葉桜の季節に
白々と東の空が明るさを取り戻し始める、払暁の刻。
風に舞うように花が散る墨染の地で、私は一人、佇んでいた。
『雲の中にいるみたい…。花弁が真っ白で…』
あの日、白く美しく咲き誇る桜の下で、神子殿は微笑んだ。
舞い散る花弁と、二人の間を吹き抜ける春風が、
まるで幻想のように、緩やかに二人を包んだ。
あの時、心が、穏やかになっていく自分がわかった。
兄を失って以来、心にいつも刺さっていた小さな棘が、
まるで氷が春の光で溶けるように消えていった。
どうして…こんなにも私の心に自然に溶け込んでくるのか。
それは、神子殿の優しい心根ゆえであるのだろう。
でも、それだけではないような…そんな気がする。
この心のなかで息づく、暖かくて切ない感情。
でもそれは、気づいてはいけないこと。
…気づかれてはいけないこと。
あの方に、臣下としての忠誠以上の感情を抱いてはならない。
分不相応な想いは…心の奥底に封印してしまわねばならない。
神子殿を主としてお護りするために。
「…久、頼久!おい、聞こえてんのか頼久!」
耳元で天真の叫び声が響き、我に返る。
「ったく、探したんだぞ!」
「…天真?」
「あっ、忘れてやがんのか?朝稽古に付き合ってもらう約束!
探したんだぞ!時間になってもどこにもいやがらねぇんだからな」
「そ…うか、もうそんな刻だったか…。
しかし、よくわかったな、私がここにいると」
「ん?ああ、屋敷中探し回ってたら、あかねが教えてくれたんだ。
『『墨染に行く』と言って出ていったきり、まだ戻らない』ってよ」
ぴくりと、一瞬手が震える。
『あかね』と…、天真は神子殿を呼び捨てにする。
当然といえば当然の事だ。今は私と同じ八葉であっても、
天真と神子殿は対等の友人同士であるのだから。
心に、チクリと棘が刺さる。
それは兄を偲ぶときとは別種の…。
「…すまない、天真。今日は…朝稽古は付けてやれそうにない」
「なんだよ、約束が違うじゃねぇか」
「いいから、向こうへ行ってくれ!!
……すまない。だが、今は…一人にしてくれるか。
夕刻までには必ずもどる…頼む」
「…………わかった」
天真の足音が小さくなり、完全に聞こえなくなった頃、
大きな溜め息を吐いた。
──醜い嫉妬だ。
天真にあたるのはお門違いだ。わかっている。
だが、どうすればいいのだろう。
もはや、自分ではどうしようもないほど、あの方を想ってしまっていること。
自分の知らないあの方の過去を知る天真に、嫉妬をしていること。
そんな、制御できない感情の激しさに、ただ翻弄される。
桜を見上げ…ぽつりと呟く。
「兄上…。私は醜く、弱い人間です…」
夕刻、屋敷へと戻ると、神子殿の部屋から、話し声が聞こえた。
近づくと、中から聞こえるのは、神子殿と天真の声。
「…あかね、そんなに…無理すんなよ」
「心配してくれてありがとう、天真くん…。
やっぱり天真くんにはばれちゃうね…」
「…ま、長い付き合いだしな。
少し…眠れよ。疲れてるんだろ?」
「ううん…。大丈夫。大丈夫だから…」
足音を立てないよう、注意を払いながら、
踵を返し、神子殿の部屋から遠ざかる。
これ以上想ってはいけない。
あの方は…いつの日か帰ってしまわれるのだから…。
そう、きっと…彼と共に。
「頼久…また、出掛けていたのですか」
声のする方を振り向くと、左大臣家の藤姫がこちらをご覧になっていた。
「姫様…。…はい……墨染まで…。
この大事な時に屋敷を離れ、申し訳ございません」
「…頼久、お前が謝るべきは、わたくしではありません」
それだけを言うと、藤姫は屋敷の奥へと戻っていかれた。
姫の言葉の意味を考えているうち、神子殿の部屋から足音が響いてきた。
「頼久…。帰って来てたのか。あかねは…部屋にいる。
疲れてるようだから、傍についててやれよ」
天真の顔を直視できず、視線を逸らしたまま返事を返す。
「……私がお傍にいるよりも、お前がついていた方が良いだろう…」
そうだ。天真なら、きっと神子殿を護り通すだろう。
神子殿が、元の世界へと戻ったあとも…。
私は…これ以上お傍にいてはならない…。
突然、天真が私の胸倉を掴んだ。
「──っ!こ…んの、大鈍野郎!」
「て、天真!?」
「てめぇ、今朝なにを聞いてやがった!
あかねが、あんな誰も起きてやしない朝早くに、
お前が墨染に行ったきり戻ってないことを知ってるってことは、
お前が戻ってくるのを一晩中寝ないで待ってたってことじゃねぇか!」
「──っ!!」
何も…言葉が出て来なかった。
天真はしばらく胸倉を掴んでいたかとおもうと、
ゆっくりと力を抜き、手を放した。
私に背を向けると、傍の柱にガッと拳を打ちつける。
「…俺じゃ…俺じゃ駄目なんだ!
あいつが…あんなにまでして想ってるのは、俺じゃないんだ…!」
天真は私に背を向けたまま、絞り出すように声を出した。
「…行ってくれ、頼久。あいつのことを…頼む」
そしてドタドタと足音を響かせて、走り去っていった。
天真の後ろ姿を見送ると、私は神子殿の部屋へと…足を向けた。
「神子殿…失礼いたします」
神子殿が、驚いたようにこちらを振り向いた。
驚きの表情が、喜びの表情へと緩やかに変化を遂げる。
神子殿は…微かに瞳を潤ませていた。
「頼久さん…おかえりなさい」
明るく微笑むその表情に、確かに徹夜による窶れを見受けられる。
──胸が締め付けられるような感覚が襲う。
「神子殿…、お傍を離れまして、申し訳ございません。
主君に心配をおかけするなど…私は武士として失格です」
神子殿は、困ったように顔を横に振る。
「何度も言ってますけど…、私は頼久さんを臣下だなんて思ってません。
だから、そんな風に言わないで下さい。仕えるとか崇めるとかじゃなくて…
私は、頼久さんと対等の存在になりたいんです」
「は…、しかし…」
何と答えるべきかと考えていると、突然、
神子殿の身体がふわりと倒れ、咄嗟に両腕で支えた。
「神子殿!?神子殿…………眠ってしまわれたか」
徹夜による疲れが、安堵による緊張の緩和で一気に出たのだろう。
私の腕の中で、規則正しく寝息を立てている。
穏やかで、安らかな寝顔。
そっと神子殿を抱きかかえ、寝所に運ぶ。
起こさぬよう静かに横たえると、神子殿の顔をみつめる。
「……頼久さん…」
神子殿は微睡みの中、消え入るような声で、私の名を…呼んだ。
私の中で、はっきりと何かが変わった。
本来ならば、触れる事も叶わぬ不可触の神子。
その神子殿が、私を認め、求めてくれている。
「私は…己惚れてもよいのでしょうか…」
そっと…神子殿の滑らかな肌に指を触れた。
「…やはり、私は武士として失格です。
主君にこのような感情を持つなどと…。ですから…」
触れていた指を離し、きゅっと握り締めると、
眠る神子殿の耳元で、そっと囁いた。
神子殿の部屋を後にし、神子殿に触れていた指をじっと見つめる。
今はまだ、眠る貴女にしか伝えられない。
だが…いつかまっすぐに貴女を見て伝えられるといい…。
そう…きっと、葉桜の季節には…。
その時には…貴女の名前を呼ぶ事を許して下さいますか…?
『……ですから…これからは一人の男として、貴女をお護りいたします…』
初、遙か創作でしたっ!パソコンクラッシュにみまわれつつ、書き上げました。
今回は天真がちょっと損な役回りかな?天地の青龍のコンビ好きなの〜。
今回のお題は桜っ!頼久さんといえば、桜。桜といえば頼久さん!しかし!
ネタ的には鷹通さんとかぶってるような気がします…。おっかしいなぁ。