あなたの傍にいたいから
年も越し、春を迎えた京は、雪解けの水が流れるようににわかに賑わい始めている。
少しずつだけれど、荒廃が薄れていっているように思えるのは、気のせいではないと信じたい。
時は、如月の末。
京の下町で、望美と共に落ち着いた暮らしを始めてから、半年ほど。
弁慶は、戦が終わるのを契機に、薬師として京の下町に腰を据えて暮らしていた。
けして広くはない長屋の奥では、望美が井戸から水を汲みあげ、慣れないながらも料理に勤しんでいる。
今でこそ、日々、進歩が見えるが、最初のうちは胃薬調合してから挑んでいた。
そんな幸せな悩みを抱えて、嘘のような穏やかな日々を、過ごしていた。
戦が終わり、京の街は活気を取り戻しつつあり、そして――望美が傍にいる。
罪人である自分がこんなに幸福でよいのかと思うほど、満ち足りた日々だ。
弁慶は、壁に掛けた暦に視線を巡らせると、部屋の片隅の文机から箱を取り、
そこから幾つかの紙片を取りだして、机に向かって作業をし始めた。
仕事の合間を縫っては少しずつ作ってきた「それ」は、だんだんと形になってきていた。
最後の仕上げを黙々と進める弁慶の後ろ姿を、長屋の奥から見つめる瞳があったが、作業に没頭している弁慶が、それに反応を返すことはなかった。
それから数日後。暦は弥生に入っていた。
季節の変わり目には体調を崩した患者が増える。朝から診療を続けていて、
ようやく身体が空いたのは、太陽は殆ど山の向こうへと沈み、
あと一刻もすればすっかり闇が支配するであろう時刻。
「弁慶さん、もう夜ですよ。こんな時間に出かけるんですか?」
外套を羽織り、こっそり外出の身支度を整えていた弁慶を、望美が見咎める。
弁慶は悪戯を見つかったような子供のように肩をすくめて、見つかってしまいましたか、と笑う。
「ええ……ちょっと、鴨川まで少し。
昼は忙しかったですからね。でも今日のうちじゃないと意味がないので」
弁慶の言葉に、望美は少し不満げに頬を膨らませる。
一日中めまぐるしく働いて、ようやく二人で落ち着ける時間がとれたと思ったら出かけてしまうのでは、不満も積もろうというものだ。
「……じゃあ、私も行きます。いいですよね?」
京のやや東を流れる鴨川の川辺を、二人で歩いていた。
空は既に宵闇の色。
夜になると暗闇に足元が不便になることもあって、普段はこんな時間には人影もほとんどないのだが、
今夜はぽつ、ぽつ、と人影がまばらに見える。
宵闇の中でも人影だと判別できるのは、その人影たちが皆一様に灯を灯した蝋燭を持っているからだ。
さらさらと水の流れる川辺で、弁慶は手頃な場所を見繕って足を止める。
きょろきょろと周りを見回しながら、望美は多くはないとは言え明らかに普段と違う人出に、首を傾げていた。
「――弁慶さん、今日は何か特別な日なんですか?」
「ええ……今日は上巳の祓(はらえ)の日ですから」
そう言って、手元の燭台を川原に置くと、弁慶は懐を探る。
懐から取り出されたのは、弁慶が折を見ては造っていた紙の人形。
「人形(ひとがた)に穢れを移し、川に流して、穢れを祓うのが上巳の禊祓なんです」
その説明を受けて、望美がああ、と納得して頷いた。
「流し雛ですね。私の世界にも風習として残っている土地は結構ありますよ」
弁慶は手の中にある、自分が手ずから作った紙の人形に視線を遣る。
「今日が上巳なので、禊祓をしておきたかったんです」
弁慶は人形を身体に当てて目を閉じる。
身に触れさせることによって、人形に穢れを移すのが上巳の禊祓だ。
額に触れ、腕に触れ、胸に触れ……弁慶は、ことさら丹念に人形を自分の身体に触れさせる。
その、どこか鬼気迫る様子に望美は眉を顰めた。
「弁慶さん」
弁慶の腕にそっと手を添える。
「……弁慶さん、もう、いいから」
そう言って、優しく笑いながら首を横に振る。
添えられた手の温かさに顔を上げると、その己の動きのぎこちなさに、弁慶はようやく自分の身体が強張っていたことを悟った。
「……望美さん……」
ゆっくりと呼吸をくり返し、身体の力を抜いていく。
人形を持った腕をそっと下ろすと、望美は弁慶の腕から手を離す。
ふうっと肺の中の空気をはき出すと、弁慶は手の中の人形をじっと見つめると、それを軽く握り締めた。
「この人形は……僕の罪の穢れが少しでも減るようにと、祈念して作りました。
僕は、望美さんの傍にいるに相応しい身ではありません……」
「うん。そう考えてるんだろうなって、思ってました。
人形を作ってたときの弁慶さん、少し思い詰めた表情してたみたいだったから」
弁慶は望美のその答えに驚いたように目を瞠る。
継いで、困ったような、可笑しいような、そんな感情がない交ぜになった表情を浮かべた。
「君には、本当にかなわないな。
必死で取り繕っていても、君にはいつも見透かされる」
俯いて苦笑を零す弁慶の顔を、望美は下から覗き込むように視線を合わせる。
「相応しいとか、相応しくないとか、そんなの関係ないですよ?
それとも、もう私を傍に置きたくなくなりましたか?」
「そう思っていたなら、最初からこんな人形、作ったりしませんよ」
その弁慶の答えに、望美は満足したように満面の笑顔を浮かべる。
「じゃあ、なんの問題もないじゃないですか。私も弁慶さんの傍にいたいんだもの。
それに、もし弁慶さんが罪で穢れていたとしても――」
そう言って、望美はぽすっ、と弁慶に抱きついた。
「――こうして、触れててあげます。神子なら穢れを祓えるんでしょ?」
京に仕掛けられていた呪詛の穢れと、罪の穢れを同一に括ってよいのか、望美にはわからない。
けれど、穢れていようがなんだろうが、それがどうだというのか。
望美が好きなのは、弁慶であることはかわらないのだから。
板きれに手作りの人形を置き、蝋燭に火を灯した。
板きれを押しやり、ゆっくりと河の流れへ乗せる。
水面を漂い始めた人形は、ぼんやりと蝋燭の火に照らされていたが、
流されて行くにつれ、そのうち夜の闇にぼやけて見えなくなっていった。
弁慶は、ほんの少しだけ自分の穢れを持っていった人形を見送ると、傍らに立つ望美へと視線を巡らせる。
同じように人形を見送っていた望美の手に、弁慶はそっと自分の手を重ねて指を絡める。
その仕草に、弁慶を見上げてきた望美に柔らかくほほえみかけた。
「……今更ですが、改めて。
望美さん。こんなふつつか者ですが、末永く、どうぞよろしくお願いします」
その言葉を聞いて、望美は思わず吹き出す。
「やだ、それじゃどっちがお嫁さんだか分からないじゃないですか」
「ふふ、そうですね。でも、今日のことでよくわかりました。
主導権は、いつだって君にありますから」
「むー。そーかなぁー。私、いっつも弁慶さんの手のひらの上で踊らされてるような気がしますけどー?」
そんな微笑ましい問答をくり広げながら肩を並べて夜道を歩き出した二人の姿を、
京の街に浮かんだ月がぼんやりと照らしていた。
今宵は、弥生の巳の日。
――穢れを、清めし宵。
3月3日、まさに上巳の日生まれで火属性のアスカさんに捧げます。
五行思想では、朱雀の火に属する節句がこの上巳……現代の雛祭りです。
陽の陽、火の気をまとう離の八卦をもつヒノエのほうが、上巳ネタとしては相応しかったかもしれませんが、弁慶さんもとりあえず朱雀だからセーフだろうと。
ていうかアスカさんが弁慶スキーだから。
ヒノエは別当で、半僧半俗の身なので神事も取り仕切りますから、熊野でも盛大に上巳の禊祓やってんだろーなー。
曲水の宴までやってたりして。
荒々しい海の男たちがやる曲水の宴……うわ似合わねぇ!
そして自分でツッコミ。しおらしく謙虚な弁慶は偽者に見える。
白弁って、こんなに偽者くさかったのか……っ(笑)
かといって、黒弁は自分では書けないしなー(笑)