除せねば、薄く細く引き延ばしただけの糸はいつか切れることなどわかりきっていた。
己が一命を賭してでも、国のあるべき姿を取り戻すと誓ったのは、さほど遠い過去のことではない。
この故国の安寧のほか、望むことなどなにもない、と。
ほんの少し前までは、そう思っていたというのに。
縋りつくように首にまわされた白く細い腕の感触に引き寄せられるように少女の身体を抱き寄せた。
「千尋………千尋…」
それ以外の言葉を忘れたかのように、ただ名を呼び続ける。
返事をしようにも少女の身体を襲う律動に翻弄されて言の葉にならぬままの嬌声だけが、寝所に響いた。
答えの代りに少女の身体が返す反応がどうしようもなく自身を煽り、さらに律動を激しくする。
高らかな嬌声をあげて、千尋の身体が震える。
瞬間、ぴんと張り詰めた身体が、ゆっくりと弛緩していく。
寝台に力なく沈むその華奢な身体をなおも貪るように、その裸体に舌を這わせた。
千尋は間断なく与えられる鈍い快感を呼び起こす刺激から逃れようとその白い身体を捩る。
だが頂点に押し上げられたばかりの身体は力が入らず、むしろ誘っているかのような弱々しい抵抗に、自身にまたしても熱が点ったのを自覚した。
己の自制のなさに苦笑しながらも、心の赴くまま、再び妻の身体に覆い被さった。
日はすでに高い。
常ならばともに執務に身を入れてる時間だが、今日この日だけは別だ。
日頃政務に忙殺されている皇を気遣い、生まれ落ちた日を祝うこの日だけは好きに時間を使ってよいようにしようと、千尋が周囲に諮って随分と前から執務を調整したらしい。
その御膳立てに便乗し、昨夜からずっと妃の身体を貪っている。
朝餉の時間を過ぎても様子を窺いにくる気配すらもないことを見るに、側近らもこの展開は予想の範疇であったのだろう。
ただひとりの例外として千尋自身は「アシュヴィンに休んでもらうためだったのに」と不本意そうにしていたが、目の前に何より求める存在があって望むことなど、決まりきっているだろうに。
いくら求めてもなおまだ足りないと果てのない希求が身の内に湧き上がって止まらない。
快楽だけを求めているわけではない。
自身を絡みとるそれは気を緩めれば溺れそうに心地よいが、それのみを得んがための行為なのではない。
ただ、千尋がほしい。
突き詰めればその一言で。
愛したい。
愛されたい。
抱きしめたい。
触れたい。
とけるほどにひとつになって、互いを感じあいたい。
声も、視線も、熱も、心も。すべてを奪いたい。
これほどの渇望が俺にもあったのかと不思議なほどに、ただただ千尋がほしいのだ。
この渇えが癒されるなら、何を奉げても構わぬとすら思えるほどに。
ひたすらに千尋を求め、そして俺のすべてが千尋へ開け放たれる。
愛も。
情も。
信も。
すべてを千尋の掌に預けて。
愛した女に何の疑心もなく心のすべてを預けられることがどれほどに幸いなことかを初めて知った。
互いに寄り添いあえる日々が愛しい。
同じ場所から同じものを見て、同じ未来を夢見て、そして互いを慈しむ。
満たされた心で世界に目を向ければ、目に映るものすべてが輝くように美しい。
今となっては、かつてあれほどに執着が稀薄になった己が命すらもが惜しい。
俺が死ねば、千尋は悲しみに泣き暮らすのか。それとも隣に俺以外の男が添うのか。どちらも我慢ならない。
ほんの少し前までは無機質に横たわっていただけの自らの前に伸びる道は、今は喜びと幸いに彩られた道になり。
千尋の隣に立ち、互いに手を取り合って歩むその日々が、何にも勝る至宝。
故国の安寧のほか、望むものなど何もないと思っていた。
けれど千尋という華の咲いたこの世界はあまりに輝いていて。
貪欲に、けれどただ只管に、幸福を求めたい、と願ってしまった。
幸いに満ち足りた日々を、能う限り永く。
人生は己を犠牲にして何かを求めるものでなく、幸福を重ねてゆくことも叶うのだと知った。
この幸福の対価には、いかほどの愛を捧げれば見合うのだろう。
幾ら愛を注いでも、千尋という存在に与えられる幸福の代価には、まだ足りない。
愛していると口にすれば、頬を染めて花がほころぶような笑顔が返されて、またしても蕩けるほどの幸福に満たされるのだ。
「……………千尋」
万感の想いをこめて名を呼べば、潤んだ蒼が俺の瞳を見つめて、心ごと射抜かれた。
絡めあった指が、互いの心を甘美に包み込む。
熱を分け合うように肌を触れ合わせ、互いの全てを貪るように唇を深く重ねた。
そして俺はまた、目が眩むほどの幸福のまどろみに、落ちた。
アシュヴィン誕生日SS。ぶっちゃけ誕生日要素はちょこっとですが、力一杯アシュヴィンは堪能しているようですので無問題。
千尋は、みんなと一緒に「アシュヴィンの誕生日だけはアシュヴィンをお休みに」と頑張りました。そして(千尋以外の)みんなは、千尋のお仕事を2日間分空けられるようにしてたりするとかいう裏設定があったりとか。当日は皇に束縛されてお仕事できず、翌日はたぶん立てなくなってるから。アシュヴィンがお休みに何を望むか、行動ばっちり読まれてます。何も言わずとも皇の意を汲める、デキるやつらたちで常世の王宮は運営されているのです。