薄明



赤い月が、中天に昇る。
故郷を遠く離れた異国の地、敵国の宮で、それでも故国と変わらぬ赤い月を、アシュヴィンは見上げた。


なんの運命の皮肉か、一度はこの手にかけることすら覚悟した敵国の姫と、明日婚儀を交わす。
前日…いや、今日の夕刻まで多忙に走り回っていたアシュヴィンも、
明日の早朝に始まる婚姻の儀式を控えてさすがに部屋に留まることを余儀なくされていた。


中つ国軍の輩はこぞって二ノ姫の部屋を入れ替わり立ち代り訪れているらしく、
宮の一角は随分と遅くまでにぎわっているようだった。

元敵軍の皇子であることや不要な馴れ合いを好まぬ彼自身の気性も影響しているのだろう、
対照的に片割れの花婿―――アシュヴィンに宛がわれた部屋へと訪れるものはほぼ常世側の人間ばかりで、
中つ国側の訪いはここ数日途切れがちだった。

―――だが、けして皆無というわけではないらしい。




「―――ほう、これは意外な客人だな」

アシュヴィンは思いがけない訪問者を迎えて、口の端を上げた。

「二ノ姫に会いにいかずともよいのか?
中つ国の連中はこぞって名残を惜しみに行っているようだが」

「用事があるから来たに決まってるだろ。
用もないのに好き好んで男に会いにくるような趣味は僕にはない。
それに別に今夜が今生の別れってわけでもないし」

訪なっておきながら堂々と言ってのける那岐に、アシュヴィンは愉快そうに笑う。
おそらくは自分への用事が済んだら二ノ姫を訪うのだろう。
口では鬱陶しがってはいるが、なんのかんのと他者の世話をやいてる様子は、
短い同行のうちでも何度目にしたかわからない。




「―――これ、あんたにも渡しておこうと思って。
千尋にもそれとなく小物に加工して持たせたけど、あのお転婆じゃどっかで失くしそうだ」

差し出されたのは、掌大の木片だった。

ほらよ、と放り投げられたそれを片手で受け止めると、
やや白みを帯びるそれからは、ほのかに清涼感のある芳香が漂った。


覚えのある香りに記憶の棚の引き出しをあたってみると、ひとつの植物に行き当たる。

「……この香りは……チャンダナか?」

「常世でどう呼ぶかまでは知らないよ。
ほんとは沈香が手に入ればよかったんだけど、豊葦原じゃ望み薄だしな。
それに白檀なら焚かなくても香るから最悪持たせるだけでもいい。―――沈静効果があるから」


不機嫌そうな顔を隠そうともしない少年に、
掌の木片を玩びながら、アシュヴィンは人の悪い笑みを浮かべる。

「薬漬けは感心しないな」

「人聞きの悪い言い方しないでくれる?
それわざとだろ。害のあるもんなんか使うもんか」

普段は他者の干渉を疎んじながらも、こちらの挑発に簡単に噛み付いてくるところは、
大人びた中にも年相応の若さの片鱗を覗かせる。

「ああ、からかって悪かった。これはありがたく頂いておこう。
………そうか、二ノ姫からかすかに香る芳香の一部は、これか」

「沈静って言ったって、気休め程度のものだけどね。
……それでもやらないよりマシだから」


那岐は自分の前髪をくしゃりと無造作に掴んだ。
香の効能など、本当に気休めにしかならない。
いつ踏み外すとも知れない危うい精神の均衡を保つに、戦場ほど不向きの場所もそうない。

―――これくらいのことしかしてやれない自分の無力が、歯がゆいほどにもどかしい。


はあ、とため息をつくと、髪を掴んだ手を袍のポケットに突っ込んだ。


「千尋は、ほっとくと無茶ばかりするし、
その無茶に派手に周囲を巻き込んでくれるからね。
じゃじゃ馬に振り回されるか、首根っこ押さえとくかの二者択一だと覚悟しておきなよ」

「………含蓄のある忠言だな」

経験に裏打ちされた那岐の言葉にはそれなりの説得力を感じさせる。


「できれば、二度と戦場に立たずに済むように手綱をとってくれるのが一番なんだけど」

まぁそこまでは期待してないよ、とひらひらと手を振った。
彼の遠慮のなさはかえってアシュヴィンには愉快であるらしく、ふ、と口の端が上がる。

「努力はしよう。―――もっとも、あの姫が、
責務を他者にまかせてそれでよしとする珠とも思えんがな」

「………優しすぎるんだよ、千尋は」


自らに付き従う多くの兵たちを見捨てず、失われていった命に責任を持ち、
王家ただ一人の生き残りとして国を守る義務を自らに課した二ノ姫の人柄が、
那岐のその一言から垣間見える。


「あの姫はたしかにお人好しの過ぎるきらいがあるが、けして愚かでも無能でもないぞ。
そんなことは、お前たちのほうがよほど理解していると思っていたが」

「…………わかってるよ」

無茶だ無謀だと、何度千尋を諌めたかわからない。
けれど結果としてその殆どは、現実として成したものばかりだ。

「成せると判じ、仲間の力量を把握し、策を執り、軍を率いて、そして成してみせる。
お飾りの姫には出来ん芸当だな」

「今にして思えば、愚かで無能なお飾りの姫でいてくれたほうが、よっぽど気楽だったけどね」


自ら先陣を切り、矢面に立ち軍を率いるその勇姿にどれだけ兵が勇気付けられているか知っている。
国を想い、命を慈しむ優しさに、どれだけの忠誠を向けられているのかも、肌で感じている。

―――そしてそれが、どれほどに千尋の命を危険にさらすのかもまた。

そんな歯がゆい思いを幾度飲み込んできたか。



「………そう、だな。その心境は、わからんでもない」

その応えに、那岐は意外そうに片眉を跳ね上げた。
アシュヴィンは、窓ごしに中天を過ぎ始めた赤い月を見上げる。
宵闇の向こうに見る幻は、笹百合の園でひととき互いの立場を越えて語り合ったあのときの、二ノ姫の姿。

「戦場で凛と佇むのも鮮やかで美しいが、
あの姫には花の中で微笑んでいるほうが似合いだろう」

「アシュヴィン……」




親切に言ってやる気はさらさらないが、
千尋は間違いなくこの男を異性として意識しかけている。
そして、おそらくは千尋以上にはっきりと、アシュヴィンは千尋に好意を持っている。


―――いっそ、本当に政略ずくなら、千尋を連れて逃げることに躊躇いも覚えなかったのに。



那岐は、用は済んだとばかりに踵を返して扉に手をかける。
そしてアシュヴィンに背を向けたままぽつりと呟いた。

「―――僕は、常世や中つ国がどうなろうと、知ったこっちゃない。
極論を言えば、千尋さえ無事なら、二国が諸共に滅びたってかまいやしないんだ。
ただ千尋が望むから、力を貸して来た。千尋が願うから、共に戦ってきた。
でも、常世では僕たちの力の及ばないこともたくさんあるだろ。
だから……………」

那岐はそこで一度言葉を切った。
覚悟も理解もしたはずなのに、その一言を直接言葉にするのは重かった。


「…………だから、千尋を大事にしてやってくれ」

絞り出したその言葉に対する応えは、思いのほか真摯だった。

「ああ、死なせない。俺の力の及ぶ限り、守ってみせるさ」









那岐がアシュヴィンの部屋を辞したのちしばらくして、再び扉が叩かれた。

「…………今夜は千客万来だな」

扉の向こうに立っていたのは、昔馴染みの土蜘蛛の青年。
入るように促すと、遠夜はその長身を部屋にすべりこませた。
椅子を勧めればちょこんと足を揃えて座り、アシュヴィンと大差ない身長の体躯が、実際よりも小さく見える。
小動物のような所作は、かつて命を救われた幼い頃の面影とちっとも変わっていない。

「そういえば、お前とゆっくり話す時間もなかったな」

明日からは、また忙しくなることは想像に難くない。
すべてが戦がらみで動く情勢の中、目の前の青年と敵として刃を交わしたのも、記憶に新しい出来事だ。


「土蜘蛛は中つ国の軍ではあまり歓迎されていないと聞いたが。
二ノ姫は、お前に良くしてくれるのか?」

アシュヴィンの問いに、遠夜は笑顔で頷いた。

(神子も……皆も)


「そうか。お前はこの軍で信頼を得たのだな。重畳なことだ。
俺には羨ましい限りだな。俺は一から信頼を培わねばならん」

―――なにしろ、つい先日まで刃を交わしていたような『仲』だからな。

そういって苦い笑いを零すアシュヴィンを、遠夜は物言いたげな眼差しで見つめる。
その視線から逃げるように、アシュヴィンは顔を背けた。

「再会してから、お前にはそんな顔をさせてばかりだな。
心配するな、上手くやるさ。お前の大事な神子殿も、力の及ぶ限り守ると先刻約定を交わしたばかりだ。
もっとも……全ては二ノ姫次第、だがな」




「―――おしゃべりが過ぎたな。
もう月もかなり傾いた。お前も休め」

そういって席を立ち踵を返すと、何かに引っ張られる衝撃で足を止める。
振り返れば、遠夜が外套の端を握って、アシュヴィンを引き止めていた。

「まだなにか釘を刺すことでもあるのか、遠夜?」

アシュヴィンが問うと、目の前にすっと差し出されたものがあった。


その一瞬に感じた柔らかい芳香は花の香り。
花弁を揺らす鮮やかな花を集めた、小さな花束。




(……アシュヴィン…………幸せに)


声は聞こえずとも、その優しい微笑みが伝えるものは千の言葉に勝る。


「遠夜………」

思いもかけない祝福に、アシュヴィンは言葉に詰まる。





遠夜が部屋を辞したのち、アシュヴィンはしばらくの間その花束を見つめていた。
手近な器に水を張り、花を生けると殺風景なその部屋が、途端に色彩を帯びた気がした。
赤い月の月光が、白い花をほのかに薄朱に染める。


「………幸せに、か」



―――戦のための婚儀だ。
当事者の幸福など、真っ先に無視されるシロモノだ。
政略結婚とはそういうものだと承知していたし、おそらくは二ノ姫もそうだろう。
いずれか片方に個人的な好悪の情があったとしても、そこに感情が入り込む余地はない。
………少なくとも、アシュヴィンはそう考えていた。

必要とあらば進んで戦場に立ち、互いの窮地を知らぬままで敵刃に命を散らせることもあろう。
よしんば共に生き延びたとしても、事態の変遷如何では解消されうる、危うい関係だ。

いつか、あの龍の姫を手放さねばならぬ時がくるであろうという自覚は、
好いた女を手に入れるとはいえ、手放しで事態を喜ぶ気持ちにはなれていなかった。


鼻腔を擽る花の香りは、そんな複雑な心うちを慰めるかのように優しい。


「………はなからあきらめることもないか」

婚姻が決まってから時を惜しむように根回しに走り回ったのは、
政略がらみのこの婚儀に、より多くの意味を持たせたかったからだ。
婚姻が重要性を増せば増すほど、あの娘をこの手の内に留めておけると考えたことも事実だ。

それに、あの姫が生涯自分を疎んじると決まったものでもない。

「戦に勝ち、平和を手にしてなお、幸福を求めることが出来れば、重畳だな」


心の靄が晴れたその瞬間、窓から一条の光が差し込んだ。



「―――夜明けか」


東の空は色を変えはじめ、ほどなく宵闇を祓う白光が姿を現す。
昇り始めた白き日は、常世に鎮座する黒き禍つ日をひととき忘れさせるほどに眩かった。


そして赤い月は、暁に溶ける。
陽光の差し込む窓辺の傍らで、白い花弁が朝の風に揺れた。









100のお題No.2「夜明け」。結婚前夜のアシュヴィン。
ゲーム中の結婚イベ直後の那岐がずいぶんとさっぱりとしてたので前夜にこんな会話があったんじゃないかなぁなんて妄想してみた産物。
そして千尋を祝福してくれる遠夜にアシュヴィンも祝福させたかったという趣味の産物(笑)書いててちょっとアシュ遠ぽいなとか思ったのは内緒だ(言ってる)
アロマテラピーネタは、植物に詳しい那岐なら千尋のためにこれくらいはしてそうだな、と。うっかり後半に花束持ってきたもんだから香ネタ広げられなかったのが心残り。
チャンダナは常世での呼び方ちゅーかサンスクリット語ですね。常世はインド世界観みたいなんで。
白檀を選んだのは沈静効果がある香木のうちで遙か4の世界観でも入手できそうなものっていうとこれしか思い浮かばなかったからです。すいません、勉強不足丸出しです。