二季草




左大臣家の宴に招かれたのは、春の盛りを少し過ぎた季節。
土御門殿の敷地に植えられた藤の、咲き誇るさまを愛でる、藤の宴。



見上げればいくつもの篝火に照らされ夜闇に映える藤はたしかに見事で、なるほど宴の主役に相応しい。
日頃から懇意にしている左大臣殿の招きを断る口実もなく、私は招かれた宴の席でひとり杯を傾けていた。


じゃり、と庭の砂利を踏みしめる音に視線を上げると、
目の前に咲き誇る花以外に気を散らす公達ばかりのなかで、
浮かれも見せずに落ち着いている数少ない公達の一人が、迷いのない足取りで私の座所に近づいていた。

「お久しぶりですね、友雅殿」

やや堅物のきらいはあるが、清廉潔白で眼鏡の奥に理知的な瞳を潜ませるその青年は、
百鬼夜行の蠢く内裏にあって、数少ない信頼の置ける好人物だった。
もっとも、彼とはそれ以外でもいささか縁のあった人物だったのだが。

彼の言う通り、やや久方ぶりの再会に、杯を掲げて挨拶を返す。

「やあ、鷹通。君も招かれていたのかい」

干した杯を彼の前に置き、盆に置かれた銚子を手に取ると、一献勧める。
勧めに応じ隣に座した鷹通は、礼儀正しく杯を受けると注がれた酒を一息に飲み干した。

「姫とのご縁は、私も浅からぬものですから。
八葉の中では、他にも永泉様がお招きをいただいてたようです。
―――さすがに、僧籍に在る手前、丁重にお断りなされたそうですが」

さもあらん。

名目こそ藤の花見宴。
だがそこに込められた意味を察せぬものは、貴族の中には一人もおるまい。

―――其の花の名を持つ末姫の、婿選びの宴。


私が八葉としてあった頃には、裳着を済ませたとはいえ、いまだ幼いと言える歳であった姫。
けれど存在が表へ出たと同時に貴族の子弟たちが穏やかでなかったのは良く覚えている。

左大臣の末姫という立場と、名のとおり藤の花のようと称される美貌の噂の前には、母君の出自の低さを差し引いても釣りがくる。
当時は神子に仕える星の一族という立場の特殊性を憚っておのずと遮断されていたが、
その役目も終わり、さらに父君である左大臣が乗り気なら話は別。


招かれた公達共の多くは、物言わぬ花よりも、左大臣の隠し花のほうに気を散らし、そわそわと落ち着きがない。
左大臣殿の座所の周りには、取り入ろうと世辞に忙しい者たちが取り巻いている。



鷹通は杯を私の前に置くと、銚子を持ち、返杯を促した。

なみなみと注がれた杯の水面には、篝火の明るさにも光を損なわぬ月が、ゆらゆらとたゆたう。
何故だか杯に口をつけることを躊躇い、波に揺れる酒越しの月を、ぼんやりと見つめていた。

注がれた酒を一息に干すと、盆にこと、と杯を置く。
旨い酒のはずだが、気分が乗らぬときには水にも劣る。


「姫とは見知った仲でしょうに、何をご不快にお感じですか」

いかにも不味そうに呑むのが不審であったのか、鷹通は訝しげに私の顔を見る。
ぱらりと扇を開いて口元を隠すと、眉根を寄せた。

「―――知らぬ仲でないからこそ、この場にいるのは気が引けるのだよ。
このように品定めの対象とされるのは、あの幼い姫にはお辛かろう」

私の言葉に、鷹通はやや瞠目し、継いで苦笑を零した。

「我らがともに鬼と争ってより、幾年経ったとお思いですか。
彼の姫とて、いつまでも十のままのわけはありますまいに」





「―――失礼をいたします、友雅殿」

もう一度酒を杯に注いだ後、鷹通はおもむろに立ち上がると、懐の小柄を抜き、
そして咲き誇る藤の中でも一際大きく見事な花房を枝ごと切り落とす。
殊更丁寧な所作で一歩近づき、恭しく私の盆の上にその藤の花房を置いた。


左大臣家の庭の木に手をかけるなど見咎められれば大事だが、生真面目な彼がいささかの迷いもなくやってのけた。
ということは、むしろ左大臣殿直々の指示であったのだろうと容易に推測がつく。
―――そしてこの顛末が意味することは。

「………『藤裏葉』か」

察するに鷹通は柏木の役どころといったところか。
左大臣殿らしいなさりようだが、些かあざとさを感じなくもない。
第一、私は交流がありこそすれど、姫に婀娜めいた文ひとつ送ったこともないというのに。
雲居の雁に見立てられた姫が哀れですらある。


「―――随分と、軽佻な人物を『夕霧』にしたてるものだな」

口をつけぬままの杯を盆に戻し、ぱちん、と扇を鳴らす。
やや棘のある態度に気分を害した様子もなく、鷹通は眼鏡の奥の瞳を柔和に細める。

「私は、よいご人選だと賛成申し上げました。ゆえにこのお役目もお引き受けしたのですし。
何より姫のためにも、これ以上のご縁はないと存じますが」

彼らしからぬ言葉に、本気で言っているのかと一瞬彼の真意を測りかねる。
かつて私の素行を誰より柳眉を顰めて諌めていたのは彼であったろうに。



盆に置かれた藤の枝をそっと手に取った。
空に浮かぶ月にかざすと淡い光を纏い、枝を揺らすと花弁が踊るように舞う。
今にもしゃらりと音が響きそうなそれを眺めながら、嘯いた。

「私などと縁付いても、女性を不幸にするだけだよ、鷹通。
そのようなこと、君もよく知っているだろう」

私に言わせれば、彼のほうがよほど『夕霧』と評するに相応しい。
彼の生真面目で実直な人柄は、女性に対しても誠実で、好感のもてるものだろう。
藤原一門のうちそう悪くない家に育ち、将来も嘱望されている。私よりもよほど婿がねに相応しい人物だ。
彼を選ばず、私へ白羽の矢を当てる任を任す左大臣殿の考えも理解しかねる。

私は宛がわれた席を立ち、彼に背を向ける。
中座する私の背に、鷹通の言葉が投げられた。

「私は申し上げたはずですよ、友雅殿。―――姫のため、と」

彼のその言葉の意味を知るのは、もう少し後のことになる。











宴の喧騒を抜け出し、左大臣家の見事に整えられた庭を歩く。
篝火が焚かれた一角を少し離れると途端に足元が暗くなるが、夜空の月が淡く光を注ぎ、庭を歩くのに不自由はない。
周りを見渡せば、私以外にも酔いを醒ましに喧騒を離れた者たちがいると見え、
夜闇と薄明かりに映える庭にちらほらとまばらに人影があった。

そのなかで、それを見咎めたのは、全くの偶然だった。

きょろきょろと周りを気にし、明らかに挙動不審な様子で庭から簀子縁に上がろうとする公達。
仕事はともかく女性関係の派手さでは、けしてお世辞にも品行がよいとは言えない男だ。
常ならば詮索するのも不粋なことと気にも留めないことだが、時と場所が警鐘を鳴らす。

東対屋にほど近い渡殿という場所柄から、その者の思惑を察することは容易だった。
新参なのだろう、土御門では見慣れない女房が、燭台を手に男を先導している。
その女房が目当ての恋人という線も考えなくはなかったが、
女房が部屋を宛がわれる曹司ではなく、明らかに貴人の住まう対屋への廊を進むに至って、疑惑は確信へと変わった。




「―――これは、意外なところでお目にかかる」

足音を殺して歩くふたりの背に声をかけると、びくりと男が振り返る。

「酒に酔われてお迷いになられたのでしょう。宴の会場はあちらでございますよ」

「い……いや、わたしは」

往生際悪くなんとかこの場を切り抜けようとない知恵を絞っている男の前で、
先刻の藤を袂から取り出し、ことさらわざとらしく、花房に口付ける。

「―――左大臣殿から、姫にお目通りのお許しを得たのだが、取次ぎを願えるかな?」

「は………はいっ、しばし、お待ちを……っ」

手引きしていた女房が、慌てたように頭を下げ、男を放って対屋へと急ぎ足で駆けて行く。
完全に退路を絶たれた男は、悔しそうに舌打ちをして踵を返した。
その背を見送りながら、私は知れず深いため息を零していた。


明日から彼から恨みの眼差しで見られることは覚悟しなければならないが、
家柄だけは立派だが権力の中枢からは外れた彼の嫉視など、さほど痛痒を感じるものでもない。
ため息の理由は別にある。

―――これで、無関係を気取ることができなくなったな。

だが止めなければ止めないで、見知った姫への暴挙を黙認することになりこれも寝覚めが悪い。

―――姫からそれとなく、父君に断りを入れてもらうが早いか。

そう腹を据えると、縁の柱に背を凭れ、取次ぎの女房の戻りを待った。




程なく、女房に先導され、久方ぶりに姫の部屋を訪う。
御簾の下がった部屋の前の濡縁に、腰を下ろした。


そういえば、彼の姫と最後に顔をあわせたは、いつであっただろうか。
以前ならば、御簾を上げ顔を晒して対面していたが、いつのころからかそれもやめた。
気がつけば御簾越しの会話を当たり前のこととして、季節折々に交わす文にも、色めいたことを極力排除していた。
―――そう、距離を置いていた。




物思いに耽っていた私の意識を、御簾の向こうから聞こえた衣擦れとさらりと黒髪の流れる気配が呼び戻した。
部屋の奥で灯された灯りが、ぼんやりと御簾に姫の姿を映し出す。

「―――お久しぶりでございます、友雅殿」


声をかけられるのは予測の範疇であったはずであるのに、私は咄嗟に反応をすることができなかった。

『彼の姫とて、いつまでも十のままのわけはありますまいに』

鷹通の言葉が、胸によみがえる。
幼い姫、と言った私に彼が苦笑したのも頷けるというものだ。

その柔らかい声は、たしかに姫のものだが、記憶に残るものより大分大人びられた。


―――もう彼の姫は幼い姫などではなく、一人の美しい姫君となっていた。










「そ、それでは、わたくしはこれにて」

青い顔をして慌てて退いていく女房の様子に、姫は首を傾ぐ。
事情を掻い摘んで話すと、姫は驚いた声を零した。

「―――余計なことかも知れませんが、新参の女房は東の対にいれぬよう、お父君に注進なされたほうがよろしいでしょう」

「……そう、いたしますわ」

それきり言葉が途切れる。

時折吹きゆく風がかすかに御簾を鳴らしていった。
暖かい春の風に夏の匂いが混じり始めたこの季節の薫風は、互いに忘れがたい時代を思い起こさせる。
左大臣殿が私に白羽の矢を立てたのも、姫と思い出を共有するあのひとときがあってこそだろう。
―――もう、これきり縁を絶たねば私の存在が姫の人生を歪ませる。

袂に入れていた例の藤を、御簾の下にくぐらせた。

「……これ……は」

「左大臣殿からのお達し、といったところですか。
並み居る公達の中からよりによって私を選ぶとは、左大臣殿も些か趣味がお悪い」

それで姫には意味が通じたのだろう、ふ、と溜息をひとつ。

「先達てのような輩がまた来ぬとも限りません。
今宵のところは、花盗人ではなく、花守となりましょう」

対屋近くで月を眺めて夜明かしをしてもいいし、昔を知るもの同士の気安さで昔語りをしてもいい。
―――それで、長かった交流に終止符を打とう。
古参の女房を同席させれば、姫が寝入ってしまわれても姫に不名誉な噂は防げよう。



「―――友雅殿」

名を呼ばう声に顔を上げると、御簾と柱との狭間から再び先ほどの藤が差し出されていた。

「……姫」

受け取るべきかを躊躇っていると、
白い指はそのまま枝を縁に置き御簾の向こうへと消えていった。

「これがお心に染まぬ縁なら、このまま捨て置き、お立ち去りくださいませ。
今宵わたくしは誰にも逢わずじまいと父に告げれば、それですべてはなき事になります。
また他のどなたかに摘まれる花となろうとも、友雅殿のお気に病むことではございません」


けれど、それでは誰とも知らぬ男を通わせる危険に身を晒すことになるのではないのか。
今宵の宴に招かれたものたちはみなそれなりの家格の身分だが、行状についても高潔なものたちばかりとは、口が裂けても言えない。
―――もっとも、女性関係の派手さに関してそれを詰る権利は、私にあろうはずもないが。

その困惑を読み取ったかのように、姫は御簾の向こうでどこか寂しげな微笑を浮かべた。
私から逸らされた視線は、ほんの少し宙を泳いだのちに、縁に置かれた藤の花房の上で留まった。

「何処から露見したかは存じませんが、父なりにわたくしの意思を酌んでくださったのでしょう。
けれど……父の心遣いは嬉しく思いますが、無理にご縁を強いるつもりはありません。
形ばかりの北の座を得ても、それになんの意味がありましょう。
―――この花をお手にとられるか否かは、あなたのご意思でお選びくださいませ」

静かに、穏やかに語る少女の言葉に、含まれた意。
これが勘違いか自惚れでないのなら………姫は。



「……なにゆえ、私を望まれるのか。姫に相応しい公達は、他にもおられように」

「理由がつけられる愛など、持ち合わせておりません。
わたくし自身、まことに愛かと問われれば、わかりませんと返すほかありませんわ。
けれど燃えさかる焔ばかりが愛と限りましょうか。
わたくしは、己が感じたことを信じたい。この先一生を添うのならば貴方がいいと思った、その心を」

微塵の揺らぎもなく微笑む少女は、出会った頃の幼さを残しながらも、自らの意思をはっきりと見せる。
それは孤独な雲居の雁などではけしてなく、まさに枝垂れながらも美しく咲き誇る藤の花。

「託宣でも星読みでもありません。わたくし自身の心が、貴方を求めた。
友雅殿を選ぶ理由に、それでは不足でしょうか」



短くない今までの生涯の中で、忘れるには輝かしすぎる煌く瞬間を共有した。

浅からぬ縁のあるこの姫には、幸せな結婚をして欲しい。
そう望むからこそ、こんな私と縁を結ぶことなど、論外だ。
―――そう、思っていたのだけれど。



御簾に手をかけ、さらりと上に押しやると、花の顔(かんばせ)が目の前に広がる。
愛らしかった幼き姫の面影を強く残すその相貌は、今ではむしろ美しいという表現が似合う。

頭では分かっていたつもりだったが、こうして目の当たりにして改めて強く思う。

―――美しくお育ちになった。



言葉のない静謐な時間が、二人の間に横たわる。

「―――藤姫」

ようやく言葉を紡いだ私の声は、私自身が予想していなかったほどに、情に揺れていた。

呼びかけて初めて気づいたこともある。
彼女の名を声に出して呼ばうのは、どれくらいぶりであったであろうか。
あまりに久しく、私は姫の名を口にしていなかった。それほどに、私は姫と距離を置いていたのか。

―――それを、彼女自身が気づかぬはずもなく。

名を呼ばれた姫は、応えることもままならずその瞳を大きく見開き、その眦を潤ませる。
気を緩めれば涙が堰を切るとわかるのだろう、私に背を向けると、扇を持つ手をぎゅっと握りこんで全身に気を張った。

恋情に揺らいで心をざわめかし、涙に袖を濡らすは一人の女。
さりとて涙を男を繋ぎとめる武器として使うを潔しとしないその姿は、真白な少女のままで。
そんな少女と大人の境目をせわしなく行き来する様は、まさに藤の名に相応しく、春と夏の狭間に咲く二季草。

「―――今一度、時をくださいますか。あなたを、一人の女性として見る機会を」

その言葉に、はっと姫が振り向いた。

今まで己の心に向き合わずにいた私のほうこそ、これが愛かはわからない。
けれど涙に濡れる姫を美しいと想い、私の言葉に微笑んだ姫をとても―――いとおしい、と想う。

眦に浮かぶ涙の雫を唇で拭い、彼女の艶やかな黒髪に口付ける。
惚けたように見つめる姫の頬に手を触れ優しく撫でると、微笑みを向けた。

「……やはり、今宵はお暇いたしましょう。
このままでは、花盗人にならぬと誓った言葉を、違えそうになる」


名残惜しげに触れた手を離し、御簾の外へと退いた。
縁の上に置かれたままの藤の枝をそっと手に取ると、その花房に口付ける。

「―――然れば次の逢瀬は、盗人と相成るやもしれません。
守人か盗人か、その答えが出るときまで……誰の花にもおなりくださいますな」


―――愛しき、私の藤の花よ。




100のお題、No.21「色」
二季草(ふたきぐさ)は藤の異称。
春と夏の狭間に咲き、青(青春)と赤(朱夏)を合わせた紫色の花を咲かせることを由来とします。
「藤裏葉」「夕霧」「柏木」「雲居の雁」はすべて源氏物語から。