符牒
「……花の、香りじゃな」
黒髪の女性は、ふと微笑んで呟いた。
開いた窓から吹き込んだ風が運んできた季節の匂い。
暖かな風がそよぐ頃になると、街の樹々も華やぎ出す。
今はまだつぼみの花が綻び出すころには、春も盛りとなろう。
神殿の建物をそのまま議会として流用し、
議長として寝食をそこで過ごすようになった葵は、
己にあてがわれた一室の窓から、そのアロランディアの様子を眺めていた。
アロランディアは、神の島であることをやめた。
今まで統治していた神殿の代わりに、議会制度が敷かれ、
その長として、葵が就任してから、早一年がたとうとしていた。
「…美しいの。アロランディアは」
葵の呟きに、休憩の時間を共有していた栗色の髪の少女が応える。
「あなたが頑張って良くしようとして下さってますから。
奇麗になった街並みも、人々に戻ってきた笑顔も、葵さんの努力の成果ですよ」
「そう大仰に言ってくれるな、マリン殿。
私のやったことなど、微々たるものよ。
アロランディアを美しくしたのは、他でもない、アロランディアの民じゃ」
「そうですけど、葵さんが頑張ってくださってるのだって、ホントのことです。
えっへん、どうだ!って、胸張っちゃっていいんじゃないですか?」
マリンのてらいのない賛辞に、葵は穏やかに微笑を返した。
「―――お祝い、ですか?」
葵が視察へと出かけた日の昼下がり。
意図せず元・候補専用休憩所と化しつつある、かつてのマリンの自室に、
相談相手としてひっぱりこまれた少年の姿があった。
「…そう。マリンとはなしていたのよ。もうすぐ、一年だから」
「行事とか式典とかみたいな、そんなおおごとにはしたくないんです。
でも、1年この国のために頑張ってくれた葵さんのために、
ありがとうの気持ちを込めて!どうでしょう?プルートさま」
突然腕を掴まれてマリンの部屋に引きずり込まれたときは何事かと思ったが、
話を聞くと思いのほか穏便かつ微笑ましい話だったので、
少年はほっと安堵もこめて微笑んだ。
「そうですね、いいと思いますよ。
マリンさんとアクアさんの感謝の気持ちですから、葵さんも気負わず受け取ってくださるでしょうし。
……でも、なにを差し上げる予定なんですか?」
「わたしは、「特製日本食マリンスペシャル」です!」
「す…すぺしゃる?」
「スペシャルですっ!修行の成果の見せ所です!
葵さんのために、腕によりをかけて!頑張りますよ〜!」
力説しながらガッツポーズをとるマリンに、プルートはつい気圧される。
「そ、そうですか。頑張ってください……。あ、アクアさんは、どうなさるんです?」
「目下、もさくちゅう…」
「あ、そうなんですか?」
「さいしょの予定ではは花火をつくろうとおもってたんだけど、とちゅうで先生とユニシスにとめられたの。
たかが5度ほど火薬の配合をまちがえたくらいで、りょうけんの狭いおとこたちよね」
「……それは……誰でも止めるかと……」
「しっぱいはせいこうの祖先。これ、えいえんの真理」
「それは……否定はしませんけど」
成功する前に怪我人がでそうだ。
ははは…と渇いた笑いを浮かべて、プルートは冷や汗をかいた。
むう、とうなって、アクアは飲み物に口を付ける。
「―――で、次点のあいであをけんとうちゅう。
でも、わたしひとりじゃできそうにないのよね。それ」
ティーカップを傾け、残った紅茶を一気に喉の奥へと流し込んだアクアは、
二つに括った銀髪をさらりと揺らし、「んじゃ、帰るわ」と一言告げてマリンの部屋を後にする。
とてとて、と小さな身体に見合った軽い足音を神殿の廊下に響かせて歩いていたアクアは、
向かい合わせる形で書類の束を抱えた長身の神官―――もとい、今は文官―――が歩いてくる姿を見つけて、ぽんと拳を片手に打ち付けた。
廊下のどまんなかで道を塞ぐように仁王立ちする銀髪の少女の姿を認め、ソロイは訝しげに眉根を顰める。
アロランディアで彼の厳つい表情を真っ向から受け止めて平静でいられる人物は少ないが、
その数少ないひとりであるアクアは、びっ、と親指を立ててソロイを呼び止めた。
「ないすたいみんぐ。」
「は?」
「聞きたいことが、あったの。―――あなたなら、『さくら』をしってる?」
「おお。アクア殿ではないか。今日は千客万来じゃな。
魔法院のほうで、なんぞあったのか?」
月が替わり、葵が議長になってからとうとう1年が過ぎた。
特段何かを催したというわけでもないが、その日、マリンが腕を振るってくれた「日本食」を昼餉に食し、葵は上機嫌だった。
「ううん、院のほうはへいき。今日の用事は、ぷらいべーと」
「ぷ、ぷら……?」
戸惑う葵にはお構いなしに、アクアは手にしていたものを葵に差し出す。
「……これは……」
焦げ茶の枝に、うっすらと紅をまとった小さな白い花。
実際に触れてみると、それは似せた色で作ったまがい物であるのが分かるが、
葵の視界に映るそれは、想い出の中にあるだけの花のはずだった。
「……桜、か……?」
「ふふ、葵の目から見ても『さくら』にみえるなら、大成功ね」
震える手で作り物の桜を手にする葵を見て、アクアは胸を張った。
「星の娘こうほだったころに、『さくら』が見たい、って。言ってたでしょう?」
「…そんな世間話の合間に言うた言葉、よぅ覚えていたのう。
もしかして、これはおぬしが作ったのか?」
「そういってじまんしたいところだけど。わたしひとりの手柄じゃないの。
きょーどーせいさく。びじゅつかんとくが別にいる」
「び……美術監督?誰じゃそれは」
「かたぶつ」
「は?」
「でかぶつ」
「………もしかして」
「それいじょうは、のーこめんと。名前はゆーなって言われてるから」
確かに名前は言っていないが、個人を特定できそうな情報を詳らかにするのはよいのだろうか。
まあ、アクアらしいといえばらしいし、問い詰められても実際それで切り抜けてしまうだろう。
そのあたりのアクアの手腕は筋金入りだ。
ふと、葵は桜の枝に結び付けられたものに気がつく。
まっすぐ葛に折られた紙は、折り目以外にしわもなく、折り手の几帳面さを現しているかのようだった。
アクアに問うてみても、首を横に振るだけで、意味は知らないという。
破らないようにそっと結び紙をとり、開いてみる。
横からアクアが葵の手元を覗き込んだが、やっぱり何がかいてあるのかわかんない、と首をひねった。
―――が、葵はその紙を手にしたまま、耳まで真っ赤に染め上げていた。
「――ソロイ殿!」
桜の枝を大事に抱えながら、葵は黒髪の神官を呼び止める。
葵の頬が紅く上気していたのは、走ったためか否か。
呼び止めたはいいが、なんと言うべきかと言い淀み、しばし視線を泳がせた。
「あ…う…さ、桜の枝、美しかった。…その…感謝する」
「十数年前の記憶を頼りにしたものですので、細部は違ったかもしれませんが」
「そんなことはないぞ。私の覚えている桜の花、そのままじゃ…。
――……いや、そうではなくてだな!」
葵は、桜の枝に添えられた紙を、背の高い神官に突きつけた。
「こ、これはなんの真似じゃ!」
「恋文は、花を添えて贈るもの。
日本の風習でございましょう。なにか不都合でも?」
ソロイはふっと意地悪に笑って、しれっと切り返した。
「恋ぶ……!」
上気した頬がいっそう赤みを増して、葵は二の句が継げず、ぱくぱくと無闇に口を開閉する。
葵の手にしっかりと握られているその紙には、日本の文字で書かれた恋の歌。
万が一、他者の目に触れることがあっても、読み取れるものは一人しかいない。
―――誰が書いたのかを悟ることができるのも。
ううう、と顔を真っ赤にしながら、ソロイを睨み上げるその視線は、普段の鋭さはすっかり消えうせている。
多分に照れの混じった怒り顔でぷいっと背を向けると、振り返って怒鳴りつけた。
「―――見とれよ。その涼しい表情突き崩す返事を送りつけてやるからの!」
言って脱兎のごとく走り去った葵は、驚きに目を見開くソロイの表情を見ることはなかった。
廊下の角を曲がるまで少女の後姿を見送ったソロイは、くくく、と抑えきれぬ笑いを喉からこぼれさせた。
―――恋文に返歌。それは求愛の受諾と同意義。
「―――楽しみに、していますよ」
100のお題No.18、「冴えたやり方」。
符牒ってぇのは合言葉とか、特定のヒトだけに伝わる暗号とか、そんな感じの意味。
これの別バージョンが「花葵」になります。