銀簪



使いを終えての黒谷からの帰り道。
秋の気配はだいぶ近くなり、日が落ちる速さも加速をつけだして、すでに夕空の名残も西の空にかすかに赤みを残すばかり。
夜の領分に片足を突っ込んだ暗がりをとぼとぼと歩くその足取りは、いつになく重い。



常ならば総司と別行動はあまり好まない事態なのだが、今このときばかりは総司のそばにいることがいたたまれなかった。


屯所へまっすぐ帰るには、懐のものが重すぎる。

橋の側近くの土手を降りて、セイは川辺でしばし水面を見つめた。
さらさらと耳に心地よく響くかすかな水音は、みっともなく狼狽する心を、緩やかに落ち着かせてくれた。
袷から懐紙の包みを取り出し包みを開けば、そこにあるのは一本の簪。


挿すつもりがあったわけではない。けれどこんなものを持つことは、ただの自己満足だ。
総司の言うとおり、自分にどこかまだ女子が捨てきれていない証だ。

セイの覚悟を受け止め、セイの意を酌んで隊に置き続けてくれた総司に、顔向けが出来ないことこの上ない。

「……ばかだ、私……」

セイは涙を溜めて、手の中のそれをぎゅっと握り締めた。
ぱた、とこぼれた涙が滴り、銀の雫となる。
名残を惜しむように胸に押し戴いたそれを、次の瞬間、夜闇に放り投げた。

ちゃぽん、と水がはねる音が哀しく響く。
未練も甘えも、この川の流れとともに流れさってくれればいい。

セイは手の甲でごし、と涙を拭くと、パン!と頬を叩いて気合を入れた。

「―――よしっ!気持ちを入替えろ清三郎!」

威勢良く啖呵を切ってざっと踵を返して屯所へと足を向ける。
ことさら意識的に前のみを向こうと気を張ったセイは、橋の欄干の上からその姿を見ていた人影に気づくことはなかった。





夜闇に溶けていく小さな背を見送って、その人影は入れ替わるように土手を降りる。

総司はいつもより帰隊の遅いセイをを案じて、過保護かと思いながらも迎えに出ていた。
当初の目的からすれば、立ち去ったセイの後を追うべきだろうが、思いがけず目撃した常ならぬセイの様子と、川に投げ捨てられたものがどうしても心に引っ掛かっていた。

「……神谷さん、いったい何を……」

川に提灯をかざしてみるが、夜の闇に紛れ何も見えはしない。
総司は少し思案したあと、提灯を持ったまま袴の裾が濡れるのも構わずざばざばと川へ足を踏み入れた。
橋の上から見た、セイの立っていた場所と投げられたものの飛距離、それを目算しておおよそのあたりをつけて川のど真ん中で提灯を掲げる。

流れてしまったかな、と諦め半分でぐるりと首をめぐらすと、視界の端にチカ、と淡く反射する光を捉えた。







「え、沖田先生いらっしゃらないんですか?」

屯所へたどり着いたセイは、当然いると思っていた人物の思わぬ不在に困惑していた。
昼に巡察へと出たはずの一番隊は、当然今日の夜は外に出ない。
休息所も持たない総司は用事さえなければ殆どを屯所で過ごしているはずであるのに、夕刻出たきりもどらないという。

「………沖田先生、いったいどこへ……」



「―――総司なら、先刻会ったぞ?」

背後からかけられた声に、ばっと弾かれたように振り向くと、井上が頭をかきながら屯所の門をくぐるところだった。

「本当ですか、井上先生!」

「ああ。夜の間は戻らないかもしれないが赴くところがあると……ええと、どこへ行くと言っていたかの、たしか……」

井上は顎に手を当てて記憶を手繰る。
そして告げられた地名に、セイは我知らず胸元で手をぎゅっと握りこんでいた。


耳にする機会もとんとなくなっていた。
……けれどその地の名は、忘れようにも忘れられるはずはない。

「―――朝までには必ず戻ります!」

それだけを井上に叫んで、セイは屯所を飛び出した。






―――行ってどうしようというのだろう。

心のうちで呟きながらも、足は休みなく進む。
総司が一人でどこかへ赴くというのは、別に珍しい話ではない。それに相応しい権限も力も持っている人だ。
だが井上が告げた総司が赴いたというその場所は、西本願寺からけして近いとは言えず、しかも隊にとっては直接の関わりもない。
そして、そこに深い所縁の在るのはセイただひとりだ。無関係だとはどうしても思えない。


杞憂ならばいい。
あなたは何をしているのですかといつものように叱られてそれで終わりだ。
けれど万が一にでもセイの関わることの何かであれば、時が過ぎるのをただ待つなど出来るわけがない。





「―――………っ」

歩を進めるごとによみがえるセイの記憶に残るとおりの風景に、休みなく進んでいた足の動きが鈍くなる。

たどり着いた先は―――頂妙寺。
自然、セイの面差しは粛然としたものとなる。


この界隈にも、あれから随分と人の移り変わりもあっただろう。
どれだけの人が、頂妙寺の片隅に富永という名の医家があったことを覚えているだろうか。
襲撃当時の焼け跡はすっかり片付けられ、今では焼けた跡がかすかに残る土にその名残をとどめるばかり。
けれど過去の出来事として思い出とするには、まだ生々しすぎる悲しみの―――喪失の地。

そしてその焼けた土の上に、尋ね人は佇んでいた。

何をするでもなく、ただそこに立ち尽くす男の姿。
セイのいる場所からは後姿しか見えない。
だが、いつなんどきも見つめ続けてきたその背をセイが見紛うはずはない。



「―――………か…みやさん!?」

背後の気配に気づき振り向いた総司は、その視線の先にセイの姿を認めると、遠目にもそれとわかるほどに狼狽に顔を紅く染めた。
そしてその手に握られているものを目に留めた途端、セイの大きな瞳がさらに見開かれる。

「それ―――!」

「わ!?」

セイは総司の手からそれを奪い取ろうと追いかけ、総司も取られまいとかわし続ける。
はたから見るものがいれば犬のじゃれあいのような、けれど本人たちには真剣そのものの攻防がしばらく続いた。

「捨ててください!折って!砕いて!鋳潰して!」

「―――嫌ですッ!!」

必死に叫ぶセイの言葉に、総司の怒声が返った。


手を伸ばし追いすがるセイの右手首を、総司の左手が握り締めた。
ばたばたと暴れるセイの耳に、動揺を隠せない総司の声が響く。

「―――あの、やっぱりそういう意味なんでしょうか」

問いかけながら、総司はもう片方の掌で簪を握り締める。


その銀の平打に彫られた模様は木瓜。
セイの元々の紋は―――富永家の紋は、木瓜菱だと聞いたことがあったので、一目見たときにはそれだと思った。
けれどよくよく見ればその紋様に菱と言える鋭さはなく、丸く広がる木瓜の紋。平打の丸枠も相まって、その紋はまるで―――

「―――――やっぱり、これはわたしの……?」






『自家の紋を挿す武家のお嬢はんとはちぃと違うんよ。
―――男はんの紋を平打にして挿すんは、惚れたその人への貞節の誓いなんえ?』


芸妓の間のその風習を里から聞いた今では、この手の中の簪をただの装身具と受け流すことなどできない。

総司の問いかけに、彼がその意味を悟っていることを察し、セイは身体を強張らせる。
互いの間に横たわった沈黙が、双方への雄弁な答えとなる。


総司に手首を捉えられたまま、セイは俯く。
自分の力では振りほどくことも叶わない力の差が、歴然とした男女の差を突きつけるようで悔しさに涙が滲む。

「……神谷さん」

「―――捨ててください」

俯いたまま低い声で呟かれるセイの言葉に、総司は切なく心の臓を締め付けられる。

「捨てなくては、なりませんか」

「―――それを持つならば、私は女子だと、隊を出ろとおっしゃるのでしょう!?」

「………わかりません」

捉えていたセイの手首をするりと手放す。
じっと手の中の簪を見つめて、胸元へと押し戴く。



「わたしにもわからない。あなたにどうして欲しいのか。
……考えても考えても答えが出なくて……だから、ここに来たんです」

総司のその言葉に、セイの脳裏に最初の疑問が首を擡げる。

「そ、そうですよ。沖田先生、どうしてこんな………ところ、に」

この地を意識するほどに身体の奥底から溢れ出る感情に押し流される涙を堪えきれず、ぽろりとセイの眦から真珠のような雫が一粒こぼれるのを見て、総司は困ったようにセイの頬を撫でた。

「……あなたには、まだつらい場所でしたね」

セイははっと自分の目を拭うと、いいえ、と首を横に振る。

「私の意思で来たのですから、気遣いは無用です。
……でも、何故ここに」


セイが家族を失った場所。
総司が初めて自らの刀で人を斬った場所。
そして―――



「―――私が……たった一度だけ、『富永セイ』と逢った場所だから」









瞳を閉じれば今でも思い出す原風景。
今は遠き江戸の春、市谷八幡での桜の精との出会い。
だがあれは宗次郎のものだ。

隊に在るのは女子であって女子に非ず、武士の清三郎。
幾度かまみえた女子姿も、あくまで変装の域を出るものではない。


「沖田総司」が真実の意味で「富永セイ」という女子に逢ったのは、後にも先にもあれきりなのだ。



「……ここでだけはあなたを……女子のあなたを想っても、許されるような気がして」

「女子の、って……だって、沖田先生」

総司は我侭を咎められた子供のような表情でセイから顔を背ける。

「そーですよ言いましたよ武士が簪持つなって。
………そのわたしがどのツラさげて、嬉しいなんて言えるんですか……」

驚きの表情でセイが見つめたその顔は、耳まで真っ赤だ。


「……ほんとうに、自分の心が分からないんです。
あなたに近くに居て欲しいのか、隊を出て安全なところで幸せを掴んで欲しいのか。
どっちも本当で、どっちもどこか違う気がして……」

今までなら、躊躇いもなく後者を選んでいた。
けれど彼女の心が自分にあると知って、それに歓喜を感じてしまった瞬間―――道は靄の中に霞んで。



「せん……」

言い差したセイの髻に、すっと簪が挿し込まれた。

「持っていて、くれませんか」

セイは挿されたそれに指で触れる。
あのとき、身を切る思いで手放したはずのもの。

二本を差した袴姿に、月代のある頭。そこに女物の装身具が似合うはずもない。そしてそれ以上に。

―――真実求めていることを、穿き違えてはいけない。



「私は、簪を挿す姿を捨てて、二本を差す姿を求めたのです、先生」

総司に背を向けたセイは、元結に挿された簪を引き抜いた。
それを寂しそうに見て、総司は苦い微笑を浮かべた。

「神谷清三郎は、武士です。武士に簪など必要はありません」

「………そう、ですね。……でも………」

簪を握るセイの手を、背後に立つ男の大きな手が包み込む。

「―――この簪は、あなたに持っていて欲しいんです」

他の誰の手にあっても、意味はない。
そして彼女がこれを手放してしまうことは、とても切なくて。

自分の言っていることが、我が侭以外のなにものでもないことは承知している。
セイは自分の心と願いとをきちんと秤にかけて、捨てるべきは捨て、求めるものを選び取ってきたのだ。

けれど灯ってしまった炎は、もはや見ぬふりを出来ないほどに存在を誇示して、出口を求めて胸の奥で踊りうねっている。


「―――神谷さん」

呼びかけに振り向いた少女の身体を、総司は唐突に抱きしめた。
すっぽりと腕に収まる小柄な身体は、彼女が女子であることを今更のように意識させる。

「せん……っ」

抗議の声をあげようとしたセイの耳元に、今だけです、と呟くと途端に少女は抵抗をやめて、されるがままに腕の中に収まってくれた。


「何もしません。あなたの枷や未練になることは何も。
……でも今宵だけ……この場所にいる間だけでいい。女子としての貴女を想わせてください」


―――今宵、一夜だけ。かつてセイと総司の運命が交わった、この場所でだけ。
それをすぎれば、再び男同士の二人に戻る。
だから、今宵このときだけ、胸の焔が灯す光に酔わせてほしい。


「……それでは、私がひとりの女子としての心に従うことも、今宵だけは見逃してくださいますか」

それは形を変えた受諾の言葉。
おずおずと総司の背に小さな手が伸ばされる。

そして月の光だけが降りそそぐ中、一夜だけ―――いや、一時だけの恋人たちが、互いの温もりを求めて抱き合っていた。





愛しい男の腕の熱に酔いながら、この銀簪は捨てるまい、とセイは心に誓う。
それはこの想いを許されたからではなく。


なにより総司のそばにいるために、女子を捨てた自分の想い。
セイの枷にならぬために何もしないと誓った総司の想い。


それを忘れぬための、心の楔として。






―――女子の誓いは無言の誓い。銀簪は、心の楔。
想いも誓いも黒髪とともに結い上げて、銀の楔を穿つのだ―――



なんとなく、総司の紋(四方木瓜)と富永家の紋(木瓜菱)って似てるよなと思ったのがネタのでどころ。でも似てる設定は全然活かせてませんけど。
木瓜と一言で言ってもいろんな種類があるそうで、花梨とかキュウリとかマルメロとかパパイヤとか。(どんどん和から離れていくな)
でも総司の場合は、木瓜(ボケ)の木じゃないだろか。なので背景もボケをチョイス。ダジャレオチかい。

でも家紋の木瓜は植物無関係で、鳥の巣が元だとか。家紋の見た目ほとんど花なのにねー。